第四話 初めてのたっち(立ち上がり)
首が座り、ハイハイ(という名の泥臭い匍匐前進)を繰り返すことで、俺の幼い肉体には着実に筋力がついてきた。そろそろ『たっち(二足起立)』ができそうなレベルまで、足腰の筋力はついてきている。
ここ最近の俺は、人目のない時間を見計らっては、ひっそりと立ち上がりの練習を行っていた。
初めての直立シーンをお披露目するなら、やはり両親の前でと決めていたからだ。
ちなみに、俺がこの体で最初に発した言葉は、限界に達した身体の本能が叫んだ『まんま(ご飯)』だった。
(くそっ、エンジニアの基本である最初の『Hello World』の音声出力が、まさか『まんま』だなんて締まらない結果になるなんてな……!)
そんな苦い記憶があるからこそ、せめて“初めて一人で立った瞬間”くらいは、家族と使用人さんが揃っている前で華麗に公開したかったのだ。
あと少し。
あとほんの少しの重心のバランス調整でいける。
今日も今日とて、俺は子供部屋の隅でひっそりと検証を重ねていた。
魂の魔力リソースを駆動系に回して、強引に肉体を起き上がらせるズルを実行すれば一瞬で立てるが、それは肉体の限界値を無視した手抜きだ。
この試練だけは、純粋な生体スペックの力だけで成し遂げなければ、エンジニアのプライドが許さない。
ルーカスは一生懸命、壁に小さな手を当てたり、椅子の脚につかまったりしながら、必死に立ち上がろうともがいていた。
──背後のドアの隙間から、母エルザと使用人さんが息を殺してコッソリ覗き見していることにも気がつかないで。
ちなみに二人は、我が子の健気な挑戦を、涙ぐみながら暖かい目で見守っている。
そして──ぐっと足の裏で床を押し、椅子に手をかけながら、ルーカスは見事に『たっち』を成功させた。
幼い額には大粒の汗が浮かんでいる。
一度椅子の支えから手を放し、ドスンとハイハイの姿勢に戻った。
(ふむ。今のは再現性のない単なるまぐれかもしれないな。綿密な検証が必要だ)
ルーカスに変なエンジニア気質モードのスイッチが入った。
ひたすら実証テストするように、寡黙に検証を続ける。
今度は少し難易度を上げ、壁に手を添えるだけの立ち上がりだ。
一回、二回と検証を進めていく。
結果、十回中、四回成功。
(……チッ、成功率四十%か。これでは最高の成功率百%として、お披露目できないな)
一休みして呼吸を整え、もう一度実証を重ねる。
今度は十回中、六回成功。
普通の赤ん坊なら、疲れてここで泣き出すか諦めるレベルだろう。
だが、ルーカスは違った。
彼は根っからの限界突破オタク(エンジニア)なのだ。
何より、中身は二十九歳の男である。
一刻も早くオムツという名の屈辱的初期装備からおさらばしたい。
そのためには、一人で立ち上がり、一人でトイレできるようになることが最優先のロードマップなのだ。
ルーカスは必死だった。
「両親にお披露目して喜ばせる」という当初の美しい目的が、いつの間にか「オムツを外すため」にすり替わっていくのも時間の問題だった。
◆
その一方で、物陰に潜むエルザと使用人さんは、一生懸命に声を殺しながら全力で応援していた。
『そこよルーちゃん、そこ! ああっ、踏ん張って……!』
『もう少しです奥様、頑張れ坊ちゃま……!』
もはや二人は声すら出さず、完璧な手信号だけで高度な会話を交わしていた。
誰に教わったわけでもないのに、我が子を見守る母の執念が生んだ、エスパー並みの超同期である。
二人の連携力はとっくに百%を超えていた。
使用人さんは子供を育て上げた経験のある先輩ママだったため、エルザの胸が張り裂けそうな緊張感が痛いほど分かっていた。
ゆえに、ベテランとしての熱い眼差しとハンドサインで、エルザとルーカスに無言のエールを送り続けていた。
◆
やがて、ルーカスの検証データは「十回中八回成功」まで跳ね上がった。
手応えは十分。
修正は仕上がった。
(よし、仕上げだ。壁などの補助輪なしで、完全自力で立ち上がる!)
そう決意したルーカスは、ハイハイの状態からぐっと体幹のバランスを取り、何とか自力だけで立ち上がろうとする。
よちよち歩きでもいい。
前世の二足歩行のようにスマートじゃなくてもいい。
重心のブレ、特に赤ん坊特有の重すぎる頭部のバランスを脳内で高速計算し、必死にもがく。
──そして。
ついに補助輪なしで、完全に自立することに成功した。
だが、喜びも束の間、すぐに視界がグラリと揺れて、お尻から床に転がってしまう。
(──クソ、駄目か! あと少し、あと数時間、姿勢を維持できれば、歩行に移行できるのに!)
焦燥感が小さな頭を支配する。
ゴロンと寝転がって少し休み、全身に気合いをみなぎらせる。
そして、三度目の正直──。
よち、よち、と危なっかしい感じではあるが、俺は確実に、自分の足で『歩く』ことに成功した。
(よし! やったぞ! これでオムツ卒業の構築完了だ──!)
勝利を確信した瞬間、凄まじいシステム過負荷が全身を襲った。
幼い肉体の物理的限界だった。
ルーカスは極限の疲労から、歩いた姿勢のままバタリと深い眠りに落ちてしまった。
◆
「──あああっ! せっかくルーちゃんが歩けたのに!」
「仕方ありませんわ奥様、坊ちゃまは完全に体力切れのようです。お披露目の本番は後日になりそうですね。とりあえず、ベッドに寝かせ付けましょう」
「……ええ、ありがとう……」
息を詰めて見守っていたエルザは、感動のあまり一言のログを絞り出すのが精一杯だった。
ちなみに、ルーカスが万全を期して、家族が揃った晩餐の席で完璧な『よちよち歩き(成功率百%)』を公開できたのは、結局のところ、このハプニングから一週間後のことになる。
◆
──その頃、ローゲストの天界。
最高管理主神は、手元のモニター画面を睨みつけながら鼻を鳴らしていた。
「ふん、ようやっと歩けたか。まあ、初期化された無能アカウントにはあれが精一杯だろうて」
すかさず、隣に控える秘書神が冷ややかなツッコミを入れる。
「そうおっしゃりつつ、主神様、さっきから手に汗を握って画面を凝視していらっしゃいましたよね。完全にファンの動きでしたよ」
「ふんぬっ!? そ、そんなことはない! 気のせいじゃ!」
主神は真っ赤になってゴホンと咳払いをすると、強引に話をそらした。
「よ、余興は終わりじゃ! くだらん画面は閉じよ! 次のスケジュールは何じゃ!」
「ええと、システム管理神と、転生神からの緊急会談(不具合報告)の申し入れですが……」
「却下じゃ! 報告書を見る限り特に問題など起きておらんわ! わしは忙しい、適当に下の者に回しておけ(突っ返せ)!」
「はぁ、承知いたしました。では次の議題に移ります」
実はこの時、システム管理神と転生神の二柱は、「ルーカスに管理者権限を抜かれたこと」と「初期パラメータが書き換わっていること」を、処分されるのを覚悟の上で正直に自首(バグ報告)しようとしていたのだ。
しかし、主神のツンデレな気まぐれと「忙しい」の一言によって、その重大な報告の機会は永遠に失われてしまった。
こうして、世界の致命的な問題を抱えたまま、神界の隠蔽タライ回しによって、異世界ローゲストは誰も止められない混沌の時代へと突き進んでいくのであった。
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