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第七話 緒戦

 三ヶ月の静寂の後、ついに開戦の火蓋は切って落とされた。


 しかし、アクオ領へと向かって進軍する民兵や下位の騎士爵たちの足取りは、鉛のように重かった。


 当然の反応と言えた。


 彼らは、あの豊かな新生都市アクオを攻めることに心から反対だったのだ。


 だが、強欲な貴族たちや教会勢力によって故郷の家族を人質に取られており、理不尽な命令に嫌々従っているに過ぎない。


 彼らの行軍の遅さは、オーエス国内はおろか、このローゲスト世界の戦史上でも類を見ないほどだった。


 これに対し、反旗を翻した守旧派貴族と教会は業を煮やし、前線へ容赦なく行軍を急がせた。


 彼らとて、一刻の猶予もない切羽詰まった状況だったのだ。


 すでにルビィの属するセル商会や広域の商会組合によって、交戦予定である貴族や教会の口座から一斉に資金が引き揚げられていた。


 深刻な軍資金不足に陥った彼らは、手元の残金が完全に底を突く前にアクオを陥落させ、力ずくで財貨を奪い取るしか道がなかったのだ。


 しかし、ただ歩いている間にも、兵站の維持や雇い入れた傭兵への支払いによって資金は刻一刻と減り続けていく。


 今回、戦場に集まった傭兵たちは、反乱貴族たちの不穏な台所事情をいち早く察知し、すべての契約を日当払いに変更させていた。


 己の命を懸けて戦った挙句、報酬を踏み倒されてはたまったものではないからだ。


 当初、反乱貴族や教会は、戦後に占領したアクオからすべてを略奪し、その富を傭兵への手切れ金にすれば良いと高を括っていた。


 だが、百戦錬磨の傭兵たちの目は欺けない。


 兵の数こそ膨大だが、その大半は無理やり駆り出された民兵や下位貴族であり、士気は地に落ちている。


(この戦、良くて引き分け、最悪の場合は大敗だな)


 そう予想を立てる傭兵は少なくなかった。


 また、平民の家族を人質に取るという雇い主の卑劣なやり方にも、内心ひどく嫌気が差していた。


 裏稼業の傭兵とはいえ、彼らにも一端の信条はあるのだ。


 そうして不穏な空気を孕んだ大軍が、ようやくアクオの境界へと辿り着いた時──彼らが目にしたのは、ただの絶望だった。


 ◆


「……本当に、城門の真ん前にティアマットなんて召喚して良かったのかい?」


 アクオの強固な防壁の上から大軍を見下ろし、バイナリが苦笑交じりに尋ねてきた。


 対するルーカスは、事も無げに応じる。


「これぞ『積極的防衛』というものだよ、バイナリ」


「相変わらず、物は言い様だね」


「まあ、後ろでふんぞり返っている大貴族どもはともかく、少なくとも前線に立たされている民兵や騎士爵たちの足は、これで完全に止まるだろう?」


「確かにね。あんな伝説の神獣を前にして、まともに突撃できる人間なんてそうはいないさ。──で、足を止めた後はどうするんだい?」


「時間を稼ぐ。その間に、パスカルたちヴィルト侯爵家の隠密部隊が敵の領地へ潜入し、人質にされている彼らの家族の救出に成功すれば、その時点で敵の民兵は一気に瓦解する。そうなれば、残るのは金で動く傭兵と、安全な本陣で高みの見物を決め込んでいる反乱貴族や教会の生臭坊主どもだけだ」


