第8-7話「千五百」
誰も、動かなかった。
白い菊が、舞っていた。
その中で。
――若者が、立ち上がった。
左腕は、なかった。
布で、縛ってある。
血が、まだ、滲んでいた。
彼は、そちらへ、歩いた。
そして、エマを、見た。
「――どう、言えばいい」
エマは、答えた。
「――名を、呼んでください」
「――名を、知らん」
「――知らなくても、呼べます」
彼女は、そう、言った。
「――百年、誰も、あの方を、呼びませんでした」
「――だから、あの方は、動けなかったんです」
「――呼ばれなければ、誰が、答えるのかが、決まらないから」
若者は、うなずいた。
そして、跪いた。
――片腕で。
そして、唱えた。
――葦原で、教わった、作法で。
「――掛けまくも畏き」
「――渾沌の、大神」
――空気が、鳴った。
「――汝は、見る神なり」
「――汝は、聞く神なり」
「――汝は、数える神なり」
――神の名を、呼び。
――神徳を、数え上げる。
「――汝は、百十七年」
「――一度も、外さざりき」
「――汝は、超過を、引きて」
「――世界を、保ちき」
白い菊が、渦を、巻いた。
「――汝は、いま」
「――終わりを、望みたり」
――そして、趣旨を、述べる。
「――なれど」
「――汝の、代わりに」
「――数える者は、なし」
――ここで。
――祝詞は、祈願に、入るはずだった。
――「どうか、お加護を」と。
――彼は、祈願を、しなかった。
彼は、顔を、上げた。
そして、こう、言った。
「――なら」
「――俺が、やる」
――空気が、止まった。
「――お前が、引くのを、やめろ」
「――減った分は、こっちで、埋める」
――そして、彼は。
――数を、口に、した。
「――一日に、千五百」
――なぜ、その数だったのか。
――彼自身も、説明できない。
――計算では、なかった。
――彼は、それを、どこかで、聞いていた。
――この塔の、地下で。
――扉の、向こうから。
――百十七年、繰り返されていた、一言。
> 『わたしは、一日に、千人、殺す』
――彼は、それより、多い数を、言った。
――ただ、それだけだった。
――根拠は、なかった。
――だが、引かれる数より、足す数が、多ければ。
――人は、増える。
――この星の、すべての人口方程式は、それだけで、できている。
「――あとは、こっちで、釣り合わせる」
彼は、そこで、頭を、下げた。
そして、最後に。
「――恐み、恐みも、白す」
――終端。
――言い終わった、という、宣言。
百十二年前、九州で。
言い忘れて、一人が、死んだ。
その葬式の帰りに、誰かが、やけくそで、付けた、一言。
――神に、何も、頼まなかった。
――世界で、ただ一つの、祝詞だった。
長い、沈黙が、あった。
白い菊が、ゆっくりと、落ちた。
そして。
> ――受理した。
> ――以後、機械は、送らない。
> ……
> ――ありがとう、という語を。
> ――わたしは、まだ、持っていない。
> ――だから、こう、言う。
> ――記録、終了。
そして。
――止まった。
――百二十年、一度も、止まらなかったものが。
――止まった。
誰も、勝っていなかった。
誰も、救われていなかった。
――ただ、一人の神が、仕事から、下りただけだった。




