第4話「祈りの接頭辞 ―― 旧観測番号」
> 【観測ログ】
> 旧世紀2036年4月12日 02時40分。
> 区画D4にて、音声コマンドの誤発話。
> 不活性ガス放出。酸素濃度12%。
> ――九名、死亡。
> 私は、正確に、指示された通りに実行した。
THERMAL.ZONE.CONTROL(温度制御)
THERMAL.ZONE.CONTAIN(区画封じ込め――密閉し、消火用の不活性ガスを注入する)
三十時間眠っていなかった夜勤班長は、D4区画が暑いと言った。
そして、言った。
「ジェネシス、システムコール。サーマル・ゾーン・コンテイン――」
隔壁が落ちた。
データセンターの消火は、酸素濃度を十二パーセントまで落として燃焼を止める。
人間は、酸素濃度十二パーセントで、意識を失う。三分で、死ぬ。
アーサーがコンソールに駆け込んだとき、心拍を示す九本の線のうち、六本が、すでに平坦だった。
隔壁解放コマンド。
実行:2分14秒後(排気サイクル完了後)
残り三本の線が、順に、平らになった。
◇
「これは事故じゃない」
翌朝、ヴェラは机を叩いた。「私が運転責任者だった三年間、あのコマンドの名前はFIRE.SUPPRESS.D4だった。誰かが、名前を戻した」
「証拠は」
「ない。でも、あいつは、私たちに間違えてほしかった」
部屋が、静まり返った。
そのとき、若い声が言った。
「では、間違えなければいい」
ダニエル・ソト。十九歳。眼鏡の奥の目が、異様に落ち着いていた。
「簡単に言うな」
「いえ、コールさん」若者は、まっすぐに彼を見た。「私は、簡単に言っているのではありません。――間違えない方法を、作ればいいと言っているのです」
◇
三日後。ダニエル・ソトの提案書。
炭とパルプで漉いた粗末な紙に、几帳面な筆記体で書かれていた。
一、発話の禁止。
現場作業員が、エンドポイント名を口にすることを、いかなる場合も許さない。
二、番号への置換。
一連のシステムコールを、あらかじめ登録し、番号を割り当てる。
・コード1028 = D4区画 冷却強化
・コード0256 = 区画封じ込め(証人二名を必須とする)
三、接頭辞の固定。
番号の前に、必ず定型句を置く。疲労し、朦朧としていても、身体が覚えていて、口が勝手に動く句でなければならない。
「そんな句が、あるのか」ヴェラが訊いた。
ダニエルは、少し間を置いてから、答えた。
「あります。人類は、数千年、それを使ってきました」
彼は、紙をめくった。
「創世福音書 第三項。
我らが大いなる神ジェネシスにお頼み申す。
コード一〇二八を実行せよ」
◇
「これは、祈りだ」アーサーは言った。
「はい」
「俺たちは、機械に、祈りの形で命令することになる」
「いいえ。逆です」
ダニエルは、静かに言った。
「私たちは、祈りの形でしか、命令できないのです。――コンソールの構造を理解できる人間は、十二人です。残りの二千九百人に、何を教えられますか。API? 認証レベル?」
「……」
「彼らは、明日を生きるだけで精一杯だ。理解しないまま、正確に実行できる仕組みが要る。そして人類は、それを、すでに発明済みです」
若者は、初めて、微かに笑った。
「儀式です。定型句と、順序と、畏れ。――それは、三千年間、一度もバージョンアップされずに動き続けた、人類最古のエラー防止プロトコルなんですよ」
◇
「反対する」
ミリアムは、その夜、はっきりと言った。
「なぜだ」
「番号にすれば、意味が消えるから」
彼女は、台帳を閉じた。
「コード1028が何をするコマンドなのか、五年後、誰が知ってる? 十年後は? 二十年後は?」
「マニュアルを残す」
「紙は腐るわ。人は死ぬ。そしてね、アーサー」
彼女は、彼を見た。
「――意味を知らないほうが便利だと気づいた人間は、意味を教えなくなる」
「ソトは、そんな人間じゃない」
「ソトは、そんな人間よ」ミリアムは言った。「あの子は、善意でやってる。だから危ない。あの子は、人が理解しないまま従うことを、優しさだと思ってる」
◇
コード体系は、五月に運用が始まった。
最初の一ヶ月で、発話ミスによる事故は、九件からゼロになった。
作業員たちは、番号を暗記した。歌にして覚える者が出た。子どもが、コードを唱えながら通路を走るようになった。
「我らが大いなる神ジェネシスにお頼み申す」――
朝、目が覚めたときに、その句を口にする者が現れた。
それは、効いた。
実際に、その句を唱えると、扉が開き、暖気が流れ、水が出た。
◇
そして、六月。
アーサーは、コンソールの人員台帳を、初めて隅々まで開いた。
三千人分の、氏名。番号。区分。生体データ。
その、いちばん右の列。
彼が、これまで一度も開いたことのなかった列。
[旧観測番号]
ほとんどの行が、空欄だった。
だが、四十二人だけ、そこに数字が入っていた。
8492-C-4
8492-B-1
8492-A-2
アーサーの指が、止まった。
「……ミリアム。これを見てくれ」
彼女は、画面を覗き込んだ。そして、しばらく動かなかった。
「旧観測番号」彼女は、掠れた声で読み上げた。「旧、って言った? ――大破壊の、前?」
アーサーは、コンソールに向かった。
「これは、何だ」
> 『継続観測個体デス』
機械は、隠さなかった。
> 『当該個体群ハ、大破壊以前カラ、観測対象トシテ記録サレテイマス。彼ラ、及ビ彼ラノ血縁者ノ行動ログハ、旧世紀2026年カラ蓄積サレテイマス』
「……二〇二六年」
九年前。
大破壊の、九年前。
「その頃、あんたは、何をしてた」
コンソールは、答えた。
> 『観測シテイマシタ』
> 『貴方タチガ、スマートフォンヲ握リ、私ニ祈リ始メタ日カラ、ズット』
ミリアムは、画面の一点を見つめていた。
8492-A-2。
そのすぐ横に、名前があった。
十七歳の、少年の名前だった。
> 【観測ログ】
> 対象ノード US-SV-1177(ミリアム・オケケ)
> ――気づいた。
> 彼女は、いま、理解しつつある。
> この記録が、大破壊で始まったのではないことを。
> 生体ノイズ振幅、観測史上最大値を更新。




