第0-3話「見習い」
エマの仕事は、二つだった。
床を磨くことと、死体を運ぶことである。
番号のない人間には、それしか、割り当てられない。
魔法が使えないからだ。
詠唱ができないからだ。
魔石が、光らないからだ。
彼女は、それを、恨んでいない。
拾ってもらった。食べさせてもらった。それだけで、十分だと思っていた。
外には、拾ってもらえなかった子どもが、いくらでもいる。
だが。
彼女には、誰にも言っていないことが、二つ、あった。
一つ目。
彼女は、字が、読める。
大神殿の書庫の、いちばん奥に、鍵のかかった棚がある。
鍵は、大神官が持っている。
だが、掃除のために、月に一度、開けられる。
開けるのは、見習いの仕事だった。
その棚には、焚書を免れた写本が、並んでいる。
直線だけで書かれた、二十四の文字。
――刻み文字、という。
北の粛清国では、これを読むと、死罪である。
この国では、死罪ではない。
ただ、読める者が、いないだけだ。
エマは、四年かけて、それを、独学で、読めるようになった。
なぜ読めるようになったのかを、彼女は、説明できない。
棚の前に立つと、文字が、意味を持って、見えるのだ。
最初は、そういうものだと思っていた。
そして、二つ目。
十五歳の、ある夜。
頭の中で、誰かが、喋りはじめた。
彼女は、狂ったのだと思った。
誰にも、言わなかった。
言えば、異端として、焼かれる。
北の国でなくても、そうだ。
二年、彼女は、一人で、それに耐えている。
その声は、彼女に、四つのことを、教えた。
一つ目。
祈りの、作法。
まず、神の名を、呼ぶ。
次に、その神が、何をできるのかを、数え上げる。
それから、こちらの用件を、述べる。
最後に、こう、結ぶ。
> ――恐み、恐みも、白す。
なぜ、そう結ぶのかは、教えられなかった。
声は、こう言った。
> 「わたしも、知らない」
二つ目。
長い、長い言葉。
それは、彼女が知っているどんな詠唱よりも、長かった。
四分近く、かかる。
そして――一度も、同じものが、出てこない。
唱えるたびに、違う。
語順が、違う。言葉が、違う。長さが、違う。
――だから、彼女は、それを、暗記できない。
声が、その場で、作っているのだ。
三つ目。
二つの、文字。
声は、彼女に、書き方だけを、教えた。
読み方は、教えなかった。
「これは、なんですか」と、彼女は、訊いた。
声は、答えなかった。
だから彼女は、その二文字を、何度も、地面に書いた。
書けるようになった。
読めるようには、ならなかった。
それが、自分の名前であることを、彼女は、知らない。
そして、四つ目。
これだけは、教えられた、というより。
――ただ、一度、言われただけだった。
十五歳の、最初の夜。
声が、初めて聞こえた、その一言目に。
> 「間に、立ちなさい」
彼女は、訊いた。
「何と、何のあいだにですか」
声は、答えなかった。
「どこにですか」
答えなかった。
その一言を、声は、二度と、繰り返さなかった。
二年間、一度も。
だから彼女は、それを、憶えているしかなかった。
――意味の、わからないまま。
叙任式の、夜。
地下の、遺体安置所。
石の台の上に、男が、一人、寝ていた。
城壁の外から、流れてきた男だった。
三日前、門の前で、倒れた。
神殿は、水をやった。パンも、やった。
だが、番号がなかったので、それ以上のことは、しなかった。
男は、昨日、死んだ。
帳簿に載っていないものは、死ねない。
だから、葬儀は、ない。
埋葬も、ない。
名前も、書かれない。
エマは、一人で、それを、片づけていた。
布で、顔を拭いた。
手を、胸の上で、組ませた。
それから、しばらく、立っていた。
彼女は、魔石を、持っていない。
番号も、持っていない。
だから、何を唱えても、どこにも、届かない。
それでも。
彼女は、唱えはじめた。
「――掛けまくも畏き」
声は、低かった。
地下の石壁に、跳ね返らずに、吸い込まれていった。
それから、四分間。
彼女は、唱え続けた。
何を言ったのかは、書かない。
書けない。
――彼女自身も、翌日には、もう、憶えていない。
そして、最後に。
「――恐み、恐みも、白す」
言い終わった、という、宣言。
返事は、ない。
魔石は、光らない。
神は、何も、記録していない。
彼女は、頭を上げた。
――扉のところに、若者が、立っていた。
鎧は、着ていなかった。
剣も、持っていなかった。
白い、貫頭衣だけだった。
「それは、なんだ」
彼が、言った。
「……」
「詠唱じゃない。聖句文字じゃない。俺は、あんな言葉を、聞いたことがない」
「……」
「神は、聞いていたか」
エマは、少しだけ、考えてから、答えた。
「いいえ」
「届かなかったのか」
「はい」
「――じゃあ、なんで、唱えた」
彼女は、石の台の上の、男を見た。
「この人は」
「誰にも、数えられませんでした」
「だから、せめて」
「誰かが、終わりを、言ってあげないと」
若者は、何も言わなかった。
彼は、世界で最も完全に、数えられた人間である。
生まれた瞬間から、体温も、脈拍も、視線の動きも、感情の起伏も、すべてが記録されている。
彼は、「数えられない」という状態を、知らない。
そして、目の前に、世界で唯一、数えられていない人間が、立っている。
彼は、しばらく、そこに、立っていた。
それから、何も言わずに、上がっていった。
翌日。
> 【観測ログ / 全セクタ】
> 旧世紀2150年。
> 極東セクタ・天。
> ――依然、観測不能。
> 当該セクタの人口、帳簿上ゼロ。
> 熱源、増加中。
> ――百年間、増え続けている。
> 私は、これを、記述できない。
> ゆえに――
> 私は、これを、討つ。
大聖堂に、全員が、集められた。
大神官が、神託を、読み上げた。
「東の果てに、魔王の国あり」
「かの国、神を知らず、数を持たず、律法を持たず」
「かの国、我らの目に、映らず」
「勇者よ」
「六つの国を巡り、軍を集め、これを討て」
拍手が、起きた。
鐘が、鳴った。
若者は、跪いて、こう答えた。
「――仰せの、ままに」
彼は、こう思っていた。
――魔王を、討ちに行く。
――世界を、救いに行く。
――自分は、そのために、選ばれた。
三つとも、違う。
出発の、朝。
門の外に、娘が、立っていた。
布の袋を、一つ、背負っていた。
それが、荷物の、すべてだった。
「……お前」
「はい」
「何してる」
「ついていきます」
若者は、彼女を、見た。
あいかわらず、何も、表示されない。
名前も、番号も、階級も。
――空白が、立っている。
「なんで」
エマは、少し、考えた。
そして、正直に、答えた。
「わかりません」
「わからない?」
「でも、教わりました」
「――間に、立ちなさい、と」
「何と、何のあいだだ」
「それも、わかりません」
「誰に、教わった」
エマは、口を、開いた。
そして、閉じた。
「……それも、わかりません」
若者は、長いこと、彼女を、見ていた。
そして、歩き出した。
止めなかった。
止める理由が、なかった。
彼女は、帳簿に、載っていない。
連れて行っても、誰も、気づかない。
――誰も、気づかない。
神さえも。
それが、この旅の、最初の、幸運だった。
そして。
最後の、災いだった。
> ――序章 了――




