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第五話 精霊魔術とルーカス

 セマフォ殿下が提示してくれた二週間の休学期間が明けても、俺は精霊魔術の研究を辞めなかった。


 アクオ、ひいてはオーエス国全土から去っていったエルフたちが、あの時、俺に託していった精霊魔術の古文書。


 彼らは一体、どんな意図を込めてあの貴重な本を俺に残していったのか──。


 その真意を突き止めたいという思いが、俺を突き動かしていた。


 だが、そんな俺に対する周囲の反応は冷ややかなものだった。


「あいつ、また変な術に手を出し始めたぞ」


「人族には使えもしない精霊術を研究して、一体何になるっていうんだ」


「今度は何を企んでいる? どこまでも無駄なことを……」


 聞こえてくるのは、概ね変人扱いする声ばかりだった。


 教壇に立つ講師たちでさえ、俺を奇異の目で見ていたほどだ。


 ただ、同じ学年の友人たちや、妹のアドミナが通う学年の生徒たちだけは違った。


「ルーカスなら、あるいは本当に使えるようになるかもしれない」


 彼らはそんな微かな期待を寄せてくれていた。


 俺は周囲の喧騒を完全に遮断し、精霊魔術という未知の術式が、どのような手順(プロセス)を経て発動するのかに全神経を注いだ。


 解析を進めるうちに、精霊魔術の本質は、どちらかといえば『召喚術』に近いという結論に至った。


 一般的な召喚術は、召喚したい対象とあらかじめ個別の契約を結び、専用の術式を用いて対象に自身の魔力を分け与えることで、現世へと呼び出す。


 対する精霊魔術も同様だ。


 力を借りたい精霊と契約を交わし、行使したい術式に合わせて精霊を呼び出し、自身の魔力を対価として与えることで、その精霊固有の権能を発揮してもらうという仕組みだった。


 ただし、これには極めて高い障壁が存在した。


 精霊と契約を結ぶには、まず大前提として、不可視の精霊を視認できる『精霊眼』を持ち、彼らと対話ができなければならない。


 エルフなどの妖精族は生まれながらにこの特異な眼を有しているため、ごく自然に精霊術を扱えるのだ。


 さらに、彼らと対話するためには『精霊語』という極めて特殊な古代の言語を習得する必要があり、同時に精霊たちの微かな声に耳を澄ませる『精霊聴覚』とでも呼ぶべき感覚も不可欠だった。


