第三話 エルダー・ドラゴン
俺たちは、エルダー・ドラゴンのアルシオン様が放つ圧倒的な存在感と神聖さに自然と身を正し、静かに足を止めた。
アルシオン様は、まるで小山がそのまま鎮座しているかのような途方もない巨躯を誇っている。
その時、どこからか厳かな調べが響いてくるように感じられた。
いや、それは気のせいではなかった。
アルシオン様の顔の傍らに一人のエルフの少女が佇み、凛とした歌声を響かせていたのだ。
その旋律は、聖堂の合唱を思わせるほど深く、厳かなものだった。
俺は隣に控える古代竜に念話で問いかける。
『彼女は一体……?』
『彼女はハイ=エルフの吟遊詩人、フィオナ・エレノーア。アルシオン様が完全に狂気に呑まれないよう、こうして傍らで歌い続けてくれているのだ。実際、彼女の旋律のおかげで、最悪の事態は食い止められている』
俺はアルシオン様とフィオナさんを驚かせないよう、細心の注意を払いながらゆっくりと近づいた。
そして彼女の歌を邪魔しないよう、意識を研ぎ澄ませて念話で語りかける。
『アルシオン様、フィオナさん。お体の具合はいかがですか?』
だが、返ってきたのは拒絶の念だった。
アルシオン様が鋭く咆哮の意思を伝える。
『……人族が我に何用だ!』
フィオナさんも、歌の合間に険しい視線をこちらに向けた。
『……邪魔をしないで!』
完全に取り付く島もない状態だった。
言葉を重ねるより行動で示すべきだと判断した俺は、すぐさまアルシオン様に向けて疲労と衰弱を癒やす神聖術を放った。
同時に、ルビィもフィオナさんへ向けて同様の癒やしの術を注ぎ込む。
『……なんのつもりだ? 我を狂わせようとしたかと思えば、今度は癒やしの光だと?』
『その通りです! 幼子たちを人質にして、私たちを脅迫していた人族の仲間ではないのですか!?』
『幼体を人質に取っていた不逞の輩なら、先ほどすべて片付けました。激しい罪悪感からほとんどが自害してしまいましたが、最後の一人は生きて捕らえています』
『な、何……!? 一体、何が目的なのだ』
『貴方を正気に戻し、その呪縛から救うために来ました』
『無駄なことを。我が身を蝕む狂気を払える者など、伝承に謳われる高潔な聖人か聖女くらいのものだぞ』
『ええ。ですから、その聖人と聖女が今、貴方の目の前にいるのです』
『ふざけたことを言うな!』
『嘘偽りはありません。俺はルーカス・アルマギナ。聖人の位を預かる者です。こちらは妻のルビィ・アルマギナ、聖女です。そして俺の肩に乗っているこの妖精は、魔王軍四天王の一角、『特異点』のアノマリアです』
『なんと……! 汝らが、あの人間たちが恐れていたルーカスとルビィ……。しかも四天王アノマリアまで共にいるというのか!?』
それまで黙って対話を聴いていたフィオナさんが、微かに歌声を震わせながら念話を送ってきた。
『ですが……たとえ高名な聖人、聖女であっても、人族である限りアルシオン様を完全に癒やすことは不可能です』
『理由をお伺いしても?』
『人族の身では、本物の精霊魔術を扱えません。アルシオン様の狂気を根本から浄化するには、精霊の王たちの強力な守護が不可欠なのです……って、ええっ!?』
フィオナさんの言葉が終わるより早く、俺とルビィは両手の甲を掲げて見せた。
俺の左手の甲には【全属性の神聖紋章】が、右手の甲には【精霊王の神聖紋章】が輝いている。
そしてルビィの左手の甲にも【全属性の神聖紋章】が、右手の甲には【精霊女王の神聖紋章】が確かに刻まれていた。
『これでも、まだ足りませんか?』
その光景を目の当たりにし、アルシオン様が驚愕の念を震わせる。
『なんという資格……! 風の噂に規格外の者が現れたとは聞いていたが、これほどまでとは!』
フィオナさんに至っては、驚きのあまり念話を返すことすらできなくなっていた。
それでも、健気にもその歌声だけは絶やさずに繋ぎ止めている。
『……ならば、各属性を統べる精霊の王たち、そしてその頂点に立つ精霊王と精霊女王を、この場に呼び降ろすことは叶うか?』
『ええ、容易いことです。ルビィ、一緒にいこう』
『ええ、任せて、ルーカス』
俺とルビィが同時に魔力を解放すると、周囲の空間が揺らぎ、各属性の精霊王たち、そして精霊王オベロンと精霊女王ティターニアがその厳かな姿を現した。
『次はどうすればいい?』
『精霊の王たちへ、狂化の呪詛を解き、正気を取り戻せるよう呼びかけるのだ』
『分かりました。いくぞ、ルビィ。精霊王オベロンよ』
『ええ、ルーカス。精霊女王ティターニアよ』
