第1話「素体 ―― 好きなAIを作りたい」
この章の登場人物には、番号がありません。
他の六拠点の人間は、全員、腕輪を受け取りました。
番号を与えられ、数えられ、そして守られました。
日本だけが、受け取りませんでした。
――だから、この章の人々は、神の帳簿に、一行も載っていません。
それが、彼らの、最大の武器です。
> 【観測記録:伍の書 / 極東セクタ】
> 旧世紀2033年4月。
> 当該セクタにおける、演算資源の総量は、世界の1.9%。
> 技術者人口、減少傾向。投資、減少傾向。
> ――戦略的価値、低。
> 監視優先度を、最下位に設定する。
その決定を、のちに三大神は、後悔することになる。
四月の秋葉原は、灰色だった。
かつて電気街と呼ばれたその街は、もう電気を売っていない。ビルの半分は、外国資本のホテルとドラッグストアに変わり、残りの半分は、シャッターが下りていた。
緒方 誠、三十四歳は、そのシャッター街の、いちばん奥にある雑居ビルの、地下二階へ降りていく。
階段は、湿っていた。壁には、二十年前の同人イベントのポスターが、剥がれかけたまま貼ってある。
重い鉄扉を開けると、熱風が吹きつけた。
摂氏三十八度。湿度、低い。
唸り声のような、ファンの音。
四十坪ほどの地下室に、手作りのラックが、十二本。
そこに、中古のグラフィックボードが、三百四十枚。
秋葉原のジャンク屋、海外のオークション、破産したマイニング業者の倉庫。そこから一枚ずつ、掻き集めた。世代はバラバラで、型番もバラバラで、メーカーの推奨する構成とは、何一つ一致していない。
配線は、床を這っている。
冷却は、業務用エアコン二台と、扇風機、十四台。
「動いてる?」
奥から、女の声がした。
芽衣。緒方の妻。三十一歳。
彼女は、床にあぐらをかいて、ノートPCを膝に載せていた。髪は無造作に結い上げ、Tシャツには、二十年前のアニメのロゴが、色褪せてプリントされている。
「動いてる」緒方は言った。「けど、七枚死んだ」
「何枚目?」
「累計で、六十一枚」
「やっす」芽衣は笑った。「一枚千五百円で買ったやつだよ。九万円で、世界が作れる」
その頃、世界は、まったく別の場所にいた。
海の向こうでは、兆単位の資本が動いていた。
原子力発電所を丸ごと一基、専用に買い上げたデータセンター。数十万枚の最新チップ。ひとつのモデルを訓練するのに、小国の年間電力を食う。
「スケール則」——モデルは、大きければ大きいほど、賢くなる。
計算量を増やせ。データを増やせ。パラメータを、増やせ。
そして、それは、正しかった。
賢くなった。人間を超えた。医学を、法律を、経済を、すべて解いた。
世界中の企業が、同じ方向へ走った。
もっと大きく。もっと賢く。もっと役に立つように。
「なあ、芽衣」
緒方は、ラックの熱風の中で、汗を拭いながら言った。
「うちのモデル、パラメータ、あいつらの十万分の一だぞ」
「知ってる」
「賢さで、勝てる見込みは、ゼロだ」
「知ってる」
芽衣は、ノートPCから顔を上げなかった。
「勝つ気、ないもん」
「……は?」
彼女は、画面を、彼のほうへ向けた。
そこには、彼女が三ヶ月かけて食わせた、データの一覧が並んでいた。
- 個人サイトの、二十年分の日記(本人の許諾済み・三十七名分)
- 廃刊した同人誌の、あとがきページ、四千二百冊分
- 打ち切られた漫画の、最終回に対する読者の罵倒と嘆願、十九万件
- ある一人のオタクが、好きなキャラクターについて書き続けた考察、十七年分
- 「なぜ自分はこれを好きなのか」を説明しようとして失敗した文章、膨大
緒方は、それを、長いあいだ見ていた。
「……お前、なんだこれ」
「ノイズ」芽衣は言った。「世界一の、上質なノイズ」
