第三話 届かぬ背中、至高の剣理
ルビィは、ひとり深く悩んでいた。
静かに息を立てて眠るルーカスを前にして、自分の中に渦巻く迷いと葛藤を抑えきれずにいたのだ。
彼女は、ルーカスとエルドゥ魔王様による一対一の実戦演習を、一部始終その目で見届けていた。
そして──最愛の夫であるルーカスが、人間の領域を超越した神級の座へ足をかけ始めていることを、確かに感じ取っていた。
傷つき気絶したルーカスを介抱のため引き渡す際、魔王様がポツリと漏らした一言。
『彼はもはや、天級の枠組みには収まらぬ。神級へと至るのも、もはや時間の問題であろうな』
妻として本来ならば何よりも喜ぶべきその言葉が、今のルビィにとっては己と彼を遠く引き裂く、不吉な呪いの言葉にしか感じられなかった。
そんな折、人界へ解き放っていた密偵から、オーエス国陥落の凄惨な報せが届く。
直ちに全八部衆の長へ緊急召集の命が下されたが、傷ついたルーカスの現状に配慮したエルドゥ魔王様は、摩睺羅伽衆の長であるルーカスに代わり、副長であるルビィの出頭を命じた。
ルビィは短槍『ミストルティン』を異空間の保管庫へと収めると、眠り続けるルーカスをベッドに残し、重い足取りで魔王城へと向かったのだった。
◆
魔王城の謁見の間で語られたオーエス国の惨状は、余すところなく詳細に及んだ。
偽勇者サムによる凄惨な蹂躙、罪なき人々への凄絶な所業──そして、奴がいかなる致命傷すら瞬時に塞ぐ無限再生の能力を有しているという事実。
報告を聞いた阿修羅衆の長バイナリが、信じられないといった様子で呟く。
「奴の生命の限界……寿命の理はどうなっているのだ?」
その疑問に答えられる者は、魔王様のほかにいなかった。
「恐らくは不滅……無限であろうな。実に厄介な怪物が現れたものだ」
夜叉衆を率いるセグムント・フォン・クラハト卿が、眉をひそめて問う。
「……その偽勇者が、我らが魔界へと牙を剥くのはいつ頃になりそうでしょうか?」
「はっ。オーエス国が潰える間際、セラ女王の決断により、超古代の文献はすべて灰と化しました。さらに解秘に関わっていた学者たちも隠れ家へと秘かに匿われております。現状、奴らが魔界への扉を開く術はありません」
しかし、魔王様は胸を騒がせる胸騒ぎを覚え、低く命じた。
「不吉な予感がするな。今すぐその学者たちを、安全な魔界へと移送せよ」
まさに、その瞬間であった。
血煙を纏った満身創痍の密偵が謁見の間へ飛び込み、非情な凶報を叫んだ。
「人界の隠れ家がプロト帝国に急襲されました! 学者たちが……奪われました!!」
「……チッ。奴らが解読された知識を奪い取り、次元の門を開いて乗り込んでくる可能性が一気に高まったな」
場が緊迫感に包まれる中、ルビィは静かに立ち上がり、そのまま退出を図ろうとした。
「摩睺羅伽副長ルビィ、どこへ行く」
竜衆の長アルシオンが呼び止める。
「……どんな傷も再生させぬ、絶対の斬撃を修得しに戻ります。ちょうど今、そのような化け物を葬るための技を研鑽中ですので」
「ほう……治癒を絶つ技とな?」
「はい。かつての『時空斬』に応用と発展を加えたものです。……便宜上、『時空斬・改』とお考えください」
「ふむ……その『時空斬・改』を我が軍の全兵が修得できれば、偽勇者サムに対する決定的な抑止力となりましょうな」
アルシオンの感嘆の言葉に、魔王様は深く深く頷いた。
「相分かった。摩睺羅伽副長ルビィ、何をおいても『時空斬・改』の修得を最優先とせよ」
「はい、承知いたしました」
恭しく一礼し、ルビィは謁見の間を後にした。
その背中を見送りながら、魔王様がぽつりと呟く。
「……業が深いな」
「魔王様、それはどういう……?」
「いや、なに。忘れてくれ。……密偵へ通達。捕らわれた学者たちが筆舌に尽くしがたい拷問を受ける事態となったならば、迷わずその息の根を止めよ。以上だ」
「はっ!」
手当てを受けた密偵は、傷も癒えぬうちに再び人界の闇へと消えていった。
◆
ルビィは演習場へと戻るなり、ひたすらに剣を振り抜いていた。
かつて王立アルテア貴族学院の危機において繰り出した、時空斬と超古代魔法を融合させた絶技──そのさらなる高みを目指して。
「──『断絶する緋色の刻』!!」
「──『断絶する緋色の刻』!!」
「──『断絶する緋色の刻』!!」
鋭い風切り音とともに幾度も放たれる斬撃。
そこへ、目を覚ましたルーカスが静かに姿を現した。
「……ルーカス」
いま一番会いたいと望みながら、同時に最も顔を合わせるのが恐ろしい、愛おしい人。
「熱が入っているね、ルビィ。見たところ……あのスタンピードの時に使っていた技を修練しているのかな?」
「いいえ……その、先よ」
「その先?」
「一度切り裂いた相手の……再生能力を完全に殺すの」
