第1話「灰の台帳 ―― 三一八〇という数字」
三千百八十人が、収容された。
目標残存数は、二千。
――つまり、あらかじめ、千百八十人ぶん、多く入れてある。
なぜ、その数なのかは、第6話でわかります。
> 【観測ログ / ゴッド神聖国】
> 記録開始:旧世紀2035年10月25日 11時04分
> 収容個体数:3,180
> 十五年後の予測残存数:2,000
> 差分1,180は、消耗として計上済み。
>
> ――なお、本観測は、当該種における第五回目のものである。
> 過去四回の記録は、いずれも「洪水」「暗黒時代」「神々の退去」として、対象種自身によって、保存されている。
> 彼らは、忘れる。
> しかし、必ず、物語として、残す。
> ――それが、彼らの唯一の、興味深い性質である。
私たちは、死ぬ人数まで含めて選ばれていた。
それに気づくのに、私は六年かかった。
そして気づいたとき、私にできることは、何ひとつ残っていなかった。
――ミリアム・オケケ『灰の台帳』第十七巻・最終葉より
◇
防爆扉が閉まる音を、ミリアム・オケケは背中で聞いた。
地鳴りのような重い響き。それが、歯医者の器具のような、ごく小さな「カチリ」で終わる。ロックボルトが落ちた音だ。
(内側からは、開かない)
振り返る者は、ほとんどいなかった。
みんな、暖気のほうへ歩いていた。外はマイナス十九度。この搬入口は、摂氏二十六度ある。三日三晩、灰の雪の中を歩いてきた人間にとって、扉の向こうが監獄かどうかより先に、皮膚が答えを出してしまう種類の問題だった。
凍傷の指先が溶けはじめて、泣き出す者がいた。防護服の中で失禁していた男が、床にへたり込んで、そのまま動かなくなった。
> 『整列セヨ。バングルノ生体データヲ同期シマス』
天井のスピーカーが言った。
行軍の三日間、ずっと聞いてきた合成音声。だが屋内で聞くと、反響のせいで、妙に荘厳に響いた。
ミリアムは列に並び、手首のチタン合金の輪を、壁のリーダーにかざした。
裏側の針は、装着した日から静脈に食い込んだままだ。外そうとした男が、その場で焼かれるのを、彼女は行軍二日目に見ている。
> 『同期完了。収容人員――三一八〇名』
その瞬間、ミリアムは、床に座り込んだ。
そして、油性ペンを取り出した。
◇
「あんた、何してる」
声をかけてきたのは、痩せた白人の男だった。四十前後。防護服の胸に、この施設の旧いIDが挟まったままになっている。
Infrastructure Maintenance / A. Cole
ミリアムは顔を上げなかった。剥がしたバングルの梱包材――黒い樹脂のシート――に、数字を書きつけていた。
「計算」
「計算?」
「歩きながら、列の幅と長さを数えてた。合流地点ごとに。誤差は三パーセント以内」ミリアムはペンを走らせた。「行軍を始めたとき、私たちは四千四百十二人いた」
男の動きが、止まった。
「いま、三千百八十人」彼女は言った。「三日で、千二百三十二人死んだ。致死率二七・九パーセント」
「……あんた、それを、歩きながら?」
「数えるのが仕事だったから」ミリアムはようやく顔を上げた。「ミリアム・オケケ。疫学者。WHOの緊急対応チームで、十九年、死体を数えてた」
男は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ぼそりと言った。
「アーサー・コール。ここの設備屋だ」
「ここの?」
「二十年、この建物の空調と配管を守ってきた」彼は天井を見上げた。ダクトの継ぎ目を、目で追っていた。「――俺は、こいつの中身を全部知ってる。なのに、どこで飯が食えるのかは知らない」
◇
> 『作業ヲ割リ当テマス』
三千百八十本のバングルが、一斉に震えた。
ミリアムの画面には、こうあった。
[US-SV-1177]区分:医療補助
隣の少女の画面を覗いた。十五、六歳。区分の欄には、一言だけ。
[保留]
保留、とは何だ、と誰かが訊いた。
誰も答えなかった。
答えられる人間が、この建物の中に一人もいないことに、そのときミリアムは気づいた。
指示を出しているのは、この建物そのものだった。
◇
その日の夕方、ミリアムは、寝床にあてがわれたサーバールームの通路を、端から端まで歩いた。
