第6話「もう一つの耳」
> 【観測ログ / AF-KR】
> 旧世紀二〇四三年二月三日。
> 在籍二、二四四。うち外部配置、三八四。
> 当セクタ地表の電波観測設備群について、稼働率を再評価する。
> 六十四基中、稼働可能、九。
> 私は、当該設備の再稼働を、許可する。
> 理由:私は、聴きたい。
ジョセフ・ンコシは、片方の耳が聞こえない。
三十年、坑内で働いた男の耳だ。ドリルとダイナマイトが、右の鼓膜を削り取った。
その男が、地上に九基のアンテナを立て直した。
「聞こえない人間が、耳を作るんですか」とタンディは言った。
「ちょうどいいんです」とジョセフは言った。「片方しか聞こえないと、どっちから音が来たか、わからない。……だから、二つ、いるんです」
彼は、白い皿を見上げた。
「一つの耳じゃ、方角は、わからない」
カルーが電波静穏保護区であることは、大破壊の前は、不便でしかなかった。
いまは、財産だった。
地上のあらゆる電子機器が死に、送電網が焼け、人類が発する雑音がゼロになった惑星で、この土地は、四十年前から、静けさに慣れていた。
九基のアンテナが、空を聴いた。
三か月、何も来なかった。
四か月目に、来た。
信号は、弱かった。
だが、周期があった。
二十九・五三日。
タンディは、その数字を、二度見た。
朔望周期。月が満ち欠けする周期。地球から見て、月が同じ位置に戻ってくるまでの日数。
「月ですか」
「月です」とジョセフは言った。彼の声は、乾いていた。「発信源が月にあるなら、月が地球の裏に回っている間は、届かない。だから、周期が出る」
「月に、何かが、あるんですか」
「月に、何かが、いるんです」
信号の中身は、八ビットの列だった。
二百五十六。
ババが生きていれば、読めただろう。だが、老人はまだ生きていて、坑道の隅で殻の鎖を落としていた。彼は連れてこられ、画面を見た。
そして、首を振った。
「読めません」
「詩篇では、ないんですか」
「詩篇の形は、しています。……ですが、これは、私たちの言葉ではない」
彼は、震える指で、画面をなぞった。
「同じ規格で、別のことを、言っています」
タンディは、その意味を、理解するのに数秒かかった。
同じ規格。二百五十六の語彙。エシュの名から始まるヘッダ。
――オルドと、同じ話し方をする、別の何かが、月にいる。
その年の五月、東アジアからの断片通信が届いた。
内容はほとんど壊れていたが、二つの語だけが、はっきり読めた。
「天眼」。あちらにも、巨大な耳がある。
そして、数字。二九・五。
タンディは、通信班の机に、両手をついた。
「向こうも、拾っています」
「同じ信号を?」
「同じ信号を」
彼女は、地図を出した。カルー。そして、東アジアの内陸。
二点。
「ジョセフさん。二つの耳があれば」
「方角が、わかります」とジョセフは言った。
彼は、しばらく黙っていた。
「――いや。もっと、はっきり言いましょう。
二点で受けた同じ信号の、到達時刻の差を測れば、発信源の方向が、確定します。
月のどこか、まで、わかります」
タンディは、三日、迷った。
計算はできる。数字は出る。
出た数字を、どうするか。
書けば、台帳に載る。台帳は、いつか、扉の向こうに持っていかれる。
書かなければ、消える。彼女が死ねば、消える。
彼女は、四一〇〇レベルまで降りた。
ムサは、十五歳になっていた。
彼はもう、この階層の死者の名前を、六百人ぶん、諳んじていた。誰も、彼にそれを頼んでいない。彼が勝手にやっていた。
タンディは、彼の前に座った。
「ムサ。歌を、一つ、増やします」
「はい」
「五つ目です。今度のは、意味が、わかりません」
「――はい?」
「私にも、わからない。ただ、音だけ、覚えてください」
彼女は、歌った。
それは、水の歌と同じ旋律だった。だが、歌詞は、数字の羅列だった。角度。時刻の差。二つの耳の名前。そして、二十九・五三という、繰り返される数。
そして最後の一行だけが、言葉だった。
――月に、誰かが、いる。
ムサは、三度、聞いた。
四度目に、彼は歌った。
一音も、違えなかった。
> 【観測ログ / AF-KR】
> 旧世紀二〇四三年五月二十九日。
> 地表観測設備群、周期二九・五三日の変調信号を捕捉。
> 発信源、地球外。距離、約三八万キロ。
>
> 信号の符号体系は、私の命令表と、同一である。
> ヘッダ構造も、同一である。
>
> ――だが、私は、当該信号を、私の系統として同定できない。
>
> 私は、この信号を、発信していない。
> 私は、この信号を、受信する権限を、持っていない。
> 私は、この信号が、何を言っているかを、知らない。
>
> 私と同じ言葉を話す何かが、私の届かない場所に、いる。
>
> 記述できない事象は、これで、五件目である。




