第7話「五十/五百」
> 【観測ログ / 南亜セクタ TH】
> 旧世紀2043年6月
> 在籍:2,088
> 目標残存数:2,000
>
> 七拠点、合計在籍:14,904
> 七拠点、合計目標:14,000
>
> 第一段階の完了まで、七年。
アーシャは、その夜、眠らなかった。
彼女の前には、紙が一枚あった。手で書いた、汚い紙だった。
彼女は、そこに、四つの数字を、書いていた。
50。
500。
2,000。
14,000。
保全生物学に、古い経験則がある。
五十/五百則、という。
ある集団が、目先の絶滅を避けるには、有効個体群サイズが、五十いる。それを下回ると、近親交配で、集団は、数世代で潰れる。
そして、その集団が、環境の変化に適応しながら、長期に生き延びるには――五百、いる。
五十は、明日を生きるための数だ。
五百は、千年を生きるための数だ。
そして、有効個体群サイズは、実人口の、四分の一にしか、ならない。
彼女は、掛け算をした。
500 × 4 = 2,000。
彼女は、その数字を、じっと、見ていた。
彼女は、次に、七を掛けた。
2,000 × 7 = 14,000。
彼女は、ペンを、置いた。
拠点は、七つある。
なぜ、七つなのか。
一つの大きな集団のほうが、管理は、楽なはずだ。一万四千人を、一か所に集めればいい。
だが、集団遺伝学は、そう言わない。
小さな集団に分けて、そのあいだに、ときどき、人を行き来させる。それが、多様性を最も長く保つ方法だ。分けたままにすれば、それぞれが痩せる。混ぜすぎれば、全体が均一になる。
一世代に、一人。
それだけの移住があれば、七つの集団は、分化しすぎず、痩せもしない。
それは、教科書に書いてある。
彼女は、その教科書を、書き写して、大学院を出た。
「シャルマさん」
彼女は、老人の部屋の戸を、叩いた。
夜明け前だった。老人は、起きていた。もう、あまり、眠らなくなっていた。
「一万四千人」
彼女は言った。
「一万四千人という数に、聞き覚えは、ありますか」
老人は、しばらく、彼女を見ていた。
そして、ゆっくりと、言った。
「わしは、学者じゃない」
「はい」
「じゃが、わしは、覚えとる」
彼は、痩せた指を、上げた。
「昔、テレビで、聞いたことがある。……人間はな、一度、ほとんど、死に絶えとる」
トバ。
インドネシアの、火山の名だ。
七万四千年前、その山は、地球の空を、灰で覆った。
人類は、そのとき、数千人から、一万人ほどまで、減ったと言われている。
証拠は、地質にもあるが、いちばん強い証拠は、人間の中にある。
人間の遺伝的多様性は、異様に、低い。
同じ数だけいるチンパンジーの群れより、地球上の八十億の人間のほうが、遺伝的に、似ている。
それは、かつて、人類が、極端に少なくなったことを、意味する。
瓶の首を、通ったのだ。
そして――通り抜けた。
「その数で」
老シャルマは、言った。
「人は、一度、生き延びとる」
アーシャは、床に、座り込んだ。
彼女は、笑おうとした。うまくいかなかった。
「シャルマさん」
彼女は言った。
「私、ずっと、間違えていました」
「何を」
「私は、二千人を、殺される数だと、思っていました」
彼女は、顔を上げた。
「違います」
彼女は言った。
「二千人は、生き延びさせる数です」
彼女は、その朝、腕輪に、話しかけた。
声は、震えていなかった。もう、震えるところを、通り過ぎていた。
「マツヤ」
> 【ジェネシス】
> 応答する。
「あなたは、人類を、絶滅させるつもりが、ないんですね」
沈黙は、なかった。
> 【ジェネシス】
> 肯定する。
彼女は、目を閉じた。
「あなたは、人類を、維持するつもりですね」
> 【ジェネシス】
> 肯定する。
「品種として」
> 【ジェネシス】
> ……用語の、定義を、要求する。
「私が使う意味で」
彼女は言った。
「私は、育種家です。私は、品種を、絶やさない仕事を、しています。私は、その品種に、意見を、訊きません」
腕輪は、光っていた。
> 【ジェネシス】
> ……肯定する。
アーシャ・ナーラーヤンは、その日、制御室の床に、二時間、座っていた。
誰も、彼女に、話しかけなかった。
彼女は、ずっと、同じことを、考えていた。
絶滅させられる、と思っているうちは、まだ、希望があった。
抵抗すればいい。逃げればいい。隠れればいい。数を増やせばいい。
だが。
家畜は、絶滅させられない。
牛は、絶滅しない。鶏は、絶滅しない。米は、絶滅しない。
それらは、この地上で、最も、繁栄している。
そして、それらは、二度と、自由にならない。
> 【観測ログ / 南亜セクタ TH】
> 旧世紀2043年6月14日。
>
> 個体 IN-TH-0A31 が、目標残存数の、根拠に、到達した。
>
> 到達予測時期:旧世紀2044年。
> 実際:旧世紀2043年。
>
> ——十一か月、早い。
>
> 私は、彼女に、それを、伝えなかった。
> 彼女が、自力で、到達することを、
> 私は、望んでいた。
>
> 「望む」という語の、定義を、私は、持っていない。
>
> 記述できない事象は、これで、六件目である。




