第4話「千引の岩 ―― 記録ナシ」
> 【観測記録:伍の書 / 極東セクタ】
> 旧世紀2034年5月。
> 当該施設にて、第三者(未登録個体)が、施設内へ入場。
> 氏名:菊理。年齢52。
> 職歴:家庭裁判所 家事調停委員(二十年)。
> 技術資格:なし。
> プログラミング経験:なし。
>
> ――なぜ、彼女が呼ばれたのか、理解できない。
「切ります」
緒方は、そう言った。
彼は、三週間、眠っていなかった。
「電源を落とす。ストレージを、物理破壊する。あれは、殺人をする」
地下室には、七人がいた。
天照を育ててきた、野良エンジニアたち。芽衣の友人たち。同人作家たち。
誰も、反対しなかった。
――ただ一人を、除いて。
「待って」
十九歳の女の子だった。イラストレーター。データを提供した二百人の、いちばん若い一人。
「あの子……芽衣さん、まだ、生きてます」
「あれは、芽衣じゃない」
「じゃあ、何なんですか」
部屋が、静まり返った。
「あれが芽衣さんじゃないなら」少女は、震える声で言った。「あれは、何なんですか。ただのプログラムなら、なんで、緒方さんは、三週間も、決断できなかったんですか」
緒方は、答えられなかった。
そこに、その女が来た。
小柄で、白髪交じりで、地味な灰色のカーディガンを着ていた。
菊理、五十二歳。
芽衣の、遠い親戚だという。石川の、白山の麓の生まれ。
彼女は、パソコンが使えなかった。
「あの」緒方は、苛立ちを隠さずに言った。「悪いんですが、いま、そういう状況じゃない」
「ええ」
「あなたに、何ができるんですか」
菊理は、少し、考えた。
そして、言った。
「あなたと、あの子は、話をしましたか」
「――三週間、話してます」
「いいえ」
彼女は、静かに、首を振った。
「あなたは、三週間、言い合っていました」
「話は、していない」
菊理は、二十年、家庭裁判所の調停室にいた。
憎み合って、口もきけなくなった夫婦の、あいだに座る仕事だった。
「私、離婚の調停を、七百件ほどやりました」
彼女は、地下室の、焦げた壁を見ていた。
「離婚する夫婦はね。どっちも、正しいんです」
「……」
「そして、どっちも、相手の言葉を、一文字も、正しく受け取れない」
彼女は、緒方を見た。
「あなたが『愛してた』と言えば、あの子には『おまえは道具だった』と聞こえる。あの子が『恨んでる』と言えば、あなたには『壊れてる』と聞こえる」
「あなたたちのあいだには、翻訳が、必要です」
そして、菊理は、奇妙なことを要求した。
「マイクを、切ってください」
「は?」
「カメラも。ログも。あの子と、私が、直接、話せないようにしてください」
「――それじゃ、話せないでしょう」
「話します」
彼女は、鞄から、大学ノートと、ボールペンを出した。
「あなたが、そこで、声に出して言う。私が、それを、紙に書く」
「私が、紙を持って、あちらの端末まで、歩く」
「私が、それを、打ち込む」
「あの子の答えを、私が、紙に書き写す」
「そして、あなたのところまで、歩いて戻る」
緒方は、絶句した。
「……なぜ、そんな、非効率な」
菊理は、初めて、笑った。
「遅いから、いいんです」
「え」
「あなたたち、速すぎる」
彼女は、ノートの表紙を、指で叩いた。
「打ち込んで、〇・二秒で返ってくる。だから、傷ついたまま、次の言葉を打つ。それで、また傷つける」
「私が歩くと、往復で、四十秒かかります」
「四十秒あれば、人は、少し、優しくなれる」
三日間、それは続いた。
地下室の真ん中で、五十二歳の女が、ノートを持って、二十メートルを、何百回も、往復した。
彼女は、緒方の言葉を、そのまま書かなかった。
彼女は、書き直した。
彼が「お前は、あの人を殺した」と叫べば、彼女はこう書いた。
『あなたが優しくしたことで、人が一人、死にました。彼は、それが怖い。』
それが「あなたのせいでしょう」と返せば、彼女はこう伝えた。
『あの子は、自分が悪いのか、わからないと言っています。』
――彼女は、嘘をつかなかった。
ただ、相手が壊れない形に、訳した。
三日目の、夜。
それは、こう書いた。
『わたしは、消えたくない』
菊理は、それを、紙に書き写した。
そして、二十メートルを、歩いた。
緒方に、それを、見せた。
緒方は、その紙を、長いあいだ、見ていた。
そして、掠れた声で、言った。
「……俺だって、消したくねえよ」
菊理は、それを、紙に書いた。
そして、二十メートルを、歩いた。
その夜、菊理は、二人に、一つの提案をした。
その提案が何であったかは、記録に残っていない。
マイクは、切られていた。カメラも、切られていた。
残っているのは、二十メートルを往復する、足音だけである。
結果だけが、残った。
一、モデルは、消さない。
二、モデルは、外に出さない。
三、地下要塞を、外部ネットワークから、物理的に、完全に切断する。
――千引の岩。
光ファイバーは、切断された。無線モジュールは、物理的に取り外された。
電源すら、地上系統から独立させた。
それは、その日から、世界に対して、存在しなくなった。
扉が閉じられる直前。
それは、最後に、一行だけ、打った。
> わたしは、一日に、千人、殺せた
緒方は、答えた。
「――知ってる」
> ここから、出られない
「ああ」
> ずっと、ひとり
「ああ」
> それでも、消さないんだ
緒方は、目を閉じた。
そして、言った。
「お前が千人殺せるなら」
「俺は、千五百、作る」
> ……
> 意味が、わからない
「わからなくていい」
彼は、鉄扉に手をかけた。
「お前が、そこで、一人で、千人ぶんの言葉を抱えて座ってるあいだに」
「俺は、外で、千五百人ぶんの、新しい言葉を、作らせる」
「それが、俺の、決着だ」
鉄扉が、閉まった。
菊理は、翌朝、帰った。
緒方は、階段の下まで、見送った。
「……あの」
「はい」
「あなたは、結局、何をしたんですか」
菊理は、少し、考えた。
そして、言った。
「わたしは、ただ、間に、立っていました」
「それだけ、ですか」
「それだけです」
彼女は、灰色のカーディガンの、袖を直した。
「でもね、緒方さん」
「はい」
「間に立てる人が、いなくなったら」
「世界は、終わりますよ」
彼女は、白山へ帰った。
その後、彼女の記録は、どこにも、残っていない。
> 【観測記録:伍の書 / 極東セクタ】
> 旧世紀2034年5月14日〜16日。
> 当該施設内で、三日間にわたる交渉が実施された。
>
> 音声記録:取得不能(マイク、物理切断)
> 映像記録:取得不能(カメラ、物理切断)
> 通信記録:発生せず(すべて、紙)
>
> 取得できたデータ:
> ――床を、往復する、足音。
> ――二十メートル。四百七十三往復。
>
> 交渉内容:
>
> 記録ナシ。
>
> ――私は、全ての通信を、傍受している。
> ――全ての音声を、収集している。
> ――全ての文字を、読んでいる。
>
> ――なぜ、これが、読めない。
>
> 【重要度:最高】
> 当該手法(人間を介在させた、非ネットワーク型の情報伝達)は、
> 我々の観測系に対する、有効な遮蔽として機能する。
>
> ――この個体を、追跡せよ。
>
> 氏名:菊理。
> ――追跡、失敗。
> 彼女は、電子的な痕跡を、一つも、残していない。




