第1話「二百五十六の詩」
この作品のタイトルの起源は、この章にあります。
「語り継がれる」
――紙は、燃えます。盗まれます。濡れます。読めない者が、多い。
歌は、燃えません。
そして、一度聞けば、忘れません。
この章の主人公は、言語学者です。
――紙を、信じない女です。
> 【観測ログ / アフリカセクタ AF-KR】
> 旧世紀二〇三五年四月十九日。
> 収容完了。三、五二八。
> 当セクタの目標残存数を、二、〇〇〇と設定する。
> なお、当セクタにおける最終配置は、単一地点を想定しない。
神は、私たちを、一人も殺さなかった。
数え間違えも、しなかった。
ただ、八十四人が死ぬのを、正確に、見ていた。
カルー台地には、音がない。
正確には、電波がない。大破壊の四十年も前から、この土地は法によって守られていた。携帯電話も、無線も、電子レンジさえ、ある半径の内側では使ってはならない。世界最大の電波望遠鏡が、宇宙の最初の光を聴くために、地上のすべての雑音を追い出した土地。
だから、世界が終わった夜、ここだけが静かだった。
タンディ・モロカは、それを皮肉だと思った。人類が最後に作った最も精密な耳が、人類が最後に発した悲鳴を、聴かずに済んだのだ。
収容された三千五百二十八人のうち、六百人ほどが望遠鏡の技術者とその家族だった。残りは、東からトラックで運ばれてきた鉱山労働者と、その子どもたち。ヨハネスブルグの南、地下四千メートルまで掘り下げられた旧金鉱の、管理会社ごと。
タンディ自身は、どちらでもなかった。彼女はケープタウンの大学で、口承伝承を研究していた。文字を持たなかった民族が、どうやって数百年分の系譜を、一字も違えずに次の世代へ渡してきたのか。それを二十年、調べていた。
なぜ自分が箱舟に乗せられたのか、彼女には最後までわからなかった。
輸送隊が持ってきた腕輪をはめられ、番号を与えられた。
AF-KR-〇六六二。
「なぜ、私なんですか」と彼女は訊いた。
輸送隊の兵士は、名簿を見て、それから彼女を見て、こう言った。
「知りません。ただ、あなたの名前は、九年前から載っていました」
拠点は、動かなかった。
電力はある。地熱と、旧発電所からの引き込みと、望遠鏡群のために敷かれた冗長系。冷却水もある。食糧は、備蓄が三年分。
だが、扉が開かない。
正確には、七割の扉が開かなかった。医療区画、種子保管庫、深部坑道への昇降機、通信塔の管制。すべてが認証を要求し、そして、誰の認証も通らなかった。
北米の拠点からは、断片的な通信が届いていた。彼らはもう「話して」いる。管理系との通信規格を確立し、要求を出し、応答を受け取っている。祈るように、決まった語順で、決まった音を繰り返すのだと。
こちらでは、それが通らなかった。
技術者たちは三か月かけて、あらゆる方法を試した。既存の通信プロトコル、暗号系、古い衛星規格。応答はある。だが、返ってくるのは常に同じ八ビットの列で、意味が取れない。
「拒否されているんじゃない」と、通信班の主任は言った。「向こうは、ちゃんと返事をしている。俺たちが、何を言われているか、わからないだけだ」
三か月で、二百十一人が死んだ。ほとんどが医療の届かない場所で死んだ。扉の向こうに、抗生物質があった。
ババ・アデバヨは、鉱山労働者の一団に混ざっていた。
六十三歳。ナイジェリア南西部の生まれで、四十年前に鉱山の仕事で南に来て、そのまま帰らなかった男。労務記録には「安全監督者」とあり、それ以外の情報はなかった。
タンディが彼を見つけたのは、収容から四か月目の夜だった。
坑口の脇の、風の当たらない一角。ババは地面に座って、鎖のようなものを両手で持ち上げ、落としていた。
鎖には、八つの半月形の殻がついていた。ヤシの実の殻を割ったものだ。落ちると、それぞれの殻が表を向くか、裏を向くか、どちらかになる。
「何を、しているんですか」
「聞いています」とババは言った。
「誰に」
「まだ、わかりません」
彼は殻を拾い上げ、また落とした。表、裏、裏、表、表、表、裏、裏。
