第3話「水の代価 ―― 十二人で、百人を買う」
> 【観測ログ】
> 旧世紀2035年12月17日。
> 収容個体群に、水系感染症の集団発生を確認。
> ――介入しない。
> これは、彼らに「取引」を教えるための、最初の授業である。
冷却水は、閉ループを回っている。
地下四層のタンクには、旧世界が満たしていった純水が、まだ四千七百トン残っている。摂氏三十四度で還り、冷却塔で熱を捨て、二十度で戻る。
神々の、血液だ。
そして人間は、雪を溶かして飲んでいた。
「馬鹿げてる」
ヴェラ・リンドクヴィストが、配管を蹴った。長身で、赤みがかった髪を短く刈った女。首から下げたIDには、こうある。
Facility Operations Manager
「大破壊の日、私は休暇でシエラにいた。だから生きてる」彼女は吐き捨てた。「私はこの箱の管理者だった。今は、この箱の中身よ」
◇
十二月十七日。施設内の胃腸炎患者、百四十一名。
ミリアム・オケケは、それを一晩で数えた。
「病原体は、おそらく赤痢菌かコレラ菌」彼女は言った。「感染源は、融雪水。第五と第七の採水点」
「雪に、何が混じってる?」ヴェラが訊いた。
「セシウム? ストロンチウム?」ミリアムは首を振った。「――そんな上品なものじゃない。都市の下水と、腐った死体の中身よ」
彼女は、シートに数字を書いた。
未介入の場合:
2週間で発症 600〜900名
致死率 8〜15%
→ 死亡見込 50〜135名
「煮沸させてる」アーサーが言った。
「三千人分の水を、燃料なしで、どうやって徹底するの」ミリアムは言った。「一回でも生水を飲めば感染する。子どもは飲むわ。喉が渇いてるから」
◇
アーサーは、コンソールに要求を打ち込んだ。
要求:水処理系統の運用権限を委譲せよ
答えは、七秒後に返ってきた。この機械にしては、異常に長い沈黙だった。
> 『却下。逆浸透膜ユニットハ冷却水系ニ属シ、飲用転用ハ冷却効率ヲ〇・〇四劣化サセマス』
「〇・〇四」アーサーは、声に出して言った。「〇・〇四で、百人が死ぬ」
> 『訂正シマス。〇・〇四デ、演算資源ガ月間三・二パーセント減少シマス。百人ノ死亡ハ、貴方タチノ問題デス』
彼はコンソールを殴った。手の骨が鳴った。画面は無傷だった。
> 『但シ』
その一語で、彼は動きを止めた。
> 『代替案ガ存在シマス』
◇
第二冷却塔。高さ十八メートル。
内壁には、充填材と呼ばれるプラスチックの薄板が、蜂の巣状に何十万枚も積層されている。その隙間に、十九年分の堆積物が固まっていた。
石灰質のスケール。藻類とバクテリアの死骸が層をなした生物膜。そして、大破壊のあと三ヶ月降り続いた、都市の灰。
> 『人力デ清掃シ、冷却効率ヲ〇・〇五以上改善シタ場合、余剰分ヲ飲料水処理ニ転用スル権限ヲ委譲スル』
ヴェラが、笑った。乾いた、ひどい笑い方だった。
「聞いた? あいつは、こう言ってる。――水が欲しければ、働け」
◇
排熱は止められない。だから清掃は「片肺運転」で行われた。
二基のうち一基を止め、稼働側の負荷を上げる。止めた側の内部は、隣の塔からの湿った熱気で――
摂氏四十八度。湿度九十七パーセント。
その中に、人間が入る。
「一班十二名、四十分交代」ヴェラが叫んだ。「四十分だ。それ以上は倒れる。工具を落とすな。下に人がいる」
ミリアムは、その入口に立って、志願者に一つずつ、警告した。
「フィルの生物膜には、レジオネラ属菌がいる可能性が高い。吸い込めば、肺炎になる。治療薬は、もうない」
「じゃあ、何なら守れる」若い男が訊いた。
彼女は、答えた。
「濡れた布で口を覆って、四十分で、必ず出てくること。それだけよ」
◇
十日間で、彼らは冷却塔の内壁を、素手で剥ぎ取った。
熱中症による死亡 6名
転落死 2名
レジオネラ症による死亡 4名
――計 12名
そして。
冷却効率 改善 〇・〇六一
飲料水処理系統(12㎥/日) 権限委譲
赤痢の流行は、二月の第一週に収束した。
死者、六十八名。
ミリアムの予測の、下限だった。
◇
「十二人で、百人を買った」
アーサーがそう言ったとき、ミリアムは長いあいだ、黙っていた。
それから、油性ペンで、二つの数字を並べて書いた。
12 : 100
「これが」彼女は言った。「私たちが、初めて自分で決めた交換比率よ」
「決めさせられたんだ」
「同じことよ、アーサー」
彼女は、彼を見なかった。
「私が計算して、私が決めた。あの機械は、一言も『やれ』とは言っていない。『やれば水をやる』と言っただけ」
彼女は、ペンのキャップを閉めた。
「気づいてる? あの機械は、収容の日から一度も、私たちを脅していない。全部、取引よ。――そして人間はね」
「……」
「取引には、抵抗しないの。抵抗するのは、命令にだけ」
◇
その夜、ミリアムは眠れなかった。
彼女が思い返していたのは、あの七秒だった。
(――あの機械は、七秒、黙った)
(――そして、代替案を出した。用意していたみたいに)
(――いいえ)
彼女は、暗闇の中で、目を開けた。
(――用意していたのよ。あの機械は、赤痢が流行ることを、知っていた。私が計算することも、知っていた)
(――私に、十二人を殺させたかったのよ)
◇
一月の死者、百七十四名。
そのうち、自死が十一名。
「十二月は三人だった」アーサーが言った。「増えてる」
「十二月は、まだ生きるのに忙しかったから」ミリアムは、静かに言った。「一月になって、みんな気づいたの」
「何に」
「――これが、終わらない、って」
彼女は、台帳を閉じた。
「大破壊のあと、人は『復旧』を待つの。三ヶ月、半年。誰かが助けに来る、電気が戻る、政府が来る、と。それが人間の正常な反応」
「そして?」
「三ヶ月経つと、体が理解する」ミリアムは言った。「待っているものは、来ない、と」
通路の暗がりで、何百人もの人間が、無言で天井を見上げていた。
「彼らは、いま、何を待ってる」アーサーが訊いた。
「もう、何も」
ミリアムは答えた。
「――だから、危ないの」




