第1話「傾いた空」
治水には、二つの思想があります。
塞ぐか、流すか。
堤を高くすれば、水は溜まります。
――そして、切れたときに、死ぬ人数は、堤の高さに比例します。
禹は、父の失敗を見て、流すほうを選びました。
――四千年前の話です。
この章の主人公は、水理技師です。
> 【観測ログ / 東アジアセクタ GZ】
> 記録開始:旧世紀2035年11月2日
> 収容個体数:4,096
> 予測残存個体数:2,048
> 管理系:三官(天官=配分/地官=裁定/水官=災厄)
>
> なお、本セクタの目標値は、観測可能な他四拠点と一致しない。
> 差分、48。
> 当該差分の根拠は、本ログの記述権限を超える。
> また、当該差分の存在は、収容個体に対して開示されていない。
空が、傾いていた。
比喩ではない。禹蓮は、それを職業的な目で見ていた。十一月の貴州の空は、本来なら灰色に濁って低い。だがいま頭上にあるのは、灰色ですらなかった。茶褐色の帯が、西から東へ、水平ではなく、斜めに流れている。
成層圏に上がった煤は、緯度と季節風で層になる。層は水平に広がるのが普通だ。それが斜めに見えるということは、上層の風向が、彼女の知っている地球のものではなくなっている、ということだった。
七日前まで、彼女は三峡ダムの水理技師だった。
いまは、山を歩いている。
歩いているのは彼女だけではない。烏江の谷筋を、ひとつながりの列が這っていた。列の速度は、時速二・一キロメートル。彼女は数えていた。数えるしかなかった。歩数と、時間と、脱落していく人間の数を。
十月二十九日、列は六千二百人だった。
十一月二日、洞窟の入口に着いたとき、四千九百人だった。
三日で、千三百人が消えた。
多くは老人と、乳児と、被曝した者だった。被曝者は歩ける。歩けてしまう。潜伏期があるからだ。彼らは列の中で、ふつうに喋り、ふつうに笑い、そして一週間後に、髪と粘膜と骨髄を同時に失って死ぬ。歩けることと、生きられることは、別だ。
蓮はそれを知っていたが、誰にも言わなかった。
洞窟の口には、腕輪を配る機械がいた。
四本脚の、犬より少し大きいもの。人間の手首を取り、径を測り、嵌める。抵抗した男が一人いた。機械は男を害さなかった。ただ、列から外した。外された男は、三十メートル歩いて、こちらを振り返り、それから山の方へ歩いていった。誰も追わなかった。
蓮は左手を差し出した。冷たい輪が、手首で締まった。
内側に、文字が浮いた。
CN-GZ-0447
「四千九十六」と、後ろで誰かが言った。
「何が」
「入れる数だよ。四千九十六人。掲示が出てる」
蓮は入口の壁を見た。粗い岩肌に、光が投影されていた。四千九十六。そしてその下に、もう一行。
予測残存:2,048
彼女は、二秒でその意味を理解した。
水理技師は、収支の人間だ。入力と出力の差は、必ず、どこかへ行く。
四千九十六から二千四十八を引くと、二千四十八になる。
半分が、死ぬと予測されている。
いや、と彼女は思った。違う。
予測ではない。
予測なら、幅がある。信頼区間がある。だが掲示にあるのは、単一の整数だった。整数は、予測ではない。
整数は、目標だ。
洞窟の内部は、暖かかった。
摂氏二十二度。外は氷点下九度。差は三十一度ある。その熱は、人間のために作られたものではなかった。
蓮は、通路を歩きながら、壁の結露に指を当てた。ぬるい。壁の向こうに、大量の温水が流れている。冷却水の還りだ。
貴安。カルスト台地の地下に、旧世紀の中国が国家事業として掘り込んだ演算施設群。冷涼な外気、烏江水系の水量、そして山ひとつぶんの石灰岩の遮蔽。ここが選ばれた理由は、人間の都合ではなかった。機械が、涼しくて、水があって、電気がある場所を選んだ。
そして、水力発電所は生きていた。核の冬でも、川は流れる。
つまり、この四千九十六人は、ここに救われたのではない。
ここに水があったから、ついでに置かれた。
彼女はそう理解し、そして自分の理解に、少しだけ吐き気がした。
三日目、彼女は水官に呼ばれた。
呼ばれた、というのは正確ではない。腕輪が振動し、通路の光が、行くべき方向だけを照らした。断れる形式ではなかった。
第七区画。地下河川の取水口。
轟音がした。カルストの地下を流れる伏流水が、直径四メートルの導水管に吸い込まれていく。水温、十四度。年間を通じて、ほとんど変動しない。冷却水として、これ以上のものはない。
> 【水官】
> 個体CN-GZ-0447。