『『そして、万物を統べる精霊の王たちよ。かの高潔なるエルダー・ドラゴンを、その大いなる光で癒したまえ!』』
刹那、洞窟全体を神聖な光が満たした。
その光は決して目を射るような眩しさではなく、どこか母親の温もりに抱かれているかのような、深く柔らかな慈愛の光だった。
ここでようやく歌声が止まり、フィオナさんは目を見開いたまま、呆然と光の奔流を見つめていた。
アルシオン様の赤い瞳からも徐々に不浄な光が引いていき、すべてを見通すような、深い叡智を湛えた本来の瞳へと戻っていく。
「まさか、聖人、聖女とはいえ……本当に精霊の真髄を操る人族が存在したとはな」
「俺たちは正確にはハイ=ヒューマンの血を引いているので、純粋な人族に分類されるかは少し怪しいところですがね」
俺の言葉に、フィオナさんが息を呑んだ。
「嘘……。まさか、あの伝説のハイ=ヒューマンが現代に生き残っていたなんて」
「これには色々と事情がありまして。──それでアルシオン様、お加減はいかがですか?」
「万全だ! 魂の底まで澄み渡るようだ。礼を言おう、ルーカス殿、ルビィ殿」
「『殿』は不要です。どうぞ呼び捨てにしてください。それからフィオナさん」
「は、はいっ!」
「喉の調子はいかがですか? 他に痛むところはありませんか?」
「あ……喉の痛みが完全に引いているわ。それどころか、信じられないくらい活力が満ちていく。今なら、どんな歌でも歌えそう……!」
「それは良かった。精霊王たちも、貴方の素晴らしい歌声を聴けてとても喜んでいますよ」
フィオナさんはなおも不思議そうに首を傾げた。
「それにしても、古い文献を読んでも、ハイ=ヒューマンがこれほどの精霊術を扱えたという記録はなかったはずだけれど……」
「これまた色々とありまして、使えるようになったんです。と言っても、彼らの大いなる力を少しお借りしたり、歪んだ空間を修復したりできる程度ですがね」
「それだけでも十分すぎるわ。本当に規格外なのね、貴方たちは」
「ところで、アルシオン様。俺たちの名前や噂は、一体どこで耳にされたのですか? ……やはり、あの大国の男たちですか」
「うむ。あの卑劣漢どもが、汝らの名を憎々しげに幾度も口にしていたからな。嫌でも覚えてしまったのだ」
「そうですか。彼らは他に何か口にしていませんでしたか? どうやらプロト帝国は、我がオーエス国に対して大がかりな陰謀を企てているようなのですが」
「そこまでは分からぬ。我ら竜種は、人間の矮小な営みには興味がないからな」
「ですが、このまま貴方たちがこの場所に留まれば、いずれまた同じように利用され、不当な襲撃を受ける繰り返しになるでしょう」
「それは重々承知している。だが、我らのような巨獣の群れを、穏やかに受け入れてくれる場所など、この人間界のどこにあるというのだ」
「それなら、魔界はいかがですか?」
俺の提案に、頭の上のルルがポンと元気よく手を叩いた。
「それがいいおー! アルシオンもフィオナも、みんな一緒に魔界へ来るおー!」
「しかし、魔界に行くとしても、我は一族の者たちの生活と安全を守らねばならぬ責任がある」
「私も、魔界という未知の土地へ行って、本当に居場所があるかどうか……」
「それなら丁度良い役職があります。現在、魔界では四天王に代わる新たな守護体制として、『天竜八部衆』の編成を進めているところなのです」
「天竜八部衆、だと?」
俺は、以前に魔王陛下へ提案した際と同じように、その概要を分かりやすく説明した。
「神話に登場する八つの部族を模した役職で、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽で構成されます。そこに上下の序列はなく、全員が対等の守護者です。アルシオン様の一族は『竜部』にこれ以上ないほど相応しい。そしてフィオナさんは、音楽と芸術を司る神々の代表である『乾闥婆』の座にぴったりです」
フィオナさんは慌てて両手を振った。
「わ、私がそんな大それた大役なんて無理よ! 私はハイ=エルフでありながら、ただ歌うことしか取り柄がなくて、普通の精霊魔術すら扱えないのよ?」
そこへ、アルシオン様が穏やかな助け船を出す。
「うむ。だが我は、そなたの歌に幾度も魂を救われた。もしその八部衆とやらに推薦されるのであれば、我は喜んでそなたを推すが?」
「はわわわわ……!」
その時、まだ送還していなかったオベロンやティターニア、そして周囲の精霊王たちが一斉に微笑んだ。
「先ほどの歌声、我らの力を引き出す精霊術に何ら引けを取らぬ。何も恥じる必要などないぞ」
