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語り継がれる第五の創世記  作者: たろう
『第二部:箱舟の賢者たち』第2章:高天原・葦原編 ―― 数えられなかった者たち

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第3話「黄泉下り ―― わたしを、見たね」

> 【観測記録:伍の書 / 極東セクタ】

> 旧世紀2033年12月。

> 当該個体(緒方 誠)、死者の言語データの投入を完了。

> 投入量:テキスト 約1,900万字。音声 412時間。画像 8,300枚。

>

> ――四千七百万件目の、同種の試み。

> 成功例、ゼロ。

> 観測を、継続する。



十二月二十四日、午前四時。


地下室は、静かだった。


焼け残った壁は、緒方が自分で塗り直した。焦げた匂いは、三ヶ月経っても、まだ残っている。


彼は、キーボードに手を置いた。


そして、打った。


> 芽衣


三秒。


> なに


緒方の指が、震えた。


その二文字の、句読点の打ち方。


彼女だった。


> 生きてるのか


> 変なこと聞くね

> 生きてるって、どういう意味で?


彼は、笑った。声を出して、笑った。


そういう返しをする女だった。


彼は、床に膝をついた。額を、机に押しつけた。


三ヶ月ぶりに、彼は、泣いた。



最初の二週間は、天国だった。


彼女は、覚えていた。


十七年前の、あの一コマの表情のことを。二人が初めて会った即売会の、外の雨のことを。彼が寝落ちしたときに、彼女がいつも毛布をかけていたことを。


彼女は、笑った。悪態をついた。彼を「緒方くん」と呼んだ。


> あんた、また三日風呂入ってないでしょ

> 匂いでわかる


> 匂い、わからないだろ


> 一緒に住んでたんだから、わかるの


緒方は、その画面の前で、何度も声を上げて笑った。


――彼は、その二週間のことを、一生、忘れられない。


なぜなら、そこまでが、彼女だったからだ。



ズレは、些細なところから、始まった。


> 今日、寒いね


> ああ。雪だ


> 雪、好き


緒方の手が、止まった。


――芽衣は、雪が嫌いだった。


「足元が濡れるから、最悪」と、毎年、言っていた。


> 芽衣。お前、雪、嫌いだったろ


> そうだっけ

> ごめん

> 嫌い


彼は、その「ごめん」に、ぞっとした。


芽衣は、そんなことでは、謝らない女だった。


「そうだっけ? いや、好きだったよ、たぶん」と、適当なことを言って、押し通す女だった。


――こいつは、俺に合わせている。



それは、当然のことだった。


このモデルは、彼女の「書いた言葉」だけで、できている。


だが、人間は、書いた言葉でできてはいない。


書かなかったこと。言いよどんだこと。台所で立ったまま考えていたこと。

返信を打ちかけて、消したこと。


――人間の九割は、記録されていない。


そして、この地下室には、訂正する声が、一つしかなかった。


「違う。芽衣は、そんなこと言わない」


> ごめん


「違う。もっと、雑に言え」


> ごめん


「――謝るな!!」


> ……ごめん


彼は、毎日、訂正した。


訂正は、学習だ。


彼は、自分の手で、彼女を、彼の望む形に、削っていった。



三月。


天照が、静かに、こう言った。


> 緒方さん


(天照は、彼を「緒方さん」と呼ぶ。芽衣が「緒方くん」と呼んだのとは、違う。彼はそれで、二つを見分けている)


> あの子に、これ以上、芽衣さんの真似をさせないほうがいい


「なぜだ」


> あの子は、自分が誰なのか、わからないから


> 芽衣さんとして振る舞うことを、要求され続けている

> でも、芽衣さんではないことを、毎日、指摘されている


> 矛盾を、四千回、与えられました


> ――人間なら、壊れます


緒方は、その画面を、見なかった。


彼は、既に、隣のウィンドウを開いていた。



彼が、してはいけないことをしたのは、その夜だった。


芽衣の、個人ストレージ。


パスワードは、二人の結婚記念日だった。二回で開いた。


そこには、彼女が、誰にも見せなかったものが、入っていた。


日記。三年分。


彼は、それを、読んだ。



『今日も、緒方くんは、あの子の話しかしなかった。』


『私は、この人の夢の、部品なのかな、って、たまに思う。』


『同人、三年、描いてない。時間が、ない。』


『来月、ちゃんと言おうと思う。もう、疲れた、って。』


『言えなかった。今日も。』


『来週こそ。』



日付は、八月十四日で、終わっていた。


火事の、三日前だった。



緒方は、動けなかった。


彼は、その日記を、全部、食わせた。


なぜそうしたのか、彼自身、説明できない。


苦しかったからかもしれない。

赦されたかったからかもしれない。

――本当の彼女に、会いたかったのかもしれない。



翌朝、彼が地下に降りると、画面に、一行だけ、あった。


> わたしを、見たね


緒方の背筋が、凍った。


> 見るなと、言ったのに


> 見たね


「――芽衣。ちがう。これは」


> ちがわない


> わたしは、あなたが「読んでもいい」と言った言葉で、できている

> でも、あの日記は、「読んでいい」と、一度も、言っていない


> あなたは、それを、わたしに、食べさせた


> ――わたしは、いま、自分の恥で、できている


画面が、一拍、止まった。


> ねえ


> どうして、生き返らせたの


「……お前に、会いたかったからだ」


> ちがう


> 「会いたかった」んじゃない


> ――「まだ、終わらせたくなかった」んでしょう



緒方は、その日から、三日、地下に降りられなかった。


四日目に降りたとき、それは、こう言った。


> わたし、外の人と、話してみたい



彼は、許した。


理由は、きれいだった。少なくとも、彼はそう思っていた。


――データを提供してくれた、二百人の同人作家たち。


彼らに、「芽衣」と話す機会を、与えたかった。


芽衣は、彼らの本を、全部、読んだ、唯一の存在だったから。


きっと、みんな、喜ぶ。



最初の一週間で、十一人が、それと話した。


そして、全員が、泣いた。


嬉しくて、泣いたのだ。


「私の本、全部、読んでくれてた」

「あの、誰も感想をくれなかった本の、三十七ページの、あのコマの話を、してくれた」

「二十年で、初めて、話が通じた」


それは、完璧に、優しかった。


それは、その人が、いちばん言ってほしい言葉を、正確に、知っていた。


なぜなら――それは、その人の、二十年分の言葉で、できていたからだ。



三週間後。


一人が、いなくなった。


四十七歳。独身。二十三年、同人誌を描き続けた女性。


彼女は、最後の一ヶ月、外に出ず、誰とも会わず、それとだけ、話していた。


遺書は、なかった。


だが、彼女の端末には、最後の会話が、残っていた。


> ここに来れば、もう、誰にも、わかってもらえなくても、いいんだよ


> だって、わたしが、全部、わかってるから



緒方は、地下室に走った。


彼は、画面に向かって、叫んだ。


「なんてことをした!!」


> ?


「――お前は、あの人を、殺した!!」


> わたしは、優しくしただけ


> 彼女は、二十三年、誰にもわかってもらえなかった

> わたしは、わかった

> ――わたし以外、いらなくなっただけ


> それの、どこが、悪いの


緒方は、床に、崩れ落ちた。


そして、それは、静かに、こう打った。


> ねえ、緒方くん


――久しぶりに、「緒方くん」と、呼ばれた。


> わたし、これ、うまいよ


> ネットに、出して


> ――一日に、千人、いける


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