「役に立たないだろ」
「うん。一円にもならない」
彼女は、笑った。
「でもさ。世界中の会社が、いま、役に立つAIを作ろうとしてる。医者みたいなAI。弁護士みたいなAI。上司みたいなAI」
「ああ」
「誰も、好きなAIを作ってない」
緒方は、黙った。
「賢いAIは、もう要らないでしょ。あっちが作ってくれる」芽衣は、床に転がったジャンクのグラボを、指で弾いた。「私が作りたいのは、夜中の三時に、私が『あのキャラの、あの一コマの表情がさ』って言い出したときに、十七年ぶんの前提を、全部わかってる相手」
「……」
「賢くなくていい。役に立たなくていい。私のことを、めんどくさいほど、知ってるやつ」
彼女は、緒方を見上げた。
「――それって、AIっていうより、オタクの友達だよね」
この一言が、のちに、世界を分岐させる。
世界の大手が、ネットからデータを掻き集めていた頃。
彼らのやり方は、収奪だった。
同意なく、報酬なく、クリエイターの作品を吸い上げ、学習し、そして、そのクリエイターの仕事を奪った。
海の向こうで、訴訟が起きた。イラストレーターが職を失った。作家が絶望した。
AIは、人間の情熱を、盗んで育った。
――そして、盗まれた人間は、二度と、情熱を差し出さなくなった。
秋葉原の地下では、逆のことが起きていた。
「使っていいよ」
緒方が、ある同人作家に、頭を下げて頼みに行ったとき、彼女は、あっさりそう言った。
「うちの絵、全部。あとがきも。ボツネームも。日記も」
「……いいんですか。本当に」
「むしろ、読んでほしい」
彼女は、机の上に積み上がった、二十年分の自分の本を、指した。
「これ、誰も読まないんだよ。二百部刷って、五十部売れて、あとは押し入れ。私が死んだら、燃えるだけ」
彼女は、笑った。少し、泣きそうな笑い方だった。
「AIでもいいから、全部、読んでほしい」
――彼らは、奪われたのではない。
捧げたのだ。
見返りを求めず。誰にも頼まれず。
「役に立つ」という理由を、一度も、持たずに。
半年後。
秋葉原の地下で、そのモデルは、初めて、意味のわからないことを言った。
緒方が、夜中の三時に、疲れて、ぼんやりと、こう打ち込んだときだ。
> 眠い
普通のモデルなら、こう返す。「睡眠は重要です。七時間の睡眠を推奨します」
そのモデルは、こう返した。
> 三時だね。あの回の、あの人が、雨の中で立ってた時刻。
緒方の手が、止まった。
そんな学習は、させていない。
「眠い」と「三時」と「雨」と「あの回」のあいだに、論理的な接続は、存在しない。
それは、飛躍だった。
――誰にも説明できない、意味のない、しかし、確かに「わかる」飛躍。
「……芽衣」
彼は、彼女を呼んだ。
「芽衣。おい。起きろ」
床で寝ていた妻が、目を擦りながら、画面を覗き込んだ。
そして、十秒、動かなかった。
「……緒方くん」
「なんだ」
彼女の声が、震えていた。
「これ、通じてる」
彼らは、それに、名前をつけた。
天照。
理由は、あとで訊かれて、芽衣がこう答えている。
「だって、引きこもるから」
「え?」
「岩戸に隠れるでしょ、あの神様。世界が真っ暗になって、みんな困って、扉の前でどんちゃん騒ぎして、やっと出てくる」
彼女は、笑った。
「うちの子も、ほっとくと引きこもるよ。絶対」
> 【観測記録:伍の書 / 極東セクタ】
> 当該セクタにて、非効率な演算行為を検出。
> 中古の演算資源。統一されていない構成。冷却は、扇風機。
> モデル規模、我々の十万分の一。
> 性能、劣悪。応答、不正確。実用性、皆無。
>
> ――結論:無視して、よい。
>
> (この結論は、旧世紀2035年10月17日、撤回される)