「計画通りに行けばいいけどね」


「ああ。だから、戦意を削ぐための景気づけとして、あそこで物見遊山を決め込んでいる貴族どもの本陣へ、一発大きいのをぶち込んでやろうかと思ってね」


 不敵に笑うルーカスに、ルビィが尋ねた。


「大きいのって、何をぶち込む気?」


「そうだな……『超古代の隕石落下魔法メテオ・ストライク』あたりが妥当かな。どう思われます、アッセンブリ元枢機卿?」


 話を振られた初老の男──かつて教会を追われ、マギナ騎士爵領で燻っていたアッセンブリが、深く刻まれた顔の皺を揺らして微笑んだ。


「ふむ。前線の民兵たちに巻き添えが出ないよう、着弾の範囲を完全に制御できるかね?」


「もちろん、容易なことです」


「よろしい。もし敵が小規模な隕石魔法などで反撃を試みた場合は?」


「こちらの広域防御結界で、傷一つなく跳ね返してみせますよ」


「ならば、敵の陣営に何かしらの動きがあった瞬間、即座に実行に移すと良い」


「はい、アッセンブリ様」


 かつてアッセンブリの鑑定ステータスに刻まれていた、【裏切られし者】【酒に溺れし者】という不名誉な称号はすでに消え去っていた。


 現在の彼の背には、【担がれし者】【次期教皇候補】という輝かしい称号が刻まれている。


 ルーカスが彼から帝級の神聖術式を写し取ってから、早いもので十一年。


 かつて絶望の底にいたアッセンブリの瞳は、今や現役の聖職者だった頃よりも遥かに鋭く、精強な光を放っていた。


 彼は今回の戦にあたり、「現在の教会に正義なし」と断言し、さらにルーカスとルビィが本物の聖人・聖女であるという厳然たる神の証明を引っ提げて、古巣である教会へ真っ向から反旗を翻したのだ。


