金曜午後の小さな革命
小学校の頃、講堂でとある外国映画を観た。
喘息持ちの少年が愛犬とともに砂漠で遭難する映画だ。少年は蛇や蠍に襲われ、原住民と対峙し、最後は蟻地獄に落ちる。
灼熱の夏が来るたび、砂漠であてもなく彷徨う喘息少年と、自分の姿を重ねてしまう。
金曜の午後、炎天下の中、ポロシャツのまま体育を見学していた。
この中学校にはプールがなく、生徒たちは灼熱の日差しに照らされながらマラソンをしている。
本当は校庭の隅で立っているように命じられたが、あまりに日差しが眩しいので勝手に木陰に移動したのだ。
『わたつみの坊ちゃん』には、皮肉なことにこの程度の自由は許されている。
昨日父に殴られた傷跡、皮膚の奥がまだ少し痛む。
すると突如、後ろから首筋に冷たいものが投げつけられてつんのめった。
「いたっ!」
非難の目つきで振り返ると、校庭フェンスの向こう側にダビドが立っていた。
彼もまた体操服には着替えていない。
「よう。坊ちゃん」
「……きみか……」
「それ。やる」
どうやらジュースの250ミリリットル缶を投げつけてきたらしい。
ダビドは同じ缶を手にして、フェンスにもたれかかっていた。
太い首に汗のつぶが這っている。
草むらに転がった、哀れなジュースを拾う。
先ほど買ったばかりなのかきんきんに冷えていた。
立ったまま飲むのもどうかと思い、花壇のわきに腰かける。
「……ありがとう」
冷徹な言い方になってしまったが、ダビドは穏やかな表情を浮かべて生返事を返した。
真夏に飲むジュースはくどいくらいに甘かった。
青色に塗られたフェンスの上に腕を置き、もたれかかりながら、彼は呟く。
「おまえさあ、いつも体育しないよな」
「喘息持ちだから親に止められてるんだよ」
「おれ、事故の時さ、おまえ家まで背負って運んだ」
「だから何? あれは、きみが起こした事故じゃないか」
「おまえ、細すぎて女みてえ」
「きみとは違って繊細に作られているんだよ。悪かったな」
ダビドは缶を片手で持ちながら、ぼくの方をぼんやりと見ている。
青い瞳が二、三瞬きした。
その沈黙がやけに長い。
そして彼は無造作な調子でつぶやいた。
「おまえ、だれに殴られてんの?」
頬にかっと熱が集まって、反対に背筋には冷や汗が伝う。
蝉の声が聞こえる。
グラウンドの向こうでホイッスルの音色が弾け、直後に靴が砂を蹴る音が響いていた。
薫風に吹かれて木の葉がざわざわと揺れる。
何でこいつが知っているんだ。
いつバレた?
まさか波多先生がこいつに教えるとは思えない。
一方のダビドは、ぼくの動揺を見透かしたかのように屈託なく続ける。
「おれ、事故の時、おまえのシャツの下に肌が見えた。おまえの腕とか背中、変なけがあった。あれ、事故のけがじゃないだろ? 何日も前からの、消えかけたやつもあった。体育しないのって、けが見せたくないからなのかなと思って」
「……関係、ない、だろ」
引き攣った声が漏れた。
その反応自体が動揺を示しており、相手にとっては十分な答えになってしまっている。
そこでぼくは、自分が無意識に腕で傷を隠そうとしていると気づいた。
すると、ダビドの方からこちらに身を乗り出してきた。
金属のフェンスが高い音を立てて軋む。
「おれも子どもの時、先輩からなまいきだって呼び出されてさ、でもそいつのこと殴ってやったよ。今はもうデカくなったから、そんなことされないけど。デカくなれよ、おまえも」
「……現実的な解決策じゃない」
力を持てば問題は解決できるとでもいうのか。
確かにそこらの島民よりも大柄な彼にとっては有効な解決策だったろう。
けれどぼくは生まれつき体が弱いから不可能だ。
身長こそ平均的だが、見かけ通り痩せぎすで筋力なんかないし、軽い漏斗胸だし、喘息に加えて幾つかアレルギーをもっているし、季節の変わり目には必ず風邪を引く。
よく見れば、ダビドの二の腕とぼくの太腿は同じくらいの太さだった。
この体格差ではこいつの自転車に轢かれて失神するのも当然だろう。
「まあ、おまえの好きにすればいいけど」
何も言えないでいると、話を打ち切られた。
『わたつみの坊ちゃんが誰かに殴られている』という話題だから、根掘り葉掘り聞き込みされるかと思っていたのに、意外にもあっさりと退かれて拍子抜けした。
彼は炭酸の空き缶を揺らしながら、
「なあ、おまえ、ずっと体育見学するなら、一緒に学校サボろうぜ」
「そんなこと出来るわけがないだろう」
「いや。できる」
ダビドはフェンス越しに断言する。
太い眉を詰めて凛々しい笑顔を作った。
「わるい子になっちゃえよ」
あまりにも自信に満ちた口調で言うから、ぼくは少しおかしくなって、つい吹き出してしまった。
「くっ……あはは!」
ダビドに声をかけられなければ、ぼくは体育見学のまま一日を終えていただろうし、安全な檻の向こう側なんて考えもしなかっただろう。
それならぼくも行ってみようか?
