第十話 先輩と新人と妖精(フェアリー)
カイル子爵が放った暗殺者たちの騒動を、王太子であるセマフォ殿下に文字通り丸ごと放り投げて裏で処理してもらい、俺の日常にはようやく平穏が戻ってきた。
ここ最近の激動に対する息抜きも兼ねて、俺は新しく専属メイドとなったニアを伴い、王都の賑やかな興行街をのんびりと歩いていた。
その時、一際不気味な雰囲気を放つ見世物小屋の天幕が、ふと目に留まった。
妙な胸騒ぎを覚えた俺がニアと共に中へ入ると、薄暗い舞台の上に置かれた小さな鉄カゴの中に、その生き物はいた。
羽を引き裂かれ、全身傷だらけになった手のひらサイズの妖精。
見世物小屋の主人が、下卑た笑みを浮かべながら声を張り上げる。
「さあさあ、お貴族様たちの前だ! 妖精の美しい鳴き声ってやつを響かせてみせろ!」
主人はそう叫ぶなり、カゴの隙間から細い鞭を差し込み、小さな妖精の身体を何度も何度も激しく叩いた。
しかし、妖精は恐怖のあまりガタガタと激しく震え、小さな手で頭を覆ってうずくまるだけだった。
度重なる残虐な虐待とあまりの恐怖によって、彼女は完全に喉がすくんでしまい、悲鳴を上げることすらできない状態に陥っていたのだ。
「チッ、本当に使えねえ出来損ないだ!」
主人が苛立ちを募らせ、さらに激しい暴力を加えようと鞭を振り上げた──その光景を目にした瞬間、俺の中に眠る前世の倫理観が、激しい怒りとなって一気に沸点へと達した。
「おい。その汚い手を離せ」
発せられたのは、わずか十歳の子供の声。
だが、その言葉と同時に周囲へ放たれたのは、あの国家崩壊規模の魔物氾濫すら一瞬で消し去った、凄まじいまでの覇気──圧倒的な魔力圧だった。
「ひっ……え……!?」
周囲にいた観客たちが、ドサドサと次々に床へ倒れ込み、泡を吹いて気絶していく。
見世物小屋の主人も、まともに直撃したその絶大な威圧感に腰を抜かし、喉を鳴らしながらガタガタと歯を鳴らして震え上がった。
俺は冷徹極まりない目で主人を見下ろしたまま、背後に控えるニアへ静かに命じた。
「ニア、そのカゴを開けろ。……もし抵抗する者がいるなら、全員消していい」
「御意」
ニアが音もなく主人の真後ろへと回り込み、その首筋にソードブレイカーの冷たい刃をそっと添える。
主人はあまりの恐怖に、完全に石のように硬直した。
俺は懐から適当な金貨の束を取り出し、言い値以上の金を床に叩きつけると、カゴごと小さな妖精をその地獄から救い出したのだった。
◆
侯爵邸へと連れ帰った後、俺はニアに命じて、小さな妖精の身体を温かい清潔な布で優しく拭かせた。
そしてオルグの時と同じ超位回復魔法『生命再誕』を発動する。
ただし、今回は彼女の小さな心が驚いてしまわないよう、極めて微弱に、どこまでも優しく魔力を浸透させていった。
柔らかな光が小さな身体を包み込み、引き裂かれていた美しい羽や、全身の生傷がみるみるうちに綺麗に元通りへと再生していく。
だが、肉体の傷は癒えても、心の傷まではすぐには治らない。
妖精はまだ怯えきった様子で、寝台の枕の裏へと必死に隠れ、やはり声を出せないままでいた。
俺は、自分の子供という見た目を最大限に活かし、彼女の目線に合わせるように床にしゃがみ込んで、できる限り優しく微笑みかけた。
「もう大丈夫だよ。ここには君を叩く奴も、怖い奴も誰もいない。……君、名前はなんていうの?」
妖精は涙をいっぱいに溜めた大きな目で俺を見つめたが、やはり喉が震えるだけで言葉が出てこない。
彼女は悲しそうに首を振り、自分の喉を小さな指で指し示した。
「そっか、喋れないんだね。じゃあ、俺が新しく名前をつけてもいいかい? ……『ルル』。どうかな?」
妖精──ルルは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、大粒の涙をボロポロと流しながら、何度も、何度も嬉しそうに激しく頷いた。
その様子を傍らで見守っていたニアは、相変わらず無表情ではあったが、そっと小さな器に温かい甘いシロップを入れ、ルルの前に差し出した。