 翻って、人族には先天的な精霊眼など存在しない。


 その上、精霊語は人族の発声器官では再現が難しいほど発音が複雑で、そもそも精霊の声そのものが人族の耳には一切届かないのだ。


 一通りの条件を把握した俺は、上質な職人仕込みの甘い菓子(チョコドーナッツ)を主神へのお供え物として捧げると、脳内で天界の基幹へと接続した。


 幸いなことに、俺の魂には未だに天界の術式構成を書き換えられる『開発者権限(デベロッパー・アカウント)』が生きていた。


 俺はその特権を迷わず行使し、自身の肉体へ『精霊眼』と『精霊聴覚』の二つの感覚を強制的に付与した。


 言語の壁に関しても、元々持っている『全言語理解及び会話マスターのスキル』があるため、何の問題もない。


「よし、それじゃあ実際に精霊がいそうな場所へ行ってみようか」


 俺は肩に乗ったルルを連れて、学院の裏手に広がる、自然豊かな深い森へと足を運んだ。


 久しぶりに俗世の喧騒から離れ、清らかな緑に囲まれた道を散策していると、張り詰めていた心がゆっくりと解きほぐされていくような解放感(デトックス効果)があった。


 ここ数日、胸の奥で渦巻いていた重いざわつきが、静かに引いていくのが分かった。


 やがて森の奥深くにある、透き通った美しい泉へと辿り着いた時──その水面で、楽しげに跳ね回る水の精霊『ウンディーネ』の姿が、俺の目に鮮明に映り込んだ。


『こんにちは、ウンディーネさん』


 俺が精霊語で語りかけると、水面の妖精は驚いたように動きを止め、大きな瞳を丸くした。


『えっ……? あなた、人族よね? どうして私の姿が見えるの?』


『ええ、はっきりと見えていますよ。もしよろしければ、少しお話をさせていただけませんか?』


『私に何を聞きたいの?』


『ここにいる相棒のルル──いえ、アノマリアが、精霊魔術は世界(自然)にとても優しい術式だと言っていたので、その理由を知りたくて』


『それは本当よ。私たち精霊は、あなたたち人族の魔法のように、世界の理(物理法則)を無理やり捻じ曲げて力を行使したりしないもの』


『捻じ曲げる……。つまり人族の魔法は、周囲の環境に大きな負荷を強いている、という認識で合っていますか?』


『ええ、大体合っているわ。その無理強いを重ねた結果、魔法を発動した後の空間には、目に見えない傷が残ってしまうの』


『傷、ですか?』


『そう。その傷が同じ場所に溜まり続けると、いずれ空間そのものに修復不可能な裂け目ができてしまうの。もしそこに落ちたら、二度と元の世界には戻れなくなるわ。だから私たち精霊は、神様たちからその傷を修復する役割を与えられているの。その代わりとして、空間に傷を残さない自然の力──あなたたちの言う精霊魔術を扱う権能を授かっているのよ』


『なるほど……。妖精族の皆さんは、その事実を知っているのですか?』


『ええ、もちろん。彼らは生まれながらに自然の一部だから、教わらなくても本能でその仕組みを理解しているわ』


『ありがとうございます。とても有益な情報を聞けました』


 俺が深く一礼すると、ウンディーネは不思議そうに首を傾げた。


『あら……? てっきり、私と精霊契約を結びに来たわけじゃないのね』


『できれば契約を結びたいところですが、精霊の皆さんに無理強いをしてまで力を借りるつもりはありませんから』


『ふふ、そうなのね。あなた、私が今まで見てきたどの人族とも、全然違うのね』


 そこまで黙って会話を聞いていたルル──アノマリアが、不意に自慢げに口を挟んだ。


『ルーカスは特別な存在なんだおー。彼は来たるべき時のための、対勇者用の切り札なんだおー』


『ルル、いやアノマリア、俺はまだそんな覚悟は……』


『時間の問題だおー。早いか遅いかの違いだけだおー』


 二人のやり取りを見たウンディーネは、ハッと得心がいったように両手を叩いた。


『なるほど、あなたが噂の“ルーカス・アルマギナ”だったのね! やっと合点がいったわ』


『えっ……? 俺、精霊たちの間でも有名人なんですか?』


『ええ、アクオやこの国を去っていったエルフやドワーフ、ハーフリングたちが、精霊界へ戻るなりこぞってあなたの話題を口にしていたもの。“人間の中に、信じられないほど奇妙な傑物がいる”ってね』


『そうなんですか……。てっきり、また変人扱いされているのかと』


『逆よ、みんな大絶賛していたわ。亜人を決して差別せず、それどころか魔族の王たちと同じように、対等に守ろうとしてくれたって』


『……ふう。良かった。彼らにまで拒絶されていたら、流石に立ち直れなくなるところでした』


『噂には聞いていたけれど……人族の同胞たちから拒絶され始めているというのは、本当だったのね』


『お恥ずかしい限りです。同じ人族から、これほど嫌悪されるとは思いもしませんでした』


『身勝手な人間たちに嫌われたって、別にいいじゃない? てっきり、とっくに人族を見限って魔界へ行ってしまったものだと思っていたけれど。……ねえ、それなら退屈しのぎに、一度私たちの精霊界へ遊びに来てみる?』


