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【連作短編040】 レジンの海 全6話 ―持ち帰れた海と、持ち帰れなかった海―  作者: マチャオ (Machao)


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第一話 色:固められた海が、内陸へ運ばれていく。

沖縄の海沿いの集落で、レジンアートを作り続ける女・凪の話です。

固められた海と、固められない海。持ち帰れるものと、持ち帰れないもの。

静かな物語です。よろしければお付き合いください。

作業台の上に、海がある。


縦二十センチ、横三十センチ。ターコイズと群青とコバルトブルー、三層に重ねたエポキシ樹脂の中を、ジンベエザメが一匹、泳いでいる。


凪は筆を置き、椅子に深くもたれた。


完成まであと一日かかる。樹脂が完全に硬化するまで、触ってはいけない。わかっているのに、つい手が伸びそうになる。いつもそうだ。固まる前の樹脂には、液体の海がある。それが固まった瞬間に、何かが終わる。


「これ、どこで買えますか」


振り返ると、観光客らしい女性が立っていた。四十代くらい。リゾートワンピース。日焼け止めのにおいがした。


「ここで作って、ここで売ってます」


「素敵ですね。沖縄の海みたい」


凪は「ありがとうございます」と言って、値札を指した。


女性はしばらく眺めてから、財布を出した。


「旅行の記念に買おうと思って。ずっと飾っておけるし」


「ありがとうございます」


「作るのに時間がかかるんですか」


「硬化に丸二日。その前の工程を入れると、一週間くらいですね」


女性は少し驚いた顔をした。


「そんなに。じゃあ、これは先週から作ってたんだ」


「そうですね」


先週の火曜日、凪は浜に出た。午前十時の光を確かめるために。あの色を忘れないために。毎回そうしている。作る前に必ず浜に行く。材料は揃っている。でも、それだけでは足りない。


女性が帰った後、凪は梱包をしながら、ジンベエザメのことを考えた。


あのジンベエザメはもういない。女性のかばんの中にいる。今頃、新幹線か飛行機の中か。東京か大阪か、どこかの部屋の棚に置かれるのだろう。


固められた海が、内陸に運ばれていく。


凪はそれを、悪いとは思わない。ただ少し、不思議な気持ちになる。


女性は「沖縄の海みたい」と言った。


これは沖縄の海じゃない、とは言わなかった。


沖縄の海は、もっとうるさい。波の音も、風の音も、カラスの声も、遠くで誰かが笑う声も。潮のにおいも、腐った海藻のにおいも、屋台の肉のにおいも、全部ぐちゃぐちゃに混ざっている。


雨の日の海は、鉛色だ。夏の晴れた日のターコイズとは、まるでちがう。


どちらも、凪は知っている。


樹脂に閉じ込めたのは、晴れた日の、午前十時の、あの色だ。


---


工房兼ギャラリーは、那覇から車で四十分ほどの、海沿いの集落にある。


観光客が迷い込んでくるのは、夏と冬の連休だけだ。あとは地元の人間か、リピーターか、SNSで見つけてわざわざ来る人たちが少しいる。


それで食べていけているのは、正直なところ、実家が近いからだと思っている。


凪が東京から戻ってきたのは、七年前のことだ。理由を聞かれると「海が恋しくなって」と答えた。嘘ではなかった。でも全部でもなかった。


---


夕方、浜に出た。


七月の夕暮れで、空がオレンジと紫に染まっている。波打ち際に、小さな子どもが一人、何かを拾っていた。貝殻か、石か。


凪も昔そうしていた。手のひらに乗るくらいの石を、ポケットが重くなるまで集めた。家に持って帰ると、乾いて色が変わった。浜で見たときの輝きが、消えていた。


それでも捨てられなくて、引き出しの中がだんだん石だらけになった。


母に「また持ってきたの」と呆れられた。


東京にいた十年間、その引き出しをときどき思い出した。


浜辺で輝いていた石は、持ち帰った瞬間から、ただの石になった。


それでも凪は、捨てなかった。捨てられなかった。


引き出しの奥に、今もある。一つだけ、足りないけれど。


ときどき開けて、見る。それだけだ。何かをするわけではない。


---


工房に戻ると、友人の真奈から電話が来ていた。


「今度の連休、みんなで遊びに行こうって話になってるんだけど」


東京の友人たちだった。


「来てくれるのはうれしいけど」


「絶対喜ぶよ。去年行ったとき、また行きたいって全員言ってたし」


真奈は少し間を置いた。


「凪はよかったの?沖縄に戻って」


「うん」


「後悔してない?」


凪は窓の外を見た。日が落ちて、海は暗くなっていた。晴れた日の色ではない。でも、波の音は変わらない。


「してない。たぶん」


「たぶん、って」


「したとしても、してなかったとしても、どっちにしても海はここにある」


一瞬、言いすぎたと思った。

真奈には伝わらない言い方だった。


真奈は「なにそれ」と笑った。


凪も笑った。

笑いながら、少しだけ遠くなった気がした。

悪意のない遠さだった。だからこそ、どうしようもなかった。


電話を切った後、少しの間、受話器を持ったままでいた。


真奈の声が、まだ耳に残っていた。


*後悔してない?*


していない。それは本当だ。


でも、なぜ戻ってきたのか、真奈にはまだ話したことがなかった。「海が恋しくなって」以外の言葉で、うまく説明できたことが一度もなかった。


---


受話器を置いてから、凪は新しい樹脂を混ぜ始めた。


次はもう少し深い青にしようと思っている。


あの色——曇りの日の、沖合の、底が見えないときの色。観光客には売れないかもしれない。誰も「沖縄の海みたい」とは言わないだろう。


でも、それが見たかった。


型に樹脂を流し込む。


液体の海が、ゆっくりと広がる。


固まるまでの間、凪はただそれを眺めた。


どこかで波が打ち寄せた。

その振動が、かすかに樹脂の表面を揺らした気がした。

気のせいかもしれなかった。


窓の外では、波が打ち寄せて、引いていた。


固まらないまま、ずっとそこにある海が。

読んでいただきありがとうございます。

凪がジンベエザメを梱包しながら考えること——固められた海が内陸へ運ばれていく、その不思議な感覚から、この物語が始まりました。

次話では、凪の東京時代へ遡ります。

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