水平線の向こう
道すがら港のコンクリートに座り、水平線の向こうを見つめる。
初夏の護岸は潮風で湿り、制服のスラックスの上からでもじんわりと熱が伝わる。
表面にこびりついた海藻の匂いが鼻をついた。
足元のはるか下に打ち寄せる波が、錆びた空き缶を転がしては、かたかたと不快な音を立てる。
「ねえ! 二人は卒業したらどこへ行くの?」
快活な調子の問い。
ダビドはどうでもよさそうに耳を掻いて、ぶっきらぼうに答えた。
「知らん」
声がわずかに掠れていた。
ダビドは光をまっすぐ見つめることができないので、手で影を作って、目を細めている。
硝子島に一つしかない高校は毎年定員割れを起こしており、高校受験は形骸化している。
よほど規格外の馬鹿でない限り実質フリーパスだ。
とはいえダビドは勉強にやる気があるとは思えないけど、進路はどうするんだろう。
「ダビド、あんた伯父さんの会社に就職するって言ってなかった?」
「親が言ってる。おれは外国は行きたくない」
ダビドは体育座りの足の間に頭を埋めたまま呟いた。
声が低くこもっている。
見た目は完全に異人種である彼が『外国に行きたくない』という姿が切なく見えた。
「おれが日本から出ても、向こうじゃ『お前は日本人だ』って言われるんだろうな」
彼はおもむろに顔を上げて、足元の缶を蹴り飛ばした。
まっすぐ未来を見据えることができず、親が敷いたレールにも乗れず、ただうずくまっている。
彼が蹴り飛ばした錆びた空き缶は、彼自身のようでもある。
ダビド本人もどうしたらいいのか分からないのだろう。
美保さんほどに島が好きと言い切れるわけではなく、ぼくほどに島を出るしかないとも思えていない。
彼は太い首を撫でながら、美保さんの方を見やる。
「美保はどうすんだよ?」
「私は硝子島前高校に行けって。内申点も成績も、余裕のよっちゃんです!」
「きみは島外には行かないんだね」
「うん! 出る理由ないし」
美保さんは、スカートの上で手を組んだ。
ふと空を見上げて、
「私は、平和で穏やかな硝子島が好きなんだ」
愛おしそうに目を細める美保さん。
ぼくはすぐに返事をしないで、目を逸らし、海を見つめたままでいた。
「潮風の匂いとか、夜の星空とか、静かな朝とか、好きなの。小さい頃におじいちゃんと星を見たのが忘れられないんだ」
「おまえの家、民宿だしな」
「うん! うちに泊まる観光客の人たちも、硝子島は綺麗でいいねって褒めてるよ!」
楽しそうに語る横顔を眺めていた。
同じ中学校に通っているはずなのに、彼女の語る『平和で穏やかで綺麗な島』はぼくの中には存在しない。
まるで別の町の思い出を語られている気すらした。
善良な灯火を前にして、自分が佇んでいる闇が際立つ。
ぼくも、彼女みたいにまっすぐに生きられたらいいのにな。
「私、都会は便利だけど、家族も友達もいないからみんなバラバラになっちゃうなあって思った! ほら、修学旅行で大阪と奈良に行ったでしょ?」
「おれ、金払えなくて、行ってねえ」
「ぼくは当日の朝に発熱して欠席した」
ぼくの場合、修学旅行に限らず、校外学習全般は母によって欠席させられることが多い。
「あ……二人ともそうだったっけ……」
美保さんといえば苦笑いして、気まずそうに靴のつま先で地面を擦っている。
そして無理やり空気を切り替えるように、
「ねえ、真理くんはどうするの?」
「ぼくは……」
目線を水平線に向ける。
「島から出て……和歌山の高校に進学したい。母方の祖父母が住んでるはずなんだ」
と言っても母方の祖父母とは長らく連絡をとっておらず、電話番号も分からない。
母を頼りに手紙を書いてみようか迷う。
「いいね! 私も行ってみたいかも」
美保さんが潮風で髪を直し、軽く笑いつつ目を伏せる。
彼女は楽しそうに受け止めてくれているけれど、ぼくにとっては本気の切望だ。
人生の一つの段階や観光旅行なんかじゃない。
外に行ってみたいんじゃなくて、外で生きたいんだ。
美保さんは続ける。
「谷崎くんのご両親もよそから来たんだよね! 地主のお爺さんが死んで、谷崎くんのお父さんが土地を買い取って夫婦で引っ越してきて、谷崎くんのお家が建ったんだっけ」
「美保さん、なぜそんなに詳しく知って……」
「みんな知ってるよ? 谷崎くん家は島一番のお金持ちで、診療所とわたつみを経営して、たくさん高級車を持ってるって」
下世話な噂だ。
ダビドがうつむきながら漏らす。
「いいよなあ金持ちは。親の金で何とかなるだろ」
舌打ちをしたくなった。
それでも感情を殺し、堪える。
何とかなったら苦労しない。
金さえあれば自由に動けるわけでもないし、父の金をぼくが自由に使える立場でもないし、そもそも父の金など一円たりとも頼りたくない。
「父さんの金なんか、どうでもいいよ」
「どうでもいいなら、おれにくれ」
「ダビド。そういう言い方、やめなって!」
遠くの船の汽笛がぼうと低く唸った。
湿った潮風が頬を撫でる。
制服の生地が梅雨明けの湿気を含んで少し重くなっている。
「……でも、谷崎くんらしいね」
場の雰囲気を取り繕うように、美保さんがぽつりと付け加える。
しばらく誰も喋らなかった。美保さんは空を見上げ、かもめの鳴き声に聞き入っている。ダビドは口をつぐんでうつむいたままだった。
不規則に強くなったり弱くなったりする漣が、何かを考えるときの心の波のように感じる。
日本という国において、辺境よりも都会、離島よりも本土に生まれる確率の方が高いはずだ。なのに、なぜぼくは日本海の辺境の離島に生まれたんだろう?
幼い頃には「島の外側、海の向こうには一体何があるんだろう」と純粋に憧れていた好奇心。それが、「島から出なければ生きていけない」という現実的な焦燥にいつの間にかすり変わっている。
眼鏡の分厚いレンズの先で、水平線の向こうが霞んで見えた。
あの海の向こうに行きたい。
けれど、海はどこまで行っても繋がっているから、結局はどこへ行っても逃げられないのかもしれない。
金靄港を離れていくフェリーをじっと目で追っていた。
船のエンジン音がだんだん遠くなり、波に揺れながら、少しずつ小さくなっていく。
海の向こうに向かって手を伸ばし、指を一本一本折って握りつぶす。
指の間から海風が抜けていく。
水平線を掴むような仕草だ。
けれど本土ははるか遠く、手を伸ばしたところで届かない。
自分の手は何も掴めず、風に弄ばれるだけ。
身体を撫でる潮風が、お前は逃げられないと囁いているようだった。
無力な自分を、握りつぶしてしまいたい。