フェンスの向こう側へ。
ぼくは生まれて初めて学校をふけると決めた。
「構わないよ。ぼくも、そっち側に行きたい」
熱された金属の匂い、フェンスの網目に指が引っかかる感覚。
立ち上がってフェンスをよじ登っていると、背後からがなり声が聞こえてきた。
「おい! サボるな!」
怒声に体が凍りつく。
フェンスを登る足が引っかかり、バランスを崩して一気に視界が揺れた。
――もし父にバレたらどうなる?
殴られたり家電を壊されたりするくらいじゃすまない。
母だって絶対に悲しむだろう。
決まりを破るなんて禁忌を冒してもいいのか?
島においてぼくは『わたつみの坊ちゃん』として振る舞わなければならないのに。
唾液が乾く。
息を吸うたびに胸が痛む。
肺が痛くなる。
波多の声に動けないでいると、フェンスの向こうからまっすぐ声が届いてきた。
「谷崎、迷うな! 逃げろ!」
力強い声が視界を鮮やかに上書きする。
足の感覚が戻ってくる。
胸の中で小さな炎が点る。
そうだ。
学校を抜け出すと決めたのはぼくなんだ。
ぼくの選択はぼくのものだ。
誰にも邪魔なんかさせない。
今さら躊躇うな!
一気にフェンスを飛び越えて、外のアスファルトに降り立ち、下り坂の途中、民家の陰の植え込みに隠れた。
波多の足音が近づいてきた瞬間、鼓動が急に早くなる。
足音が一瞬、ぼくたちの潜む植え込みの前で止まった。
ダビドが手を動かして、遠ざかるまで動くなと伝えてきている。
けれど、まるで自分の鼓動が耳の奥で爆発している感覚だ。
息遣いも鼓動も全て相手に筒抜けのような気がした。
本気で捕まりたくない。
捕まったら終わりだ。
逃げたい。
逃げたい!
逃げたい!
汗が目に入って滲む。
息を止めすぎて酸欠になり、頭がクラクラして目の前が暗くなりそうだ。
一瞬意識が遠のくほどに視界が激しく揺れる。
「どこ行きやがった!」
野太い怒鳴り声が聞こえる。
数秒か数分かわからないほど沈黙が長く感じた。
しばらくして、波多は別の方向へ走っていく。
思わず膝が崩れて、コンクリートに手をついてしまった。
ダビドもまたほっとして笑い出し、ぼくの背中を叩いてくるが、その力が強すぎて、民家の前庭に前のめりにつんのめってしまう。
額から汗が滑り落ち、焼けるほど熱いアスファルトを濡らした。
ぼくの指先はまだ震えていた。
「おまえ……やるじゃん」
「きみもね」
顔を上げると、ダビドは自慢げにほくそ笑んでいた。
他愛もない雑談をしながら坂を下っていくと、不意に視界が開けて海が現れる。
金靄港沿いの道路に差し掛かったところで、青い瞳がふと水平線の向こうを見つめて、ぽつりと漏らした。
「なあ、谷崎、このまま家帰らなかったらどうなると思う?」
帰らなかったら母さんが父さんに殴られるかな。
でも彼の質問を否定すると、戻らなきゃいけないと認めることになってしまう。
今はそれ以上を考えたくない。
「仮定の質問をされても、答えようがない」
ただそっけなく返した。
返答はない。
ダビドはそれ以上を追求せず、ただ歩くだけだ。
彼は過去に、家へ帰りたくなかった経験があるのかもしれない。
金曜午後の小さな革命。
真昼の町は見渡す限り無人で、あらゆる視線の呪縛から逃れたような穏やかな錯覚に包まれる。
世界の色が一気に鮮やかに変わった。
空は青から水色の緩やかなグラデーションで、まるで水彩画のよう。
頬を撫でる汐風が冷たくて気持ちいい。
胸いっぱいに息を吸い込んだら、夏めく匂いがした。