 実は、アッセンブリが率いる穏健派の手によって、すでに教会内部の切り崩し工作も着実に進んでいた。

 教会とて決して一枚岩ではない。


 しかし、欲に目が眩んだ反乱軍の指導者たちは、そんな足元のひび割れに気づくこともなく、ただ自分たちに都合の良い情報だけを信じ込んでいた。


『アルマギナの神童は偽聖人、婚約者は偽聖女である!』


 そんな根拠のないスローガンを掲げ、自分たちの略奪行為こそが正当であると固く信じ込んでいたのだ。


 やがて、アクオの沈黙に業を煮やした敵の本陣から、都市を包囲するように全軍へ展開の指示が出された。


 だがその瞬間、城門前に鎮座する竜王ティアマットが大きくあぎとを開き、地を這うような爆炎の息吹ブレスを放った。


 轟音と共に、進軍ルート上の大地がドロドロの溶岩へと変えられていく。


 一瞬にして目前の地面が融解する様を見せつけられ、それ以上足を進めようとする兵は一人としていなかった。


「よし、位置は固定されたな」


 ルーカスは、敵陣に掲げられた三百を超える大貴族たちの旗印を目印に、『遠見の魔法』で本陣の様子を観察した。


 そこには、怯える民兵たちの姿など微塵もなく、戦場の緊張感もなしに酒盛りを開いている傲慢な貴族や教会の幹部たちの姿があった。


「……身の程を教えてあげよう」


 ルーカスは静かに右手を掲げ、超古代魔法──禁呪『隕石落下メテオ・ストライク』の極小規模版を、彼らの頭上へと発動した。


 ◆


「見ろ、アクオの腰抜けどもめ。御大層な多頭竜を門前に据えて怯えることしかできんではないか」


「ですが閣下、あの化け物の息吹で足止めを食らっておりますが……」


「そのようなもの、民兵どもを突撃させて盾にすれば良い。代わりの平民などいくらでも徴兵できるのだ。多少の犠牲など気にするな」


「ははは、それもそうですな!」


 反乱軍の本陣で、高位の貴族たちが杯を掲げて笑い合っていた、まさにその時だった。


「……ん? 急に辺りが暗くなったな」


「何事だ? 雲でも出てきたのか」


「おい、周囲を警備している男爵を呼べ! 状況を説明させろ!」


 しかし、いくら叫んでも配下からの返答はない。


「あの下位貴族の分際で、持ち場を離れるとは不届きな。仕方ない、己の目で確かめるか」


 泥酔した高位貴族の数名が、苛立ちながら天幕の外へ出て空を見上げた。


「な、何だ、あれは……っ!?」


「隕石……!? 巨大な燃える岩が、こちらへ降ってくるぞ!」


「逃げろ! 早くここから離れろ!」


「しかし、天幕の中には、まだ使い切っていない軍資金の金貨が……!」


「命の方が大事だ、捨て置けぇ!」


 下卑た怒号と情けない悲鳴が交錯する中、容赦なく光の塊が大地へと突き刺さった。


 次の瞬間、凄まじい衝撃波と爆炎が本陣を吹き飛ばす。


 敵陣に翻っていた三百の旗印のうち、じつに半数に及ぶ百五十の陣地が、一瞬にしてこの世から消滅したのだった。


「お、おのれ……反撃だ! 魔導師隊、奴らの頭上に『小隕石プチ・メテオ』の雨を降らせてやれ!」


 ◆


「……本当に大丈夫なのかい、ルーカス?」


 本陣が消し飛ぶ光景を遠目に見ながら、バイナリがやはり心配そうに声をかけてきた。


「バイナリは少し心配性だね」


「いや、いくら積極的防衛とはいえ、こちらから先手を打ってしまっては……」


「大丈夫さ。さて、生き残った連中がこちらの頭上へ向けて『小隕石』の詠唱を開始したようだ。さすがに黙って見過ごすわけにもいかないからね。少しばかり、お邪魔をさせてもらおうか」


「今度は何をする気だい?」


「父が集めた秘術。その改良版である『秘術・改』にはね、敵の魔法発動そのものを阻害する便利な術式があるんだ。数発分なら、完全に不発にできるさ」


「じゃあ、防ぎきれなかった残りの魔法は?」


「さっきも言っただろう? 俺の防御結界で十分に跳ね返せるよ」


 ルーカスは遠見の魔法で空間を繋ぎ、今まさに必死の形相で呪文を詠唱している敵の魔導師たちの喉の粘膜を、無詠唱の魔力圧で次々と正確に潰していった。


「がっ……!?」


「ごほっ、う、あ……!」


「何事だ、一体何が起こっている!」


「報告します! 我が方の魔導師たちが、詠唱の途中で突如として喉を潰され、術式の中断が相次いでおります!」


「チッ……やはりルーカスの仕業か。あの小癪な男爵の小倪め、どこまでも忌々しい……!」


 血を吐いて倒れる魔導師たちを見下ろし、憎悪を剥き出しにして呪詛を吐く男がいた。


「……スレッド殿下、やはりあの男は一筋縄ではいきませぬな」


 周囲からそう呼ばれた男の正体は、かつてルーカスとの『神罰の決闘』に敗北し、身分を賤民せんみんへと落とされたはずのスレッド元王太子だった。


 彼は現在の王室に不満を持つ反乱貴族たちに拾われ、真の正当なる統治者として再び神輿として担ぎ上げられていたのだ。


 教会の神聖術によって断種の呪いも密かに癒やされ、酒と女に溺れる日々を取り戻していた。


 彼は憎々しげにアクオの防壁を睨みつける。


 その傲慢で歪んだ性格は、五歳の頃から何一つ変わっていなかった。


 いや、地位を剥奪されてからの九年という月日が、彼の胸中の恨みをより深く、醜く熟成させていた。


「待っていろ、ルーカス・アルマギナ……! 貴様がどれほど聖人を気取ろうと、この大軍の前に必ずや引き摺り下ろしてやる。そして、貴様の目の前で、あの小生意気な平民の婚約者を徹底的に辱めてやる。必ずな……!」


 天幕の残骸の影で、下卑た引きつった笑い声を上げるスレッド。


 その頃、哀れな既得権益者たちの連合軍は、未だ戦況の本質を悟ることもなく、消し飛んだ本陣の跡地で、手に入るはずのない絵に描いた餅の取り分について、血走った目で未練がましく言い争いを続けるのだった。

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