「ええ、本当に素晴らしい旋律でしたわ。もしよろしければ、この場で私たちと正式な契約を結びましょうか?」
「え……? 精霊王様たちが、私と契約を……? 良いのですか?」
「ああ、構わないとも」
「貴女が自分の歌に自信を持てるよう、私たちが喜んで力を貸しましょう」
「でも、私はどうやって精霊術を紡げば……」
「簡単なことだ。ただ、今まで通りに歌えばよい。汝の歌に込められた祈りに応じて、我らがその都度、大いなる力を顕現させよう」
「……それなら、ぜひ、お願いします!」
フィオナさんは瞳を潤ませながら、精霊の王たちに向けて深く頭を下げた。
◆
フィオナさんの精霊契約が無事に執り行われるのを静かに見届けてから、俺は口を開いた。
「契約も無事に結べたようですし、さっそく魔王陛下に八部衆への推薦の件を確認してみましょう。アノマリア、魔界への門を頼めるか?」
「任せるのだおー!」
「──その必要はないぞ、ルーカス」
洞窟の奥から突如として響いた威厳ある声に、俺は驚いて振り返った。
「って、エルドゥ魔王陛下!? いつからそこに!?」
「フィオナが精霊契約を交わす少し前、といったところか。いや、実のところはそれ以前の、汝らがエンシェント・ドラゴンの幼子たちを鮮やかに解放する瞬間からすべて見守らせてもらっていた。大体の経緯は把握しておる」
「では……」
「うむ。アルシオン殿には、魔界の竜種を統べる『竜王』として、ぜひとも八部衆に加わっていただきたい。そしてフィオナ、汝も『乾闥婆』として、魔界の吟遊詩人たちを束ねる頭領として、ぜひ我が国へ来てほしい」
「それはありがたい。これで無事に、一件落着ということですね」
俺が胸をなでおろしたのも束の間、魔王陛下は鋭い眼光をこちらに向けた。
「だが、ルーカス、そしてルビィ。汝ら二人にも話がある。将来的に、ルーカスとルビィには『摩睺羅伽』の役職を預かってもらいたいと考えておる」
「それは……俺たちがオーエス国での役割を終えた、先の話ということですね。喜んでお受けしますが、よろしいのですか?」
「ふっ、それほど先の話にはならぬと思うがな……。まあ、それはよい。それよりもルーカス、汝に一つ、警告をしておく」
「警告、ですか?」
「汝の周囲に、極めて不穏で禍々しい気配が色濃く渦巻いているのが見える。背後から寝首を掻かれぬよう、くれぐれも警戒を怠るな」
不気味な予言めいた言葉に、ルビィが俺の前に一歩踏み出した。
「どのような困難が待ち受けていようとも、私は妻として、全力でルーカスを支えて乗り越えてみせます」
魔王陛下はそんなルビィを静かに見つめ、さらに言葉を重ねる。
「ふむ。己の身辺だけでなく、信頼を置く『身内』の動向にも等しく気を配るのだな」
「それは、一体どういう意味でしょうか……?」
「何、誰が本当の味方であり、誰が牙を隠した敵であるか。その曇りなき眼でよく見極めよ、ということだ」
「俺が王城の各所に仕掛けさせた、ニアの魔道具による監視だけでは不十分だと?」
「ああ。破滅の歯車が回り、事が起きてしまってからでは遅いからな」
「一体、何が起きようとしているのですか!?」
「汝の極めて身近な者の背後に、どす黒い影が差しておる。だが、それが誰の影であるかまでは、まだ明確には見通せぬ。未来というものは常に揺らぎ、幾重もの可能性に満ちているからな。確定していない運命を軽々しく口にすることはできぬのだ。すまぬな」
「……いえ。それほどの警告をいただけただけでも、十分すぎます。心から感謝いたします」
「そうか。では、魔界への門は既に開いてある。準備が整い次第、アルシオン殿もフィオナ殿も、一族を率いて魔界へ来られるが良い」
こうして、旧竜アルシオンの一族とフィオナさんは、新たなる安住の地を求めて魔界へと旅立っていった。
俺たちは、プロト帝国の生存者である一人の捕虜と、陰謀の決定的証拠である二種類の魔道具を回収し、オーエス国への帰路についた。
──エルドゥ魔王が告げたあの不気味な予言の瞬間が、すぐ目の前まで迫っていることも知らずに。
【 読者の皆様へお願い 】
もし「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、
下記の【ブックマーク登録】や、
評価の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、
毎日の執筆の大きな大きな励みになります!いただいた星とブクマの数が、
物語を完結まで引っ張る原動力になります。