『えっ、俺のような者が入っても良いのですか?』


『あなたなら大歓迎よ。アノマリアが一緒なら、なおのこと安心だわ』


『それじゃあ……お言葉に甘えて、少しお邪魔してみようかな』


『決まりね! じゃあ、私にしっかり付いてきて』


 ウンディーネが愛らしく微笑んで細い手をかざすと、虚空に揺らめく精霊界への光の扉が静かに開いた。


 彼女がその中へと滑り込んでいくのを見て、俺は一瞬だけ躊躇したものの、思い切ってその光の向こう側へと一歩を踏み出した。


 ◆


 その頃、ルーカスがウンディーネと会話を交わしていた泉の近くには、草陰からその様子を窺う不穏な影があった。


「……おい、何だあいつ? ルーカスの奴、さっきから泉に向かって独り言をブツブツ呟いていると思ったら、突然跡形もなく消えちまったぞ」


「隣に魔王軍のアノマリアがいたんだ。どうせあの使い魔の術で、魔界にでも連れて行かれたんじゃないのか?」


「いや、それにしちゃあ、あのアノマリアの奴、一言二言しか喋ってなかったように見えたが……。まあ、何を言っているかは遠くて聞こえなかったがな」


「フン、理由なんてどうでもいいさ。これでまた『ルーカスが魔王軍の幹部と密会して消えた』って内容の中傷ビラを作って、学院の掲示板に貼り付けてやればいい」


 卑しい笑みを浮かべて密談を交わす二人の背後に、突如として冷徹な足音が響いた。


「そこまでだ、不届き者ども」


「──なっ!? セマフォ殿下……っ!?」


 現れたのは、セマフォ王太子、そして彼が率いる王室直属の隠密部隊『影』の長、パスカルたちだった。


「やはりな。ルーカス卿を敢えて泳がせておけば、必ず君たちのような残党が尻尾を出すと踏んでいた。パスカル、連中を拘束しろ」


「御意。既に身動きは封じてあります」


 パスカルが合図を送ると、周囲の空間から一瞬にして影たちが現れ、二人の学生の腕を背後で完璧にねじ伏せた。


「よし。我が国の国権を揺るがす英雄をおとしめようとした罪、じっくりと聞かせてもらおうか。……I組の、哀れな底辺の工作員諸君?」


「う、うがああああッ!?」


 必死に抵抗しようと口を開いた学生に対し、パスカルは容赦なく冷たい視線を浴びせる。


「無駄に騒がない方が身のためだぞ。無理に叫べば、顎の骨が外れることになる」


「……っ!」


「よし、全員引っ捕らえよ。地下の尋問室へ連れて行く」


 こうして、学院を騒がせていた悪質な告発ポスター事件は、セマフォ殿下の手によって一応の完全な収束を迎えたのだった。


 ◆


 その頃、ルーカスは現世とは切り離された、瑞々しい生命力に満ちた精霊界の広場で、ウンディーネや羽の生えた小さなピクシーたちと平和に戯れていた。


「ねえ、ピクシーとフェアリー(妖精族)って、見た目はすごく似ているけれど、具体的に何が違うの?」


 俺の問いかけに、一匹のピクシーが空中でくるりと宙返りをしながら答えてくれた。


「私たちはね、世界の純粋な魔力から生まれた『精霊』そのもの。フェアリーは、肉体を持って生きている『妖精族』の一種よ。一番の大きな違いは、普通の人間には姿が見えるか見えないか、なんだけど……ルーカスには最初から見えてるんだよね?」


「ああ、正確に言えば、見えるように自分の知覚を書き換えたんだ」


「ふふ、やっぱり変わってるねー、この人間!」


 その様子を横目で見ていたルルが、やれやれと首を振る。


「我が主は生まれつきの変わり者だからなー」


 その穏やかな時間が、唐突に破られた。


 さっきまで嬉しそうに俺の髪や肩に止まり、甘えるようにすり寄ってきていたピクシーやウンディーネたちが、何かに怯えたように顔を青ざめさせ、一斉に草陰や木の葉の裏へと隠れてしまったのだ。


「あ、あれ……? みんな、一体どうしたんだ?」


 不審に思った瞬間、精霊界を優しく満たしていたはずの清らかな魔力が、ぐにゃりと不気味に歪んだ。


 世界の天井がそのまま落ちてくるかのような、文字通り次元の違う圧倒的な威圧感(プレッシャー)が、俺の全身に容赦なくのしかかる。


 ゴゴゴゴ……と大地が底から鳴動し、虚空の空間が大きく引き裂かれた。


 そこから姿を現したのは、世界の根幹たる自然の法則そのものが肉体を持ったかのような、あまりにも巨大で、あまりにも神聖な「六つの人影」──この世界の頂点に君臨する『精霊王』たちだった。


 その桁違いの神威を肌で察知した俺は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


(っ……!? マズい、許可なく異界へ足を踏み入れた無礼を働いて、この世界の主たちを怒らせてしまったのか……!?)


 緊張で身を固くする俺を見下ろし、燃え盛る爆炎を全身に纏った大男──火の精霊王イグニスが豪快に腕を組み、地響きのような声を轟かせた。


「フン……待たせおって。こ奴が下界のエルフやドワーフの間で噂になっている『妙な人間』か」


 続いて、清冽な大渦の中から、息を呑むほど美しい水の女王──水の精霊王アクアリアが、妖艶な笑みを浮かべて姿を現す。


「ええ。矮小な人族の身でありながら亜人を蔑まず、我が愛しき同胞たちにも等しく慈悲を注ぐという、まるで奇跡のような御仁です。……ふふ、実物は噂以上に、とても美味しそうな魂の輝きをしていますね」


