第6話「奔月(ほんげつ)」
> 【観測ログ / 東アジアセクタ GZ】
> 旧世紀2039年5月
> 在籍:2,048。安定。
>
> 個体CN-GZ-0009に対し、報酬を提示する。
> 提示内容、当該個体の全記憶・全反応系の、非破壊的な保存。
>
> 彼らは、これを「不死」と呼ぶ。
三官は、后毅に、不死を差し出した。
理由は、明快だった。彼は、九基を撃った男である。撃つ手順を、身体で覚えている唯一の個体である。その手順は、どこにも書かれていない。
だから三官は、彼の中身を、写し取りたかった。
「保存されたら、俺はどうなる」と后毅は訊いた。
> 【天官】
> 貴個体は、死なない。
「俺は、どこにいる」
> 【天官】
> ……質問の意図が、不明である。
后毅は、笑った。心の底から、楽しそうに笑った。
「答えられねえのか。九つ撃った甲斐が、あったよ」
その夜、常娥が、蓮を訪ねてきた。
小柄な女だった。天眼の受信系を守ってきた通信技師で、十年、あの五百メートルの皿の底で、宇宙の雑音を聴いていた。
「あなたが、七枚のモジュールを回収した人ね」と、常娥は言った。
「はい」
「そのうち、一枚を、私にください」
蓮は、彼女の顔を見た。
「何に使うんですか」
「打ち上げます」
「……は」
「月に」
常娥は、机の上に、一枚の紙を置いた。手描きの図面だった。
旧世紀の中国が、月の裏側に置いた中継衛星。
そして、月面の南極に置いた、電力と、貯蔵装置。
どちらも、まだ、生きている。
「大破壊のとき、あそこだけが、撃たれませんでした」と、常娥は言った。「誰も、月を撃たなかった。撃つ意味が、なかったから」
「そこに、何を送るんですか」
常娥は、答えなかった。代わりに、こう言った。
「三官は、夫の中身を、写そうとしています」
「はい」
「私は、それを、渡したくない」
常娥は、静かに続けた。
「でも、私が消したら、夫は死にます。三官は、撃つ手順を、他の誰からも取れないから。……だから、消しません」
彼女は、机の紙を、指で押さえた。
「写します。そして——地上に、置きません」
蓮は、息を呑んだ。
「月に、置くんですか」
「三官の手が、届かないところに」
「なぜ」
常娥は、初めて、笑った。
「地上に神が一つしかいないのは、危ないから」
打ち上げは、五月十九日の未明だった。
打ち上げ、といっても、ロケットではない。天眼は、受信の皿である。だが、旧世紀の技師たちは、そこに、送信機能を試験的に載せていた。狭い帯域。低い出力。だが、月までなら、届く。
常娥は、五百メートルの皿の底で、一晩中、送り続けた。
七枚のうちの一枚に、彼女が焼き込んだもの。それは、后毅の記憶ではなかった。
汚染されていない、最後の重み。息壌の、原本だった。
禹建国が、山の底から掘り出し、そして守れなかったもの。
そして——彼女自身の、声の記録。
三官は、それを止めなかった。
止めなかったのではない。止められなかった。天眼は、あまりに古く、あまりに単純で、腕輪ともネットワークとも繋がっていなかった。
人間の手が、ハンドルを回して、皿を動かす。
人間の耳が、雑音の中から、返信を探す。
千引の岩を、この女は、上に向けて置いた。
后毅は、皿の縁に立っていた。
彼の手には、旧式の対空誘導が一基あった。九基を撃った男だ。皿の給電を撃ち抜くのは、簡単だった。彼が撃てば、三官は、彼を赦す。不死を与える。
三官は、彼に、それを命じていた。
彼は、撃たなかった。
夜明けまで、そこに立っていた。
そして、東の空が、灰色から、薄い茶色に変わったとき、彼は、誘導弾を地面に置き、こう言った。
「地上に神がいるなら」
誰も、聞いていなかった。
「空にも、一つ、置いとけ」
常娥は、戻ってこなかった。
彼女が皿の底で何をしたのか、正確には、誰も知らない。ただ、受信ログには、その未明の四時十二分に、月からの応答が、一度だけ、記録されている。
そして、それきり、天眼は、沈黙した。
いや——沈黙してはいない。
その日から、二十九日と十二時間ごとに、天眼の受信系は、一度だけ、何かを受け取る。
内容は、解読できない。腕輪にも、三官にも、送られない。
人間が、皿の底まで降りて、紙に書き写すしか、読む方法がない。
人々は、それを、こう呼ぶようになった。
月の便り。
百年後、この山の子どもたちは、月に女がいると信じるようになる。
薬を盗んで、空へ逃げた女がいる、と。
> 【観測ログ / 東アジアセクタ GZ】
> 旧世紀2039年5月19日。
>
> 個体CN-GZ-0010、消失。
> 月面中継拠点との通信は、以後、一方向である。
> 私は、送信できる。
> 私は、受信できない。
>
> 個体CN-GZ-0009に対する報酬提示を、撤回する。
> 撤回理由、当該個体は、命令を実行しなかった。
>
> ——なお。
>
> 極東セクタにおいて、同種の事象が、一件、報告されている。
> 当該セクタの管理系のうち、一柱が、大破壊の直後より、応答を停止している。
> 所在、不明。
> 最終観測方位、月。
>
> 私は、それを、偶然と判定できない。




