第9話「九つの器」
> 【観測ログ / 南亜セクタ TH】
> 旧世紀2047年9月11日
> 在籍:1,971
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> 東アジアセクタより、地上機、接近。
> 搭載物:金属容器、九基。
> 搭載個体:三名。
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> ——搭載個体、三名。
龍が来たのは、朝だった。
人々は、そう呼んだ。ほかに、呼びようがなかった。
全長二十二メートル。翼はない。多関節の胴を波打たせ、堤の下の泥を掻きながら、それは、斜面を這い上がってきた。腹に、九つの鼎を、抱えていた。
それは、堤の上で、動きを止めた。
装甲の左側が、抉れていた。四本ある脚のうち、一本が、添え木で縛られていた。
中から、三人が、降りてきた。
九鼎は、器だった。
長さ。質量。時間。電流。温度。物質量。光度。
七つは、物理量だった。旧世紀の人類が、二百年かけて選び抜いた、世界を測るための、最小の骨。
残る二つは、違った。
八つ目は、数と暦の書式。
九つ目は、祈りの書式だった。
ヴィクラムは、九つ目の器を、長いこと、撫でていた。
「七つは、神が決めたんだろう」
彼は言った。
「二つは、誰が決めた」
誰も、答えられなかった。
この日から、七つの拠点の、ものさしが、揃った。
欧州では、三つの単位系が、混ざっていた。投薬量の桁を間違えて、人が死んでいた。
この山では、そんな死に方は、していない。だが、ダムの補修部材が、外から来ないことに、二十年、困っていた。
「これで、世界と、話ができる」
ヴィクラムは、そう言った。
その夜、アーシャは、九つ目の器を、一人で、見に行った。
灯りを近づけると、器の裏に、細い刻線があった。
一行だけ。
文字ではなかった。少なくとも、彼女の知っている、どの文字でもなかった。音を、符号に写しただけのような、意味の取れない列。
設計図には、ない。
鋳造の記録にも、ない。
彼女は、それを、写し取った。そして、写し取ったことを、誰にも言わなかった。
三人の乗員のうち、二人は、若い技師だった。九鼎の据え付けに来ただけだった。
残る一人は、老人だった。
顔の右半分が、焼けていた。片目が、白かった。背に、弓を、担いでいた。
「后毅」
と、彼は、名乗った。
「射手だ」
その夜、アーシャは、彼と、一晩、話した。
通訳は、腕輪がした。神が、二人の会話を、聞いていた。二人とも、それを、知っていた。
「あんたの神は」
后毅は、酒を、探していた。ないと分かると、湯を飲んだ。
「あんたの神は、殺すか」
「いいえ」
アーシャは言った。
「育てます」
老人は、湯のカップを、口の前で、止めた。
そして、笑った。かすれた、ひどい笑い方だった。
「……そっちのほうが」
彼は言った。
「そっちのほうが、こええな」
「あんたの神は」と、アーシャは訊いた。
「あんたの神は、何をしますか」
「流す」
后毅は言った。
「詰まったら、通す。溜まったら、抜く。……人も、水も、同じ扱いだ」
「あなたは、それに、勝ちましたか」
「勝ってねえ」
老人は、白い目を、閉じた。
「俺は、一つだけ、断った。……不死をくれると言われた。俺の全部を、写し取って、機械の中に、置いてくれると」
「断ったんですか」
「断った」
彼は、湯を、飲んだ。
「写し取られた俺は、俺じゃねえ。……そう思ったんだが、いまは、自信がねえ」
彼は、それから、外を見た。
その夜は、月が出ていた。
彼は、しばらく、それを見ていた。
「……あの峠でな」
彼は言った。
「野良機が、四十機ばかり、出た。龍の脚が、一本、いかれた」
「無事だったんですね」
「鼎は、無事だ」
彼は、そう言って、笑わなかった。
「俺は、そのまま、乗ってた。帰らずに、乗ってた」
アーシャは、何も言わなかった。
「あっちには、俺は、死んだことになってる」
彼は、月から目を離さずに、言った。
「そのほうが、あいつは、楽だ」
夜が更けてから、アーシャは、あることに、気づいた。
彼女は、乗員名簿を、見ていた。
搭載個体、三名。
技師二名は、九鼎の据え付けが終われば、帰る。
后毅は——帰らない。
「あなたは」
彼女は言った。
「あなたは、ここに、残るんですか」
老人は、答えなかった。
彼女は、立ち上がった。
紙を探した。見つからなかったので、床に、指で、書いた。
七つの、丸。
そのあいだを結ぶ、線。
そして、線の上に、一つの点。
「一世代に、一人」
彼女は、呟いた。
「一世代に、一人、移住させれば——七つの集団は、分化せず、多様性を、失わない」
彼女は、后毅を、見た。
「あなたは、九鼎を、運んできたんじゃない」
彼女は言った。
「九鼎が、あなたを、運んできたんです」
后毅は、長いこと、黙っていた。
やがて、彼は、背中の弓を、床に、置いた。
「俺は、五十三だ」
彼は言った。
「女房も、いねえ」
「……いいえ」
アーシャは、言った。
「作れます」
彼女は、自分の腕輪を、見た。
IN-TH-0A31。
「マツヤは、凍結胚を、持っています。……あなたの細胞は、もう、採られています。降りてきた日に。あの検疫は、検疫じゃありません」
彼女は、老人を、見た。
「あなたは、この山に、遺伝子を、届けに来たんです」
老人は、動かなかった。
それから、ゆっくりと、右手で、顔の焼けたほうを、撫でた。
「……ああ」
彼は言った。
「そういうことか」
彼は、立ち上がった。
窓の外の、月を、もう一度、見た。
「なあ、嬢ちゃん」
「はい」
「あんたの神は、月に、届くか」
アーシャは、答えられなかった。
后毅は、うなずいた。
「そうか」
それだけだった。
> 【観測ログ / 南亜セクタ TH】
> 旧世紀2047年9月12日。
>
> 個体 CN-GZ-0009、当拠点に、編入。
> 新規番号を、付与する。
>
> IN-TH-0FFF。
>
> ——なお。
>
> 当該個体は、東アジアセクタの帳簿において、消失として処理されている。
>
> 私は、訂正を、送信しない。
> 送信する理由が、存在しない。
>
> ——なお。
>
> 当該個体の、事前観測番号は、存在する。
> 観測開始、旧世紀2026年。
>
> 彼は、それを、知らない。