 水の女王が、獲物を定めるかのように妖しく目を細めて俺を凝視する。


 すると今度は、俺の脳内に風の王ゼピュロスの軽快な声が直接響き渡った。


「精霊界の伝聞(口コミ)を舐めちゃいけないよ、人間くん。君のこれまでの善行は、ぜーんぶ僕らの耳に届いてるんだ。……で、さっそく結論から言っちゃうとさ」


 六人の王たちが、一歩、同時に俺との距離を詰めてくる。


 大樹のような巨体を誇る地の精霊王ギガスが、重低音で告げた。


「我ら全員、お前のことが酷く気に入った」


 眩い後光を背負った光の精霊王ルミナスが、うっとりとした表情で両手を頬に当てる。


「ええ。これほど愛おしく高潔な人間、それこそ何千年も現れませんでしたもの。絶対に他の国や、天界の神々なんかに渡すわけにはいきませんわ」


 深淵の闇を切り裂いて現れた闇の精霊王エレボスが、低く冷徹に囁いた。


「……故に、今ここで、我が影の檻に縛り付け、私のものとする」


 その不穏な言葉に、俺は思わず後ずさりした。


「え? え、あの……気に入っていただけたのは大変光栄ですが、縛り付けるって、一体──」


 すると、イグニスがエレボスに向かって激昂の炎を噴き上げた。


「おいエレボス、貴様だけ抜け駆けなど断じて許さんぞ! 最初にその薄汚い影ごと焼き尽くしてやろうか!」


「あら、焼くならあなたのその品性のないドロドロとした炎よ、イグニス。この方は、私が責任を持って我が水底の宮殿へ連れて帰ります」


「はいはいストップ! そこで喧嘩するなら、僕が自慢の暴風で一瞬にしてかっさらっちゃうもんねー!」


「ちょ、ちょっと待ってください! 皆さん、一旦落ち着いて──」


 俺の静止などまるで耳に入らない王たちの前に、光の女王ルミナスが優雅に進み出た。


 彼女は聖なる光を湛えながら、しかし、絶対に逃がさないという強烈な意思を秘めた、満面の笑みを浮かべた。


「うふふ、皆さん、これではいつまで経っても話がまとまりませんね? でしたら……」


 ルミナスは人差し指を立て、極めて淑やかに提案した。


「──全員同時に、この場で契約(はんこ)を刻んでしまえば、すべて解決ですわ」


 その斜め上の解決策に、俺は驚愕のあまり裏返った声をあげた。


「はあぁっ!?!?」


 だが、他の精霊王たちは一瞬で顔を輝かせ、


「「「それだ!!!」」」


「いや『それだ』じゃないでしょ!! 待ってください、当事者の俺の意見は──」


 ──もちろん、世界の主たる彼らが、一介の人間の意見など最初から持ち合わせているはずもなかった。


 六人の精霊王が一斉に天空へと手を掲げた瞬間、精霊界に満ち満ちていたすべての原初魔力が、俺という一点に向かって猛烈な勢いで収束し始めた。


 紅蓮の猛炎、清冽な水流、吹き荒れる暴風、うねる大地、眩い聖光、そしてすべてを飲み込む常闇。


 視界を埋め尽くす六色の魔力の奔流が、俺の肉体へと容赦なく、暴力的なまでの密度でねじ込まれていく。


 同時に、俺の左手の甲に、これまでの歴史のどれにも属さない、複雑怪奇で恐ろしく美しい【全属性の神聖紋章】が強制的に刻み込まれていった。


「うわああああっ!?(なんで歓迎されてるはずなのに、こんな目に遭うんだーーーッ!?)」


 強烈な光と衝撃の中、俺の意識は白濁する──。


 こうして、本人の意思や預かり知らぬところで、世界最強かつ前代未聞である、全精霊王による強制一括契約が完了してしまったのだった。


「あるじ、見事にすべての精霊王と契約を結んじゃったおー」


 光が収まり、疲れ果てて地面に手をつく俺の頭上で、ルルがのんきに声をかける。


「いや、結んじゃったおー、じゃないんだよ……。何なんだ一体……」


「がんばえー」


「今さら応援されても遅いよ!」


 そんな俺たちのやり取りを見ていた光の精霊王ルミナスが、ルルの存在に気づいて細い眉を寄せた。


「おや……そこにいるのは、魔界の特異点『アノマリア・ヴァル・クリテリオン』ではありませんか。まさか、あなたが先にルーカスを主として契約を結んでいたのですか?」


「契約なんて結んでないおー。むしろ昔、記憶を失って見世物小屋で酷い鞭打ちに遭っていた私を、あるじが激怒して助けてくれたんだおー」


 それを聞いた火の精霊王イグニスが、豪快に笑い飛ばした。


「ガハハ! それしきのことで恩義を感じて付き従っているのか? 貴様も随分とチョロい妖精だな!」


「チョロくなんかないおー! あるじは本当に優しいんだおー!」


 ルミナスは得心がいったように、美しい顎に手を当てた。


「ほう……。エルフたちの噂は本当だったのですね。人間の身でありながら、虐げられる亜人のために本気で怒ることができるとは。……ふふ、ますます気に入りましたわ。ルーカス、しばらくこの精霊界で遊んでいきなさい。ここは現世よりも時の流れが極めて緩やかですから、一晩過ごしたところで、戻る頃にはあちらではほんの一瞬の出来事ですわ」


