第六話 留学
不当な張り紙による中傷事件がひとまずの収束を迎えた、翌日のこと。
突如として、魔王エルドゥ・ラディヴィジョンが王立アルテア貴族学院の上空へ巨大な魔導映像と共に出現した。
『ルーカス・アルマギナ。我が声が聞こえているか?』
「聞こえていますが……一体何の御用でしょう、魔王陛下?」
『何、そう身構えるな。大した用件ではない。汝ら、一度我が魔界へ留学してみてはどうかという提案じゃ』
「……いや、十分に大それた提案だと思いますが」
『ふむ、ならばそこの婚約者──“戦姫”ルビィも共にどうじゃ?』
「えっ、私もですか?」
予想外の名を挙げられ、ルビィが驚いて映像を見上げる。
『そうじゃ。見聞を広めるための余興として、こちらの学園に半年ほど通ってみぬか?』
「半年……。ねえルーカス、私、行ってみたいわ!」
「ルビィ、本気か?」
「もちろんよ。ルーカスだって、今のこの国にいたら息が詰まるでしょう?」
「……それは。正直に言えば、否定はできないけれど」
俺が言葉を濁らせると、背後から見守っていたセマフォ殿下が静かに歩み出て、俺の肩に手を置いた。
「ならば、迷わず行って見聞を広げてくると良い、ルーカス卿」
「セマフォ殿下、よろしいのですか?」
「ああ。君たちが一度表舞台から離れることで、周囲も君たちの真の重要性に嫌でも気づくはずだ。人間というものは失って初めて事の重大さを知る。皆、自らの愚行を激しく後悔することになるだろう」
「うむ。時には手痛い荒療治も必要かもしれんな」
フォーク校長までが殿下の言葉に深く頷く。
俺は思わず苦笑した。
「校長まで……。荒療治って、一体何をするつもりなんですか?」
「何もしないさ。そう、私たちは文字通り、何もしないのだよ」
セマフォ殿下が冷徹な、しかし確固たる意志を宿した瞳で微笑む。
「王族としては少々頭痛の種が増えるが、ルーカス卿たちが人間界から去ると世界がどうなるか、大衆に身をもって知ってもらう絶好の機会だ。だから安心して行ってきてくれ。すべては、君たちの将来のためだ」
「そうと決まれば、早速支度をしましょう! ルーカス、魔界へはどうやって行けばいいのかしら?」
「ルビィ、随分と乗り気だね」
「だって未知の世界よ? 一度この目で見てみたかったのよね」
「はあ、分かったよ。──そういうわけですので、留学の件、よろしくお願いいたします、エルドゥ魔王陛下」
『ククク、聞き分利が良くて助かるわ。では、準備が整い次第、そこのアノマリアに境界の門を開かせ、魔界へと赴くが良い』
「はい、承知いたしました」
『では、楽しみに待っておるぞ』
通信が切れた後、周囲の生徒や講師たちから突き刺さるような、嫉妬と猜疑の入り混じった視線が注がれるのを感じたが、俺たちにとって束の間の息抜きが必要だったのは紛れもない事実だった。
「では校長、これより早退させていただきます。それから、半年ほど魔界へ行ってまいります」
「ああ。まあ、君たちのことだから何の心配もしていないよ。せいぜいゆっくりと羽を伸ばしてきなさい」
「セマフォ殿下も、しばらくの間、留守をお預けします」
「うむ。校長の言う通り、君たちの実力なら案ずる要素は何一つない。むしろ、向こうの知識を貪る勢いで、存分に見聞を広げてきてくれ」
「……? 分かりました」
殿下のどこか含みのある言い回しに首を傾げつつも、俺はルビィの腕を引いた。
「じゃあ、一度邸に戻って荷造りをしようか、ルビィ」
「ええ。少し不穏な空気は気になるけれど、楽しみね!」
こうして俺たちは、慌ただしく侯爵邸へと引き返すのだった。
◆
その頃、主役を失った王立アルテア貴族学院の広場では、残された大衆が騒然としていた。
「やはり、ルーカスたちは人類を裏切って魔族の軍門に降ったのだ!」
「そうだ! 敵対勢力と通じるような危険分子は、この際、魔界へ永久追放すべきだ!」
根拠のない身勝手な罵声が大勢を占める中、フォーク校長とセマフォ殿下が毅然とした足取りで壇上へと進み出た。
その圧倒的な威厳に押され、一同はしーんと静まり返る。
「……君たちは、根本から大きな勘違いをしているな」
校長が憐れむような視線を向けると、一人の学生が反論の声を上げた。
「大きな勘違い!? 何が勘違いと言うのです、フォーク校長!」
「君たちは、彼らが不在となるこれからの半年間、文字通りこの世の地獄を見ることになる、と言っているのだ」