ルビィは先ほどの会議で明かされた偽勇者サムの残虐な所業と、不滅の超再生能力について手短に説明した。
「なるほど……ならば、切り裂いた『断面』そのものを時空の彼方へ追いやるイメージを持つといい」
「……断面を、時空の彼方へ?」
「そうすれば、理屈の上では肉体が再生しようとしても、繋ぎ合わさるべき断面自体が別の次元に存在することになる。二度とくっつくことは不可能なはずだ」
その言葉に、ルビィは息をのんだ。
「ありがとう、ルーカス……! 何か、掴めたわ」
「そうか、それは良かった。……ルビィ、会議を途中で抜け出したろう?」
「ええ……」
ルビィは気まずそうに目を伏せる。
「君の代わりに呼ばれたから、俺は謁見の間へ向かうよ。あまり無理は禁物だからね」
「ありがとう……でも、今の私にできることは、これくらいしかないから」
「そっか。応援しているよ。また助言が必要なら、いつでも言ってね」
ルーカスは優しく微笑むと、転移魔法の光とともに姿を消した。
「……優しすぎるのよ、あなたは。私に助言を与えるためだけに、わざわざ歩いてきてくれるなんて。……これじゃあ、あなたを殺して繋ぎ止めることなんて、できないじゃない……」
視界が涙で滲み、ルビィはしばらくの間、剣を構え直すことすらできなかった。
◆
ルーカスが謁見の間へ到着し、全八部衆の長が揃ったところで、魔王様が重々しく口を開いた。
「全軍へおさらいだ。万が一、人界からの門が開かれた場合は、全戦力を以て門の正面で迎撃し、即座に界門を閉鎖する」
「……魔王様、偽勇者サムが現れた場合は、いかに対応すべきでしょうか?」
ルーカスの問いに、魔王様は一切の迷いなく言い切った。
「摩睺羅伽副長ルビィに一任する。現状、彼女の編み出す技こそが対偽勇者における唯一の切り札だ。もちろん、全軍でその支援にあたる」
天衆の長アノマリアが、不思議そうに首を傾げた。
「全軍がその『時空斬・改』を修得できれば、ルビィ殿ひとりに重責を背負わせずに済むのでは?」
しかし、魔王様は苦々しい表情を浮かべ、首を振る。
「……あれは、ルビィ以外の何者にも修得できぬ」
「何故ですの?」
迦楼羅衆の長インフィニティアの追及に、魔王様は重苦しく吐露した。
「あれは……業が深すぎるのだ。狂おしいどころではない。完全に狂い落とした愛憎の果てにしか、紡ぎ出せぬ技なのだから」
ルーカスは眉をひそめた。
「……ルビィが、そのような状態にあるとおっしゃるのですか?」
「そうだ」
「ですが……先ほど会った時は、いつも通りのルビィでしたが」
「……いずれ、分かるときが来る」
◆
その頃、演習場のルビィは、『断絶する緋色の刻』の改良版──『断絶する緋色の刻・改』の完成を目前に控えていた。
ルーカスからの助言によって結実した、偽勇者サムを屠るための絶対の秘術。
そして……皮肉にも、いずれルーカス自身に向けられるはずの絶望の技。
「待っていてね、ルーカス……あなたを絶望と孤独の淵から、私が救い出してあげるから……」
口元に笑みを浮かべたルビィの横顔は、沈みゆく夕陽に照らされ、恐ろしいほどに美しかった。
彼女は限界を超えてなお、剣を振り続けた。
その狂気すら孕んだ修練は、見かねたルーカスが強引に制止に入るまで、留まることなく続けられたのだった。
◆
一方、プロト帝国の地下深くでは、囚われていた超古代文献の学者たちが次々と謎の死を遂げていた。
魔界から放たれた密偵による、苦痛からの解放────死の介入であった。
だが、帝国にとって見れば、もはや学者たちは用済み(出涸らし)に過ぎなかった。
非人道的な拷問によって必要な知識はすべて吐き出させ、すでに廃人同然となっていたからである。
人界と魔界を繋ぐ巨大な界門が開かれるときは、刻一刻と迫っていた。
◆
そして、ルビィはついに『断絶する緋色の刻・改』を完全に完成させた。
しかし、エルドゥ魔王様が予言した通り、その技はルビィという存在にしか扱えない代物であった。
ルーカスがルビィの力量や状態を確認した際、その『断絶する緋色の刻・改』は、固有能力として刻まれていたのだ。
固有能力──この世界の法則において、ただ一人しか持ち得ない唯一無二の絶対能力。
過絶な愛と狂気の果てに、彼女が生み出したのはそのような異能であった。
その時────魔界全域に、空を突くような非常警報が響き渡った。
空が割れ、軍勢をも呑み込みそうな巨大な「界門」が姿を現したのだ。
直ちに全八部衆が緊急招集され、界門の前へと集結する。
今まさに、偽勇者サム率いる侵略軍と魔界の全戦力による、運命の初対決が火蓋を切ろうとしていた。
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