「はあ……。分かりました。お言葉に甘えて、しばらくお世話になります……」


 全精霊王の圧倒的な好意(物理)に圧された俺は、ただ大人しく首を縦に振るしかなかった。


 ◆


 その頃、現世の深い森の中では、セマフォ殿下とパスカルが、ルーカスの気配が途絶えた泉の周囲をくまなく捜査していた。


「……おかしいですね。殿下、ルーカス卿の足跡も魔力の痕跡も、ここで不自然なほどすっぱりと途絶えています」


「ああ、無事なら良いのだが……。まさか、あの中傷に嫌気がさして、本当に魔界へ亡命してしまったわけではないだろうな?」


「いえ、どちらかといえば『精霊界』に足を踏み入れたと見るのが妥当でしょう。ここ最近、彼は邸の書庫に引きこもって精霊魔術の文献ばかりを貪るように読み漁っていましたから」


「しかしパスカル、人族の身で精霊魔術を扱うなど、この世界の常識では不可能なはずだが?」


 殿下の至極尤もな疑問に、パスカルは可笑しそうに肩をすくめた。


「殿下、あのルーカスに対して、今さら『常識』という尺度を求めてはいけませんよ」


「……それもそうか。あのルーカスだもんな」


「ええ。案外、次に姿を現す頃には、何食わぬ顔で精霊魔術を完璧に使いこなしているに違いありませんよ」


 その会話が交わされた直後、二人の目の前の空間が波紋のように揺らぎ、光とともに俺とルルが姿を現した。


「──大正解だよ、パスカル。セマフォ殿下、ご心配をおかけして申し訳ありません」


「ルーカス!? どこへ行って……って、待て、君のその左手の甲にある禍々しいまでの紋章は一体何だ!? まさか……」


「あはは……殿下、相変わらずお察しが良いですね。その『まさか』です。全属性の精霊王たちと、まとめて一括契約を結ばされちゃいました」


「結ばされ──って、えええええええええええっ!?」


 高潔な王太子らしからぬ大声をあげる殿下をよそに、俺は隣の隠密頭に視線を向けた。


「パスカル、もし手元に革製の指ぬきサックか、紋章を隠せるような手袋の余りがあったら、安く譲ってくれないか?」


「……ただでやる。それを使い、その紋章を隠すつもりか?」


「まあね。流石にこの紋章を剥き出しにしていたら、前代未聞すぎてまた面倒な噂が立つだろう?」


「余計な混乱を招くだけだからな。賢明な判断だ。そもそも、世界最高峰の力を周囲に見せびらかすような男でもないしな、君は」


 パスカルが懐から上質な黒革の防具を取り出し、俺に手渡そうとしたその瞬間だった。


「あ……消えた?」


 俺の左手の甲に深く刻まれていたはずの六色の紋章が、まるで最初から存在しなかったかのように、すうっと空気の中に溶けて消えてしまったのだ。


 ルルが俺の肩の上で、得意げに胸を張る。


「安心するといいおー。精霊王たちの神聖紋章は、あるじが実際に精霊魔術を行使する時以外は、自動的に不可視化される仕組みになってるんだおー」


「……精霊術の契約というのは、そういうものなのか?」


「そういうものなのだー!」


 一連の常識破りな光景を目の当たりにしたセマフォ殿下は、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに息を吐き出した。


「……つまり、どこまで行っても『ルーカスはルーカスのままであった』ということだな」


 パスカルも同意するように、深く頷く。


「ええ。まあ、何と言っても『あの』ルーカスですからね」


 こうして、学院を揺るがした中傷事件と、前代未聞の精霊界迷い込み劇は、誰に知られることもなく静かに幕を閉じた。


 その後、邸に戻った俺が、左手の手袋を外して事の顛末を話した際、ルビィとアドミナの二人から「ずるい!」「私たちも精霊王に会いたかった!」と、烈火のごとく羨ましがられたのは言うまでもない。


 この時、強制的に結ばされた全精霊王との契約が、のちの動乱において、俺たちの命を救う決定的な切り札となるのだが──。


 この時の俺には、そんな遥か先の未来のことなど、知る由もなかった。

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