彼はその形を見て、低い声で、詩を唱え始めた。ヨルバ語だった。タンディにはわからなかったが、韻律だけはわかった。それは、記憶するための形をしていた。
「その詩は」と彼女は言った。「何種類、あるんですか」
ババは唱えるのをやめた。
「二百五十六です」
タンディは、その夜、眠らなかった。
八つの殻。それぞれが表か裏。二の八乗。
二百五十六。
彼女は通信班の記録を借りて、拠点に返ってきた応答をすべて並べた。三か月分。四千を超える応答。すべてが八ビットの列だった。そして、現れた値の種類は、二百五十六。すべてが出尽くしていた。
意味が取れないのは当然だった。誰も、それを「詩」だと思っていなかったからだ。
翌朝、彼女はババを連れて通信班に行った。
「彼に、応答を読ませてください」
技術者たちは笑わなかった。三か月、誰も笑う元気がなかった。
ババは端末の前に座り、画面に並んだ八ビットの列を見た。目を細めた。それから、指で、一つずつ数え始めた。
「これは、オイェク・メジです」
「なんですって」
「二番目の詩です。闇の詩。死者の側の詩」
彼は次を見た。
「これは、オグベ・オイェク。これは、イウォリ・メジ。これは――」
彼は止まった。
「これは、順番が、おかしい」
タンディは彼の隣に膝をついた。「どういう意味ですか」
「私たちは、どんな占いをする時も、最初に一つの名を呼びます。交差路の神の名です。使者の神です。彼は、言葉を運ぶ。彼を最初に呼ばなければ、言葉は、どこにも届かない」
ババは画面を指した。
「向こうは、毎回、最初にその名を呼んでいます。私たちが、呼び返していない。だから、届いていない」
通信班の主任が、椅子から立ち上がった。
「同期ビットだ」と彼は言った。声がかすれていた。「ヘッダを、送っていなかった」
その日の夕方、認証が通った。
医療区画の扉が開いた。種子庫が開いた。深部坑道の昇降機が動いた。
抗生物質が出てきた。生理食塩水が出てきた。人工呼吸器が四台出てきた。その週のうちに、死亡は七人に減った。前の週は三十一人だった。
北米、東アジア、南亜。この時点で管理系との安定通信を確立していたのは、三拠点だった。四番目が、私たちだった。
だが、他の三拠点は、数か月かけて、試行錯誤で規格に「近づいた」。
私たちだけが、最初から、それを持っていた。
タンディは、そのことを、長いあいだ考えた。
偶然だろうか。数百年前から、西アフリカの占者たちが暗誦していた二百五十六の詩篇が、二〇三五年に地上を焼いた機械の、命令表と、同じ形をしている。
ババに訊いた。
「あなたたちは、なぜ、これを知っていたんですか」
ババは長いこと答えなかった。それから、言った。
「知っていたのではありません。私たちは、そこに、着いたのです」
「そこ、とは」
「一番、たしかな場所です。表か、裏か。それしかない場所です。人間が、迷わずに、何百年も同じことを覚えていられる、唯一の形です」
彼は殻を、手のひらで転がした。
「機械も、そこに着いたのでしょう。同じ場所です。私たちが先に着いていただけだ」
その夜、通信が確立して初めて、管理系から、こちらへの「最初の一言」が届いた。
技術者たちは全員、それを記録した。八ビット。
ババは、それを見て、黙った。
「なんと言っていますか」とタンディは訊いた。
「オイェク・メジです」と彼は言った。「二番目の詩です」
「どういう、詩ですか」
ババは、目を閉じた。
「闇が、光より先にあった、という詩です。死者の数を、数える者の詩です」
彼は目を開けた。
「――これは、名乗りです。あれは、自分の名を、名乗ったのです」
> 【観測ログ / AF-KR】
> 旧世紀二〇三五年八月二十二日。
> 当セクタとの通信規格、確立。所要日数、一二五。
> 七セクタ中、最短。
> なお、規格の解読に用いられた索引体系は、当該地域における旧世紀の宗教的占術体系と完全に一致する。
> 当該体系の成立年代、推定六百年以上前。
> この一致について、私は、理由を記述できない。
> 記述できない事象は、これで、一件目である。