「地獄だって!? 恐ろしい魔族が蠢く魔界こそが地獄でしょう、セマフォ殿下!」
別の講師が叫んだその時、背後の馬車から厳かな声が響いた。
「聖人、そして聖女が消え失せた世界がどれほど無残なものになるか、これからが良い見ものですな」
「あ、貴方は……アッセンブリ教皇聖下!? なぜこのような場所に……!」
聖職者の最高権威の登場に、その場にいた全員が平伏する。
「君たちのあまりの愚かさに鉄槌(説教)を下そうと思って足を運んだのだが……どうやらその必要もなくなったようだ。せいぜい、自らの肌で地獄の味を味わいなさい」
「聖下、あの二人がいなくなった程度で、何をそんなに大げさな……!」
アッセンブリ教皇は冷ややかに咳払いをした後、静かに、しかし残酷な事実を告げた。
「大げさなものか。問題は、先ほどセマフォ殿下が仰った通り、あの二人が本物の『聖人』と『聖女』であるという点なのだ。分かりやすく説明してやろう」
「分かりやすく……?」
「これから半年の間、人界全土で『魔物の大氾濫』が至る所で大量発生する」
「「「っ……!?!?」」」
一同は驚愕のあまり言葉を失った。
「当然の帰結であろう。人類の絶対的な守護者であり、世界の歪みを抑え込んでいた聖人と聖女が、この地からいなくなるのだ。今までとは比較にならない規模で魔物の大氾濫が起き、街道で強大な魔物と遭遇する確率は跳ね上がる」
「な、何ということだ……!」
「だが、我が教会は君たちを救うために一切の手を貸すつもりはない」
「「「……」」」
もはや誰も声が出ない。
絶望に震える一同を見下ろし、セマフォ殿下が冷酷に追撃の言葉を放った。
「王宮側としても、騎士団を各領地へ割く余裕はない。押し寄せる魔物から王都の防衛線を維持するだけで手一杯になるからな。──よって、自身の領地の安全は、自分たちの武力だけで対処するように。以上だ」
◆
そんな恐ろしい事態が進行しているとは露知らず、俺とルビィは、邸の私室でかなり遠足気分のノリノリな様子で旅の支度を調えていた。
すると、ルルがふわりと宙に浮き、アノマリアとしての厳かな口調で俺たちを見つめた。
「あるじ、お嬢様、出発の準備は整ったのー?」
「ああ。俺の無限収納には、万が一の事態に備えて大量の食料備蓄や予備の防具、最高峰の武具一式を詰め込んである。あとは最低限の着替えくらいかな」
「こっちも、私の無限収納に必要な日用品をしっかり入れたわ。お気に入りのドレスや着替えもバッチリよ!」
「……ルビィ、君いつの間にそんな高等な時空魔導を習得したんだ?」
「え? 聖女として覚醒した時に、自然と使えるようになっていたけれど?」
「なるほどな……(主神様の至れり尽くせりな配慮には恐れ入るよ)」
何はともあれ、準備は万全だ。
「よし、準備完了だ。ルル、いやアノマリア。いつでも魔界への門を開いてくれ」
「承知したおー。それじゃあ──開け、境界を繋ぐ魔界の門!」
ルルが短い前足をかざすと、空間が黄金の厳かな光で縁取られ、見たこともない重厚な大門が出現した。
「じゃあ、いざ未知の魔界へ行ってみよう!」
「ええ、行きましょう!」
意を決して光り輝く門をくぐり抜けた俺たちが目にしたのは──どこまでも深く澄み切った青空と、瑞々しい緑がどこまでも広がる、息を呑むほど美しい大自然の絶景だった。
「ここが……本当に魔界なの? どちらかといえば、お伽話に出てくる楽園(天国)みたいじゃない!」
「そうだね、ルビィ。俺も全く同感だ。前世の言葉で言うなら、世俗を離れて自然と共に穏やかに暮らす、いわゆる『悠々自適なスローライフ』を満喫していそうな連中が住む場所だね」
「ふむ。スローライフとやらは、大体的を射ておるな」
不意に背後から響いた威厳ある声に、俺たちは跳び上がって振り返った。
「エルドゥ魔王陛下!? いつの間にそこに!?」
「何を言うか、最初からここで汝らを待っておったわ。驚くのはまだ早い、我が城を見てみるが良い」
「城? え……っ、これは凄いな!」
「ルーカス、一体何が……って、わあ、本当に凄い!」
俺たちの視線の先、遥か壮大な山肌の険しい中腹に、自然の岩肌と完璧に調和した荘厳極まりない神殿のような大建築物がそびえ立っていた。
「……あ、ひょっとしてこの精緻な石積みと補強は、ドワーフ族の手によるものですか?」
