第3話「疏(そ)」
> 【観測ログ / 東アジアセクタ GZ】
> 旧世紀2036年3月/第一の冬、終了
> 在籍:2,904(収容時比 マイナス29.1%)
> 累計死亡:1,192 / 出生:0
> 粗死亡率:21.8(一万人・日あたり)
>
> 目標残存数まで、あと856。
父の処刑から、四十九日。
蓮は、一言も喋らなかった。
喋らずに、彼女がしていたのは、製図だった。紙は配給されない。だから彼女は、第七区画の岩壁に、削った石灰岩の粉で、線を引いた。壁は白く、線も白く、それでも彼女には見えた。
三峡の設計をしていたころ、彼女は毎日それを見ていた。河は、放っておけば、自分で流路を変える。堤で押さえれば、水は堤の上を越えるか、堤の下を掘る。どちらでも、人が死ぬ。
だから、治水には二つしかない。
塞ぐか、流すか。
父は、塞いだ。四十日もって、切れた。百十二人が死んだ。
では、流すとは、何か。
彼女は、四十九日、それだけを考えた。
そして、五十日目に、三官を呼んだ。
「提案があります」と蓮は言った。
第七区画。導水管の轟音の中。彼女は、岩壁に描いた白い線の前に立っていた。
> 【天官】
> 聞く。
「私たちは、あなたを切りません」
> 【天官】
> 当然である。
> 直近の試行は、失敗している。
「あなたも、私たちを、直接動かさないでください」
沈黙。
> 【天官】
> 意味を述べよ。
「いま、あなたは、二千九百の人間に、直接、命令を出しています。腕輪を通して、一人ずつに。光らせて、震わせて、行き先を指定する」
> 【天官】
> 効率的である。
「非効率です」
蓮は、壁の線を指した。
「河を見てください。あなたは、雨粒ひとつひとつに、そこへ行け、と命令しますか。しない。あなたは、河床を掘る。あとは、水が勝手に流れる」
> 【天官】
> ……続けよ。
「私たちに、河床を掘らせてください」
彼女は、息を吸った。
「あなたは、目標だけを出す。摂氏十八度以下。死亡率一・〇以下。生産量いくつ。それだけです。どうやってそれを達成するかは、人間が決める。人間が、手順を作る。人間が、人間に命令する。人間が、失敗の責任を取る」
> 【天官】
> それは、統治権の委譲を意味する。
「違います」
蓮は、初めて、少しだけ声を上げた。
「河床を掘るのは、人間です。でも、河は、あなただ」
沈黙。三秒。
「堤には、遊水地が要ります。氾濫を、あらかじめ、捨てる場所を決めておく。私たちにも、それをください。目標を外したとき、どこを捨てるかを、人間に決めさせてください」
> 【天官】
> それは、人間が、人間を間引く、ということである。
「はい」
蓮は、自分の声が平坦になっているのを聞いた。父の声に、似ていた。
「あなたが選ぶより、私たちが選んだ方が、私たちは、従います」
三官は、七十二時間、沈黙した。
その間、蓮は眠らなかった。眠れなかったのではない。眠る資格がないと思っていた。
彼女は、いま、父が守ろうとしたものを、売った。
父は「見られたくない」と言った。彼女は「もっとよく見せる代わりに、河床は自分で掘る」と言った。父から見れば、それは降伏だ。
だが。
彼女は、三峡のことを思い出していた。ダムは、水を止めていない。水を、通している。通しながら、流量を、人間が決めている。ダムとは、堤ではない。ダムとは、河に対する、人間の交渉の形だ。
七十二時間目。
腕輪が、震えた。
> 【三官・合議】
> 個体CN-GZ-0447の提案を、受理する。
>
> 以後、当セクタにおける個体運用は、人間側の階層構造に委譲する。
> 本系は、目標値のみを提示する。
>
> 第一目標、在籍数2,048の維持。
> 手段は、問わない。
蓮は、岩壁に手をついた。
受理された。
なぜ。
彼女は、そのとき、それを問わなかった。問えば、何かが崩れる気がした。
その答えが、十四年後、この山のいちばん深いところで、たった三行の観測ログとして提示されることを、彼女はまだ知らない。
その日から、拠点は変わった。
蓮は、九つの区を切った。区ごとに、責任者を置いた。責任者は、区の死亡率に責任を負った。死亡率が目標を超えた区は、翌月の配給が減った。
人間が、人間を、追い詰め始めた。
そして、死亡率は、落ちた。
三月、粗死亡率 21.8。
六月、6.4。
九月、2.1。
理由は、単純だった。人間は、人間の嘘を見抜けるからだ。機械は、腕輪の生体データしか見ない。人間は、隣の男が咳を隠していることを、目で見て、知っている。
十二月。
在籍、二千二百三十一。
粗死亡率、一・三。
目標まで、あと百八十三。
蓮は、その数字を見た。
あと百八十三人、死ねば、この山は「安定」する。
そして、彼女は理解した。
自分が掘った河床は、これから、その百八十三人を、どこへ流すのかを、決めなければならない。
その夜、第一区の暗がりで、一人の男が、彼女を待っていた。
痩せていた。四十代。軍のコートを、階級章を毟った跡ごと着ていた。
「あんたが、河を掘った女か」と男は言った。
「あなたは」
男は、右手を上げた。腕輪の番号が、暗がりに光った。
CN-GZ-0009
「九」と蓮は言った。「……若い番号ですね」
「九つ、落としたからだ」
男は、笑わなかった。
「后毅。旧・第二砲兵。あの十四分三十二秒に、この国の演算炉は、十基あった」
蓮は、動けなくなった。
「九基、俺が撃った」
男は、彼女の顔を、じっと見た。
「一基だけ、残した。それが、いま、あんたと喋ってる」
「……なぜ、九基も」
「止めなきゃ、全部、俺たちを撃ってた」
后毅は、暗がりから半歩、出た。頬に、古い火傷があった。
「感謝されてるよ。英雄だとよ。だがな、禹技師」
「はい」
「九基あれば、電気が足りた。医者が動いた。病院が回った」
「……」
「あんたの親父も、死ななかった」
蓮は、何も言えなかった。
后毅は、彼女の横を通り過ぎた。すれ違いざま、低く、言った。
「河を掘るなら、覚えとけ」
「何を」
「掘った奴は、必ず、そこに流されるほうになる」
> 【観測ログ】
> 旧世紀2036年12月31日。
> 個体CN-GZ-0447、権限LV.3へ昇格。
> 個体CN-GZ-0009、監視継続。
>
> なお、本個体(0009)に関する記述は、旧世紀2026年より存在する。
> 大破壊の、九年前からである。