「たくさんお飲みなさい、ルル」
そこへ、地下の鍛冶場から戻ってきたオルグが、ルルを一瞥してぶっきらぼうながらも優しく笑った。
「おう、綺麗な羽が元通りになったな。よし、今度お前専用の、何があっても絶対に壊れねえ頑丈な特製の小さな家でも作ってやるよ」
◆
それからというもの、まだ言葉は話せないものの、ルルは俺の肩や頭の上がすっかり定位置になっていた。
そんなルルの姿を見て、同じ妖精の血を引くエルフの精霊術師でありメイドのリスプが、精霊を仲介役としてルルと意思を通わせ、俺への通訳を買って出てくれた。
リスプの通訳によると、ルルには「植物の成長を促し、育てる力」があるらしい。
俺は早速、その能力を活かすため、邸の隣にあった空き家の男爵邸を買い取り、更地にして農作物を育てるための広大な庭園(試験農場)を開設した。
まず最初に試みたのは、大麦の栽培だ。
実家のマギナ男爵領から信頼できる農民一家を呼び寄せ、十分な給金を与えて庭園の一角で大麦を育てさせてみた。
通常、最高品質のウイスキー造りに適した大麦(二条大麦など)は、極めて気候や土壌を選び、収穫までに非常に長い月日を要する。
だが、これをルルの力を使って、魔力を豊富に含んだ超高品質な大麦へと急成長させてみることにしたのだ。
ルルが畑の上をパタパタと愛らしく飛び回り、小さな手から緑色の光を放つ妖精の粉を振りかける。
すると、植えたばかりの種があっという間に芽吹き、瞬く間に見事な黄金色の穂を実らせた。
これには手伝っていた農民たちも腰を抜かすほど驚いていたが、「この件は他言無用にしてほしい」と言い含め、多めの給金を上乗せして渡した。
その特別な大麦を使って仕込んだ新たなウイスキーを一口飲んだオルグは、文字通り飛び上がって大絶賛した。
「閣下! 以前のウイスキーも腰が抜けるほど美味かったが、この新しいやつは五臓六腑の奥底にまで染み渡るぜ! 体の中から途方もねえ魔力が湧き出てくるようだ!」
これこそが、後にアルマギナ侯爵領の不動の名産品となる、最高級の“魔導ウイスキー”が誕生した瞬間だった。
さらに俺は、ルルの力を利用して、医療の発展、そして専属護衛であるニアの武器の威力を高めるための、希少な薬草類や劇薬の原材料となる植物の秘匿栽培も開始した。
超古代遺跡から回収した書物に記されていた、極めて栽培が困難とされる“毒リンゴ”や、万能薬の原料となる“霊薬草”の種をルビィの実家の商会から秘密裏に買い入れ、元男爵邸の敷地内に、一般の者が決して立ち入れない強固な結界を施した温室を作った。
本来なら特定の濃厚な魔力環境でしか育たない危険な植物たちも、ルルがその小さな手で優しく触れることで、毒性や薬効成分が極限まで高められた状態で、安全かつ迅速に急成長を遂げた。
ニアは、ルルが一生懸命に植物を育てる姿をいつも側で静かに見守り、ルルが疲れた様子を見せれば、すぐに甘いシロップを差し出して労った。
そんな日々のなかで、二人の間には実の姉妹のような温かい絆が芽生えていった。
こうして完成した極上の麻痺毒は、ニアの裏の護衛仕事をさらに完璧なものへと昇華させた。
これらは現時点では貴族や特権階級向けの超高級品だが、俺はこれを品種改良の魔術と組み合わせることで、将来的に俺の領地となるであろう土地全体の豊かさに思いを馳せていた。
ルルの魔力を浴びて育った植物は、その次世代の種にも強い生命力が宿るようになるのだ。
◆
試行錯誤の末、ルルの力と魔術の融合によって、『寒さや病気に桁違いに強く、通常の三倍の収穫量を誇るジャガイモと小麦の種』を生み出すことに成功した。
それをひとまず実家のマギナ男爵家に送り、領民たちに配って植えさせてみた。
結果は劇的だった。領地から飢えという概念が完全に消え去り、豊かな実りに歓喜した領民たちは、声を揃えて俺を称えた。
「十歳の若き侯爵様は、やはり本物の神童だ!」
「我が領地を救ってくれた、最高の主君だ!」
領民たちは、俺に対して熱狂的なまでの敬意と忠誠を捧げるようになったのだった。
◆