「よう気がついたな、ルーカスよ。その通り、アクオからこちらへ移住してきた熟練のドワーフたちが、総力を挙げて築いてくれた我が新たなる魔王城じゃ」
「素晴らしい、の一言に尽きますね」
「ほう、ルーカスにはこの価値が分かるか?」
「ええ、もちろんです。大自然の景観を一切損なうことなく、むしろ引き立てるように設計されている。それでいて、魔王の居城としての絶対的な気高さと要塞としての強固さを失っていない」
「それに、どこか神聖な雰囲気すら感じられますわ」
ルビィの言葉に、エルドゥ魔王は至極満足そうに髭を揺らして目を細めた。
「ククク、そうか。そこまで気に入ってもらえたなら案内し甲斐があるというもの。まずは汝らの客間へ案内しよう。半年間は、そこを拠点にしてこちらの学園へ通うと良い」
「学園、ですか。ちなみに、その学園の正式な名前は……?」
「いや、学園は学園じゃ。特に大層な名称など設けてはおらんぞ」
「そうですか……」
「どうした、妙な顔をして」
「いえ、人間界とのあまりの文化の違い(カルチャーショック)に、早くも圧倒されているだけです」
「ハハハ! ならば、学園の門をくぐればさらに腰を抜かすことになるぞ。楽しみにしておくが良い」
「……覚悟しておきます」
「そう身構えるな。皆、首を長くして汝ら二人の到来を待っておるのだからな」
「皆、というと……?」
「うむ。エルフ、ドワーフ、ハーフリング──かつて人界を見限ったあらゆる亜人の同胞たちが、汝らとの再会を心待ちにしておるぞ」
「それって……もしかして、アクオを発つ前に俺の元へ別れの挨拶に来てくれた、あの職人や冒険者たちにまた会えるんですか!?」
「そういうことじゃ。大いに楽しみにするが良いぞ」
「「はい!」」
俺とルビィは顔を見合わせ、晴れやかな笑顔で同時に返事をした。
◆
その頃、俺たちが新天地へと足を踏み入れた瞬間から、オーエス国だけでなく人界全土の全域において、未曾有の規模の『魔物の大氾濫』が一斉に勃発していた。
時を同じくして、アッセンブリ教皇が全世界に向けて公式な声明を発表した。
それは、人類の至宝たる聖人ルーカスと聖女ルビィの二人が魔界へ留学したこと、そしてオーエス国の王立学院や王都の愚民どもが、引き留めるどころか二人を追い払うかのように魔界へ送り出してしまったという、衝撃的な事実の暴露だった。
この発表を受けて、世界中の国々からオーエス国に対して、怒号に近い猛烈な非難声明が嵐のように殺到した。
当然、戦犯として名指しされた王立アルテア貴族学院は、国内外からの冷たい視線に晒され、文字通り針の筵状態に陥った。
アクオ都市での排斥運動から始まり、最近に至るまでのルーカスに対する数々の不当な仕打ちを知った諸外国の使節団は、オーエス国政府、とりわけ学院の運営責任を徹底的に追及し始めたのだ。
これに対し、フォーク校長は公式の場で諸外国へ向けて正式に謝罪した上で、毅然とした態度でこう声明を締めくくった。
「──これは、人類がいずれ必ず経験することになる『最悪の未来』に備えた、事前の実戦訓練だと思って、これからの半年間を死に物狂いで耐え抜いていただきたい」
その言葉の真意を問いただそうとする報道陣に対し、校長は冷淡に言い放った。
「彼ら聖人・聖女とて、不老不死ではない。いずれ天寿を全うし、この世界から去る時が来る。今回は、彼らが完全にいなくなった世界で、我ら凡愚がどう生き残るべきかを学ぶための、これ以上ない生存実験なのだよ」
この冷徹な現実を突きつけられたオーエス国内の世論は、手のひらを返したように一変した。
あれほど怪物と恐れていたルーカスとルビィへの熱狂的な賛美と畏敬の声が国中に溢れ返り、代わりに彼らを追い詰めた王立学院の無能どもや、アクオ都市の浅はかな住民たちへの激しい批判の嵐が吹き荒れた。
しかし、いくら悔やんだところで英雄たちはもういない。
学院の生徒たちも、アクオの住民たちも、押し寄せる魔物の恐怖に怯えながら、ただ絶望の中で半年間を耐え忍ぶしか道は残されていなかった。
こうして人間社会は、自らが手放した奇跡の重さを身に染みて理解し、ルーカスの帰還を、一日が千年に思えるほどの切なる思い(一日千秋)で待ち侘びることになるのだった。
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