愛された人
砂利を踏むと軽快な音がする。
まだ舗装されていない道へ入って進んでいくと、木造家屋をプレハブで補修した掘立て小屋が見えてきた。
スミルノフ家の玄関には靴が雑然と散らばっていた。
湿った木の匂いが鼻をつき、一歩を踏み出すたびに床がみしみしと軋んで不安になる。
前を歩くダビドが付け加える。
「そこ、床から釘があるから、上を歩くなよ」
前を歩く広い背中を、まじまじと見つめてしまう。
あからさまな罠を放置してるのか?
もはや危険を危険とも思わなくなっている感じがする。
「早めに修繕しなよ。錆びた釘を踏んで破傷風になっても知らないからね」
「おまえさあー……わかんない言葉で、えらそうに喋んなよ」
「破傷風程度も知らないのか? 知らないなら今覚えろ」
「おぼえても、忘れる」
鼻で笑うと、諦観を含んだ声が返ってきた。
玉すだれをくぐってキッチンに入る。
ニンニクやチーズのような何だか分からない匂いが漂っていた。
タイル張りの壁は油で黒ずんでいて、電化製品はどれも古びている。
食器は揃っておらず、錆びた鍋からは金属臭が漂っていた。
スパイス棚には擦れた缶詰の瓶が並んでおり、キリル文字や英語のラベルがかろうじて読める。ボルシチの素、プロフの素。
唐突に帰宅してきた息子を見て、彼の母は皿洗いの手を止めて目を丸くした。
逞しく太った体型をしていて、灰色の髪を短く切り揃え、フラワームーブメントを引き摺ったような小花柄のワンピースを着ている。
彼女は低い声で、学校のサボりを叱っているようだ。
けれどダビドは時折笑っていて、家族仲はよさそうに見える。
「Давид, принеси чай 」
「お母さん……友達、いるから、日本語、話して」
大きな掌がテーブルを軽く叩くが、彼女は困った顔をするだけだった。
あえて無視しているというよりは、息子の頼みを理解していない。
硝子島の経済は漁業や観光業が中心で、よそ者の就職は難しい。
さらに外国人ともなればそもそも文化的な差異が大きく、島民から異物として扱われてしまう。
日本語が話せれば彼らも少しは息がしやすくなるだろうに、どうして頑張ろうとしないんだろう。
台所の狭い机に目をやった。
山積みにされた書類の一番下に日本語教室の教材が置かれている。
やけに新品でカバーが艶々しており、とても使われているようには見えなかった。
勉強する時間が取れないのかもしれない。
スミルノフ家の母はずっとしかめ面のままだ。
日本語も英語も話せないか、あるいは拙いのだろう。
ただティーポットを何度も拭いて、紅茶とお菓子を用意してくれたので、歓迎されているとは分かる。
彼の寝室に入ると、畳の剥がれた隙間からは黒いカビが覗いていた。
ちらりと腕時計を見ると、もう十六時だ。
紅茶の湯気が眼鏡を曇らせる。
「このクッキー何?」
「お母さんがくれた」
不思議な匂いのするクッキーを、恐る恐る一口だけかじる。
ザクザクした歯触りのあとに、口の中ではちみつの味わいがじんわり広がる。
壁には大きな穴があいており、周りにはひびが入っていた。
「ひどい穴だな。せめて塞がないのか?」
「それ、おれが開けた穴。お父さんに、穴開けるなばかヤローなおしやがれって言われて、朝まで大喧嘩」
彼は壁の穴を軽く叩いて、まるで武勇伝を語るかのようににやりと自慢げに笑う。
呆れてしまった。
「きみが物に当たったせいじゃないか……」
するとダビドは肩を少しすくめ、軽く笑いながら漏らす。
「だって、人は殴りたくないし」
彼の台詞に思わず動きを止めて、それから俯いた。
ティーカップに並々と注がれたお茶の水面に、ぼくの顔が映っている。
湯気でぼやける自分の顔。
そうか。彼は家族を殴りたくないんだな。
その穴の上には、ダビドとは似てもつかない幼児の写真が飾ってあった。
ふわふわした巻き毛で頬がふっくらしている。
額のガラスは光っていて、大切に手入れされているとうかがえた。
「きみ、小さい頃と全然顔が違うんだね」
ぼくが写真を見上げていると、ダビドが急に黙り込んだ。様子がおかしい。
「これ、きみじゃないの?」
「……おれじゃない。アレクセイ。おれのお兄ちゃん」
「でも、きみは一人っ子だろ?」
彼は返事もせず立ち上がって、写真の額を裏返す。
指先でわずかに額の端を撫でてから、壁にぐっと押しつける。
「アレクセイは……お父さんとお母さんが、日本に来る前に、死んだんだよ。おれは、その後に生まれた」
兄の遺影を下ろし、ダビドが低く呟く。
遺影を元に戻すことはなくそのまま畳に座り込んだ。
チャクチャクを齧りながら、無言で紅茶を啜る。
「お父さんも、お母さんも、日本に来たくなかった。お兄ちゃんに生きてて欲しかった。本当は、おれのことはいらないんだ」
古びた畳に視線を落としたまま、ダビドが漏らした。
見れば、スミルノフ家に飾られている写真は色褪せたものばかりだ。
ダビドと思しき灰髪の子どもが写っている写真立ては一つもない。
美保さん曰く、スミルノフ夫婦は、難民として越してきてから十五年近く経っているらしい。
しかし彼らは未だに島に馴染めない。
馴染もうとしていない。
それは、スミルノフ夫婦は日本に馴染むためではなく、戦火を逃れるために来たからではないか?
夫婦の本当の人生がある場所は未だ終わらない戦争が続く祖国。
彼らの宝物は、戦火によって失われた故郷、長男アレクセイ、過去の幸福な生活。
仮住まいに馴染む行為が、かつての思い出を手放してしまうように感じるのだろう。
それに対して次男ダビドは、過去の幸福な記憶の後付けにすぎない。
新天地日本で生まれ育ち、日本の生活に馴染み日本の学校に通う。
考えてみれば『ダビド』という名前だって、兄の名前に比べれば、ルーツを持つ祖国らしいとはいえない。
彼の母親は息子のために紅茶を淹れた。
けれど、どんなに優しくされても、スミルノフ夫婦の時間はすでに過去の幸せな時間の中で止まっていて、ダビドはその時間の外側にいる。
だから、壁に飾られているのは生きているダビドではなく、見知らぬ兄の写真だ。
壁にあいた穴をもう一度見やる。
ひしゃげて歪んだ穴は、彼自身の孤独や怒りの叫びのようにも見えた。