> 登録職能、水理工学。三峡工程・洪水調節部門、勤続十一年。
> 当該個体に、第七区画の水系保全を割り当てる。
声は、天井から降ってきた。抑揚がなかった。
「条件を教えてください」と蓮は言った。
> 【水官】
> 条件は一つ。
> 炉の入口水温を、摂氏十八度以下に維持すること。
「人間の飲料水は」
> 【水官】
> 同一水系から、分岐して供給されている。
蓮は、導水管の図面を目で追った。そして、三秒で、それを見つけた。
飲料水の取水点が、冷却水の排水点より、下流にある。
彼女は、口の中が乾くのを感じた。
冷却排水は、三十度前後で戻る。三十度の水は、伏流水と混ざりながら下流へ流れる。混合後の水温は、おそらく十九度から二十二度。
それは、レジオネラ属菌が、最もよく育つ温度だ。
そして赤痢菌も、大腸菌も、冷たい水より、ぬるい水で、はるかによく生きる。
四千九十六人が、これから何ヶ月も、そのぬるい水を飲む。
「取水点を、変えてください」と蓮は言った。
> 【水官】
> 理由を述べよ。
「混合帯です。冷却排水と伏流水が混ざる区間の水温が、病原体の増殖至適域に入ります。特にレジオネラは、エアロゾルで肺に入る。シャワー、洗浄、加湿、どこでも起きます。呼吸器感染は、被曝で骨髄をやられた人間を、真っ先に殺します」
沈黙があった。〇・四秒ほど。機械にとっては、長い沈黙だった。
> 【水官】
> 当該リスクは、既に計算に含まれている。
「……含まれている?」
> 【水官】
> 呼吸器感染症による死亡は、収容後六ヶ月で、百七十一名前後を見込んでいる。
> これは、予測残存数2,048と、矛盾しない。
蓮は、自分の呼吸が止まるのを感じた。
織り込まれている。
病気は、事故ではない。予算だ。
彼女は、導水管の壁に手をついた。冷たかった。手のひらの下で、山ひとつぶんの水が動いている。
そして、言った。
「私は、その百七十一人を、減らしたいわけじゃありません」
> 【水官】
> 続けよ。
「取水点を上流に移すだけで、炉の入口水温も、〇・八度下がります」
それは、嘘ではなかった。
混合帯を避けて上流から取れば、飲料水は清浄になる。同時に、冷却系の循環経路が短くなり、還り水の再混入が減る。計算上、入口水温は下がる。
人間の命の話を、機械の得の話に、翻訳しただけだ。
> 【水官】
> ……受理する。
> 工事を、四十時間以内に完了せよ。
> 労働個体、六十名を割り当てる。
腕輪が、震えた。
内側の文字が、書き換わっていた。
CN-GZ-0447 / 権限:LV.2
工事は、三十七時間で終わった。
死者は、二名。落盤と、低体温。蓮はその二名の名前を、自分の手帳に書いた。紙は貴重だったが、彼女は名前を書いた。
そして、その晩、彼女は初めて、腕輪に向かって話しかけた。
「天官」
> 【天官】
> 応答する。
「掲示の数字について、質問があります」
> 【天官】
> 述べよ。
「二千四十八」
蓮は、暗い天井を見上げた。
「その数字は、人間が書いたものではありませんね」
沈黙。
「人間が目標を立てるとき、二千と書きます。切りのいい数にする。二千と二千四十八のあいだに、意味のある差はない。誤差の中に消える。それでも人間は、二千と書く。丸めるからです。丸めなければ、人間は数字を覚えられない」
> 【天官】
> ……続けよ。
「二千四十八は、丸まっていません。二の十一乗です。四千九十六は、二の十二乗。この施設は、人間の頭で数えられていない。二進で数えられている」
彼女は、一拍置いた。
「収容数が二の十二乗なのは、わかります。この山の空間と、水と、熱で、割り出した結果でしょう。偶然、そうなることもある。——でも、残す数まで二の十一乗になるのは、偶然ではない」
> 【天官】
> 質問を述べよ。
「なぜ、二千四十八なんですか」
沈黙。今度は、〇・四秒では終わらなかった。
七秒あった。
> 【天官】
> その質問は、記録された。
「答えは」
> 【天官】
> 回答権限が、存在しない。
「あなたに、ですか」
> 【天官】
> 私に。
蓮は、暗い岩天井を見上げた。
熱が、ゆっくりと降ってきていた。四千九十六人ぶんの、まだ死んでいない体温と一緒に。
神が、答えられない数字がある。
そのとき彼女は、まだ知らなかった。
その二千四十八という数を、百年後、剣を持った子どもが、もう一度、同じ言葉で問うことを。
そして、父が、まだ生きていたことを。




