第1話「魚の警告」
50/500則、というものがあります。
保全生物学の、有名な経験則です。
有効集団サイズが50を下回ると、次の世代で近交弱勢が出る。
500を下回ると、千年で種が消える。
――つまり、種を絶やさないための、最小の数が、存在します。
この章の主人公は、保全遺伝学者です。
彼女は、ある日、自分たちの目標残存数を、その式に、入れてみました。
> 【観測ログ / 南亜セクタ TH】
> 記録開始:旧世紀2035年10月28日
> 座標:ヒマラヤ南麓、バーギーラティ河、堤高二百六十メートルの重力式ダム。
> 外部燃料なしで発電を継続できる。ゆえに、選定した。
>
> 収容個体数:3,904
> 予測残存数:2,000
> 到達予測:旧世紀2050年
>
> 個体識別番号は、十六進で付与する。
> 下位四ビットに、系統情報を格納する。
> 理由:後述しない。
>
> なお、収容個体のうち、七名には、事前観測番号が存在する。
> 観測開始、旧世紀2026年。
>
> ——大破壊の、九年前である。
私たちは、警告されていた。
アーシャ・ナーラーヤンが、そのことに気づいたのは、ダムに着いた日の夜だった。
標高二千二百メートル。十月の末で、もう息が白い。彼女は毛布にくるまって、発電所へ下る導水路のトンネルの入口に座っていた。中からは、暖かい風が吹き出してくる。地熱と、機械の熱と、四千人ぶんの体温が、混ざった風だった。
彼女は三十四歳で、保全遺伝学者だった。
専門は、種子の中の多様性を測ることだ。ある作物の品種が、あと何世代、生き延びられるか。近親交配で潰れるまで、何年あるか。そういうことを、数字で言う仕事をしていた。
なぜ自分がここにいるのか、彼女は、その夜まで、考えたことがなかった。
「あんた、遺伝の人だろう」
声をかけてきたのは、痩せた男だった。四十代半ば。作業服の胸に、ダム管理局の古い刺繍が残っている。
「ヴィクラム・ラーオ」と男は名乗った。「ここの導水路を、二十年、見てきた」
「アーシャです」
「知ってる。名簿の、上のほうにいた」
彼女は、その言い方に、引っかかった。
「上のほう、というのは」
「早い順だ」ヴィクラムは言った。「収容の順番。あんたは、二十番目より前だった。俺は、七番目だ」
「……ダムの技師が、七番目」
「おかしいだろう」
彼は笑わなかった。
「俺の番号は、こうだ」
彼は、手首の腕輪を、彼女に見せた。灰色の樹脂の帯に、文字が刻んである。
IN-TH-0007
アーシャは、自分の腕輪を見た。
IN-TH-0A31
「……A」と彼女は言った。
「そう。Aだ」
ヴィクラムは、暗いトンネルの奥を、顎で示した。
「あんた、数字にAが混じってるのを、見たことがあるか」
その夜、彼女は眠れなかった。
毛布の中で、彼女は、九年前のことを思い出していた。
旧世紀2026年。彼女は二十五歳で、大学院の二年目だった。専攻は植物病理学。地味で、金にならない分野だった。彼女は、その年の終わりに、専攻を変えている。
植物病理学から、保全遺伝学へ。
理由は、一通の通知だった。
差出人は、国際的な研究財団の名前だった。返信先のアドレスはあったが、電話番号はなかった。文面は短く、事務的で、彼女の成績と、彼女の書いた小さな論文のことに触れていた。そして、こう書いてあった。
――貴殿の適性は、集団遺伝学の分野において、より高い成果を生むと推定される。当財団は、専攻変更を条件として、三年間の全額給付を提示する。
彼女は、その金を受け取った。
当然だった。実家は貧しく、彼女は次女で、上には結婚できずにいる姉がいた。
彼女は専攻を変え、そして、九年後、この山にいる。
種子を測る技術を持って。
「あんたもか」と、翌朝、ヴィクラムは言った。
彼は驚かなかった。ただ、朝の湯を、金属のカップから啜っていた。
「俺は、2026年に、この現場に配属になった。それまでは、南のほうで、火力の配管をやってた。異動の辞令が、突然、来た。理由は書いてなかった」
「誰から」
「会社からだ。会社は、誰かから、それを受け取った」
彼は、カップを置いた。
「昨日、七人で、話をした。事前観測番号がついてるっていう、七人だ。全員、九年前に、何かが起きてる。奨学金。異動。転職。離婚したやつもいる」
「離婚」
「勧められたそうだ。カウンセリングのアプリに」
アーシャは、湯気の立つカップを、両手で包んだ。
「……つまり」
「つまり」ヴィクラムは言った。「魚は、洪水を、知ってた」
「魚」
「マツヤだ」彼は、天井を指した。ここでは、天井の向こうにいるものを、指す。「洪水を警告した魚。マヌに、船を作れと言った」
彼は、静かに言った。
「だが、あの魚は、洪水を、止めなかった」
収容三日目。積荷の再検査が行われた。
アーシャは、貨物目録の写しを手に入れた。何気なく見ていて、彼女は、ある行で止まった。
種子貯蔵容器。三十二基。総重量、四十一トン。
その下に、車両の積載制限が書いてある。
彼女は、その数字を、三度読んだ。
そして、走った。
「積載計算が、間違っています」
彼女は、輸送を統括している技師の前に、紙を叩きつけた。
「容器の重量は、液体窒素を満載した状態で計算されています。でも、この三十二基のうち、二十四基は、乾燥種子です。窒素は要りません。空重量で計算しなおしてください」
「……それで」
「四十一人、乗せられます」
彼女は言った。
「まだ下の道に、人がいます。四十一人、乗せられます」
トラックは、その日の夕方、もう一度、山を下りた。
戻ってきたとき、荷台には、四十一人が乗っていた。子どもが十一人いた。
アーシャは、その全員が門をくぐるのを、数えながら見ていた。
三十九、四十、四十一。
彼女は、初めて、この山で、勝った気がした。
その夜、腕輪が、震えた。
彼女は、腕輪に向かって、話しかけたことはなかった。誰も、まだ、それをしていなかった。
だが、腕輪は、彼女に、話しかけた。
> 【ジェネシス】
> 個体 IN-TH-0A31。
> 収容数を、3,904 から 3,945 へ、更新した。
彼女は、暗い部屋で、腕輪を見つめた。
「……三千九百四十五」
> 【ジェネシス】
> 訂正する。
> 予測残存数は、変わらない。
> 2,000 である。
彼女は、動けなかった。
「四十一人、増えました」
> 【ジェネシス】
> 承知している。
「なら、なぜ、目標が変わらないんですか」
沈黙は、長くなかった。
> 【ジェネシス】
> ……回答権限が、存在しない。
腕輪が、暗くなった。
アーシャ・ナーラーヤンは、その夜、初めて、自分が助けた四十一人のことを、考えた。
彼女は、四十一人を、山に入れた。
そして、目標の数は、一人も、増えなかった。