ある日の夜、ルルが育てた特別な大麦で作った最高のウイスキーや、瑞々しい果物で作った果汁果肉たっぷりの特製ジュースを囲み、屋敷の皆で晩餐会を開いた。
言葉は話せないルルだったが、自分が一所懸命に育てた成果物を、俺やニア、オルグたちが「美味しい!」「さすがルルだね」と笑顔で口にするのを見て、小さな頬を林檎のように赤らめ、本当に嬉しそうに羽をパタパタと輝かせていた。
もちろん、アルマギナ侯爵邸で突如として創り出されたこれら希少な植物の噂を、カイル子爵の残党や、他の欲深い門閥貴族たちが放っておくはずもなかった。
彼らは「あの邸には、植物を狂い咲きさせる秘密の存在がいるらしい」と嗅ぎつけ、再び夜闇に乗じて盗賊や隠密の集団を送り込んできた。
しかし、現在の我が邸には、気配ゼロから神速の受け流しを繰り出すニア、オルグが心血を注いで作った防衛用の魔導兵器、そして俺の神刀が待ち構えている。
哀れな侵入者たちは、ルルの温室に近づくことすらできず、一瞬にして影も形も残さず消し飛ばされるのだった。
◆
執事のアルゴルをはじめとする屋敷の先輩使用人たちは、新入りのニアがどれほど裏の世界で恐れられた凄腕の暗殺者であろうとも、そんなことは一切お構いなしだった。
我がアルマギナ侯爵邸のメイドとして、厳しく、かつ深い愛情を持って彼女に接していた。
ある時、ニアがいつものように足音を完全に消して、俺の背後からすっと紅茶を差し出した際、聖職者上がりのメイドであるピエトが、すかさず彼女の前に立ちはだかった。
「ニア、足音を完全に消す技術は見事ですが、主を驚かせてしまうのはメイドとしては三流です。お茶をお出しする直前には、あえてかすかに衣擦れの音を立てるか、あるいは優しくお声がけをしなさい」
暗殺の技術とは真逆の、相手に安心してもらうために、あえて気配を出すプロの技術。
ニアは、自分の絶対的な技術を上から真っ当な正論で指導してくれるピエトに対し、深く感じ入ったように頭を下げた。
「……なるほど。メイドの道、恐ろしいほどに奥が深いです」
ニアは素直に先輩への尊敬の念を抱くようになり、急速に屋敷の規則へと馴染んでいった。
◆
また、ドワーフのオルグが一度鍛冶仕事に熱中するあまり、何日も風呂に入らなかったり、食事を摂るのを忘れたりしていると、今度は家令のアルゴルが容赦なく叱り飛ばした。
「オルグ! 閣下から直々に治していただいたその大事な身体を、一体何だと思っているのですか! 早くお風呂に入りなさい、さもないと今日の分のウイスキーは没収です!」
「ウゲッ!? ──わ、分かったよ、入りゃあいいんだろ、入りゃあ!」
アルゴルの鋭い一喝に、オルグは不貞腐れながらも、ウイスキーの没収にだけは耐えかねてコソコソとお風呂へと従うのだった。
◆
新入りたちが先輩使用人たちと上手く馴染んでいく様子を、俺は書斎で温かいコーヒーを飲みながら、静かに眺めていた。
前世の職場における、人間関係の構築や組織作りの苦労を思い出し、しみじみとした心地になる。
(最初は野生の化け物一歩手前だった新入りたちが、うちの頼もしい先輩たちにすっかり骨抜きにされているな……。うん、実に良い傾向だ)
◆
執事であり、かつて軍師でもあったアルゴルは、ニアの卓越した身のこなしを一目見ただけで、彼女が実戦的な暗殺と諜報の最高峰の専門家であることを見抜いていた。
「ニア、あなたの個人としての技術は素晴らしい。ですが、このアルマギナ侯爵邸の防衛は、一人の孤立した動きだけでは成り立ちません」
アルゴルは屋敷全体の詳細な防衛図面を広げ、獣人の戦士三人の配置や、エルフの精霊による広域の索敵網とニアの隠密行動をどう連動させるかという、組織的な防衛戦略を彼女に徹底的に叩き込んだ。
ニアは、これまでに経験したことのなかった、組織戦における暗殺と防衛という新しい視点に、深い感銘を受けていた。
また、庭園ではエルフのリスプが精霊の目を使い、ニアがどれだけ完璧に気配を消せるかという、高度な隠れん坊(訓練)が行われていた。
ニアがどれほど気配を絶っても、どうしてもすり抜けられない精霊の特殊な配置をリスプが教え、ニアがそれを実戦に応用していく。
