第一話 色:固められた海が、内陸へ運ばれていく。
沖縄の海沿いの集落で、レジンアートを作り続ける女・凪の話です。
固められた海と、固められない海。持ち帰れるものと、持ち帰れないもの。
静かな物語です。よろしければお付き合いください。
作業台の上に、海がある。
縦二十センチ、横三十センチ。ターコイズと群青とコバルトブルー、三層に重ねたエポキシ樹脂の中を、ジンベエザメが一匹、泳いでいる。
凪は筆を置き、椅子に深くもたれた。
完成まであと一日かかる。樹脂が完全に硬化するまで、触ってはいけない。わかっているのに、つい手が伸びそうになる。いつもそうだ。固まる前の樹脂には、液体の海がある。それが固まった瞬間に、何かが終わる。
「これ、どこで買えますか」
振り返ると、観光客らしい女性が立っていた。四十代くらい。リゾートワンピース。日焼け止めのにおいがした。
「ここで作って、ここで売ってます」
「素敵ですね。沖縄の海みたい」
凪は「ありがとうございます」と言って、値札を指した。
女性はしばらく眺めてから、財布を出した。
「旅行の記念に買おうと思って。ずっと飾っておけるし」
「ありがとうございます」
「作るのに時間がかかるんですか」
「硬化に丸二日。その前の工程を入れると、一週間くらいですね」
女性は少し驚いた顔をした。
「そんなに。じゃあ、これは先週から作ってたんだ」
「そうですね」
先週の火曜日、凪は浜に出た。午前十時の光を確かめるために。あの色を忘れないために。毎回そうしている。作る前に必ず浜に行く。材料は揃っている。でも、それだけでは足りない。
女性が帰った後、凪は梱包をしながら、ジンベエザメのことを考えた。
あのジンベエザメはもういない。女性のかばんの中にいる。今頃、新幹線か飛行機の中か。東京か大阪か、どこかの部屋の棚に置かれるのだろう。
固められた海が、内陸に運ばれていく。
凪はそれを、悪いとは思わない。ただ少し、不思議な気持ちになる。
女性は「沖縄の海みたい」と言った。
これは沖縄の海じゃない、とは言わなかった。
沖縄の海は、もっとうるさい。波の音も、風の音も、カラスの声も、遠くで誰かが笑う声も。潮のにおいも、腐った海藻のにおいも、屋台の肉のにおいも、全部ぐちゃぐちゃに混ざっている。
雨の日の海は、鉛色だ。夏の晴れた日のターコイズとは、まるでちがう。
どちらも、凪は知っている。
樹脂に閉じ込めたのは、晴れた日の、午前十時の、あの色だ。
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工房兼ギャラリーは、那覇から車で四十分ほどの、海沿いの集落にある。
観光客が迷い込んでくるのは、夏と冬の連休だけだ。あとは地元の人間か、リピーターか、SNSで見つけてわざわざ来る人たちが少しいる。
それで食べていけているのは、正直なところ、実家が近いからだと思っている。
凪が東京から戻ってきたのは、七年前のことだ。理由を聞かれると「海が恋しくなって」と答えた。嘘ではなかった。でも全部でもなかった。
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夕方、浜に出た。
七月の夕暮れで、空がオレンジと紫に染まっている。波打ち際に、小さな子どもが一人、何かを拾っていた。貝殻か、石か。
凪も昔そうしていた。手のひらに乗るくらいの石を、ポケットが重くなるまで集めた。家に持って帰ると、乾いて色が変わった。浜で見たときの輝きが、消えていた。
それでも捨てられなくて、引き出しの中がだんだん石だらけになった。
母に「また持ってきたの」と呆れられた。
東京にいた十年間、その引き出しをときどき思い出した。
浜辺で輝いていた石は、持ち帰った瞬間から、ただの石になった。
それでも凪は、捨てなかった。捨てられなかった。
引き出しの奥に、今もある。一つだけ、足りないけれど。
ときどき開けて、見る。それだけだ。何かをするわけではない。
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工房に戻ると、友人の真奈から電話が来ていた。
「今度の連休、みんなで遊びに行こうって話になってるんだけど」
東京の友人たちだった。
「来てくれるのはうれしいけど」
「絶対喜ぶよ。去年行ったとき、また行きたいって全員言ってたし」
真奈は少し間を置いた。
「凪はよかったの?沖縄に戻って」
「うん」
「後悔してない?」
凪は窓の外を見た。日が落ちて、海は暗くなっていた。晴れた日の色ではない。でも、波の音は変わらない。
「してない。たぶん」
「たぶん、って」
「したとしても、してなかったとしても、どっちにしても海はここにある」
一瞬、言いすぎたと思った。
真奈には伝わらない言い方だった。
真奈は「なにそれ」と笑った。
凪も笑った。
笑いながら、少しだけ遠くなった気がした。
悪意のない遠さだった。だからこそ、どうしようもなかった。
電話を切った後、少しの間、受話器を持ったままでいた。
真奈の声が、まだ耳に残っていた。
*後悔してない?*
していない。それは本当だ。
でも、なぜ戻ってきたのか、真奈にはまだ話したことがなかった。「海が恋しくなって」以外の言葉で、うまく説明できたことが一度もなかった。
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受話器を置いてから、凪は新しい樹脂を混ぜ始めた。
次はもう少し深い青にしようと思っている。
あの色——曇りの日の、沖合の、底が見えないときの色。観光客には売れないかもしれない。誰も「沖縄の海みたい」とは言わないだろう。
でも、それが見たかった。
型に樹脂を流し込む。
液体の海が、ゆっくりと広がる。
固まるまでの間、凪はただそれを眺めた。
どこかで波が打ち寄せた。
その振動が、かすかに樹脂の表面を揺らした気がした。
気のせいかもしれなかった。
窓の外では、波が打ち寄せて、引いていた。
固まらないまま、ずっとそこにある海が。
読んでいただきありがとうございます。
凪がジンベエザメを梱包しながら考えること——固められた海が内陸へ運ばれていく、その不思議な感覚から、この物語が始まりました。
次話では、凪の東京時代へ遡ります。