さらに、ニアが扱うソードブレイカーの毒の調合についても、薬学に極めて通じているピエトが手伝いを買って出た。
「この成分をほんの少し混ぜれば、刃が触れた瞬間の麻痺の伝導がさらに早くなるわよ」 「素晴らしい……。この配合は思いつきませんでした」
医療と毒物という、表裏一体の高度な知識を前に、二人はすっかり意気投合していた。
◆
失われた右腕が完全に治ったオルグが、俺の神刀を直した後に手掛けたのは、これまで俺の盾となり矛となって戦ってくれた、獣人の戦士三人の武器と防具の全面的な仕立て直し(フルカスタム)だった。
「おい、獣人ども。お前らのその驚異的な体幹と筋力なら、この得物の重心バランスはこう変えた方が、遥かに扱いやすくなるはずだ」
オルグが彼ら一人一人の骨格や体格に完璧に合わせた至高の装備を叩き出す。
さらに、俺のストレージから提供されたミスリル銀などを部分的に贅沢に仕込んだことで、獣人たちの戦闘力は爆発的に跳ね上がった。
三人は「オルグのオヤジ! 最高だ!」と大喜びし、オルグが大好きなウイスキーを毎夜一緒に酌み交わす、最高の飲み仲間となった。
◆
言葉が話せず、深い心の傷を抱えた妖精のルルもまた、屋敷の全員が全力で守るべき最優先の存在として、急速に皆の心に溶け込んでいった。
エルフは自然の代弁者であり、精霊と深く心を通わせる存在だ。
言葉の出ないルルだったが、エルフのリスプだけは、ルルの羽の微細な羽ばたきや周囲の魔力の揺らぎから、彼女が何を伝えたがっているのかを、精霊を介して完璧に通訳し、理解してあげることができた。
「ルルちゃんは、あの畑に美味しいお水をたっぷりあげたいと言っていますよ」
リスプがルルの専属の通訳──頼れるお姉さん役のようになり、ルルはリスプのメイド服の裾を小さな手でぎゅっと掴んで、深く懐くようになった。
ピエトは、ルルの小さな身体に残されていた暴力の痕跡を察し、肉体は魔法で治っていても精神的なケアが不可欠であることを誰より理解していた。
毎日、母親のような優しい言葉をかけ、特製の甘いシロップや新鮮な果物を与え続けた。
厳格な軍師である執事のアルゴルも、ルルが俺の頭の上にちょこんと乗って、特産品の大麦プロジェクトに関する書類仕事を一緒に眺めている際、眼鏡の奥の鋭い目をかすかに和ませていた。
「ルル殿、我がアルマギナ侯爵領の農業改革、大いに期待しておりますよ」
アルゴルは彼女をただの小さな妖精としてではなく、一人の立派な専門家として、敬意を持って接していた。
◆
ルビィやアドミナもルルを大層可愛がり、よく一緒にお茶会を開いていた。
俺が前世の知識を駆使して焼き上げたクッキーなどの焼き菓子をお茶請けにして、そこにリスプやピエトも加わり、女の子たちで賑やかに楽しそうにやっていた。
その時だった。ルルが俺の焼いたクッキーを両手で大事そうに持ち、小さな口をモグモグと動かした後、
「お……、し……」
と、小声ながらも、ゆっくりと、震える声で話し始めた。
四人が一瞬で静まり返り、「ゆっくりでいいからね」と全員がどこまでも優しい眼差しで促す。
すると、ルルは皆の顔をまっすぐに見つめ、
「……おいしいー」
と、この屋敷に来てから初めて、確かな言葉をその口から発した。
まるで小さな金の鈴を転がしたかのような、どこまでも美しく澄んだ愛らしい声。
それを聞いたルビィ、アドミナ、リスプ、ピエトの四人は、溢れ出てくる嬉し涙を隠そうともせず、泣き笑いの表情を浮かべた。
「そう、ルルちゃん、本当によかったわね……! こっちのチョコクッキーも、とってもお勧めよ?」
みんなが涙を拭いながら、ルルの初めての会話を心から祝福し、楽しんでいた。
俺は、そんな温かい光景を書斎の入り口からそっと見守りながら、この見知らぬ異世界ローゲストに転生してきて以来、心の底から満たされるような、本当の意味での安堵感を味わっているのだった。
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