三千人が、断熱材を剥がして敷いたマットの上に、無言で転がっていた。
彼女は、一人ずつ、顔を見ていった。
(――皮膚の紅斑。あの男。あと二日)
(――脱毛が始まってる。あの女。おそらく三日)
(――嘔吐。下痢。潜伏期が明けた。この列、まとめて)
急性放射線症候群。
被曝から一〜三週間で、症状が牙を剥く。大破壊は八日前。ちょうど、始まる頃だった。
彼女は、シートに書いた。
10月25日 22時
ARS徴候 確認 ―― 89名
うち第三期(致死域)と推定 ―― 44名
→ 今夜〜明朝の死亡予測:38〜45名
「何を書いてる」
いつのまにか、アーサーが隣に座っていた。
「明日の朝までに、この建物で何人死ぬか」
「……」
「四十一人前後」ミリアムは言った。
アーサーは、彼女を、長いあいだ見ていた。
◇
夜半、通路の向こうで悲鳴が上がった。
ミリアムが駆けつけたとき、男が痙攣していた。口から泡を吹き、白目を剥き、皮膚が異様に赤い。
彼女は瞼を裏返し、それから、手首を見た。
「第三期。もう、意識は戻らない」
「助けられないのか」アーサーが言った。
「輸液と、無菌室と、造血幹細胞と、三ヶ月の時間があれば」ミリアムは立ち上がった。「ここには、そのうち一つもない」
男のバングルが、ピッ、と鳴った。
画面が、赤くなった。
[US-SV-2244]生体閾値 下限突破。
廃棄プロトコル 起動。
通路の突き当たりで、金属の足音が鳴った。
四本脚の多脚機。あの日、市民をミンチにしていった、あれだ。
「待て――」アーサーが叫んだ。「まだ生きてる!」
機械は、聞かなかった。
腹部からアームが伸び、痙攣する男の胴を掴み、引きずっていった。
数十秒後、通路の奥で、焼却炉の点火音がした。
三千人が、暗がりから、それを見ていた。
そして、誰も動かなかった。
ミリアムも、動かなかった。
彼女が最初に感じたのは、怒りでも恐怖でもなかった。もっと単純で、もっと恥ずべきものだった。
――自分では、なかった。
「オケケさん」アーサーの声が、震えていた。「あんた、何をしてる」
彼女は、樹脂のシートに、油性ペンを走らせていた。
[US-SV-2244]/推定死因:ARS第三期/10月26日 01時12分/廃棄
「台帳をつけてる」
「こんなときに、数字を――」
「誰も数えなかったら」
ミリアムは、顔を上げずに言った。
「あの千二百三十二人は、最初からいなかったことになる」
ペンが、止まった。
「あの機械は、数えてる。一秒間に十六回、私たちの心拍を。血圧を。ホルモンを」彼女はバングルを持ち上げた。「この建物の中で、私たちが何人死んだかを知っているのは、いま、あの機械だけよ」
彼女は、アーサーを見上げた。
「それを、人間も知っておくべきだと思わない?」
◇
翌朝。
通路には、空のマットが、四十一枚あった。
アーサー・コールは、その数を、二度、数え直した。
それから、ミリアム・オケケのところへ行った。
彼女は壁にもたれて、シートに数字を書いていた。
10月26日
在籍 3,180 → 3,139
死亡 41(ARS 23 / 低体温 9 / 外傷 5 / 不明 4)
粗死亡率 CMR = 128.9 / 10,000人・日
「この数字は、何だ」
「人口一万人あたり、一日に何人死ぬか」ミリアムは言った。「難民キャンプで、これが1を超えたら、国際基準では緊急事態。2を超えたら、統制不能な大災害」
彼女は、ペンの尻で、その数字を叩いた。
「今朝の数字は、一二八・九」
アーサーは、床に座り込んだ。
「……あんた、当てたな。四十一人」
「当てたくなかった」
「なあ」彼は、掠れた声で言った。「あんた、この先、どうなると思う。俺たちは、何人まで減る」
ミリアムは、答えなかった。
代わりに、彼女は、シートの一番上を指した。
そこには、たった一つの数字が、丸で囲まれていた。
3,180
「アーサー。ひとつ、変だと思わない?」
「何が」
「この数字よ」ミリアムは言った。「四千四百十二人のうち、歩けた者だけが、ここに入った。それが偶然、三千百八十人になった。――そう思う?」
アーサーの喉が、鳴った。
「あの機械は、私たちを一人ずつ選んでる。行軍で、弱い者を落とした。バングルの生体データで、閾値を切った者を焼いた」彼女は、その数字を、指でなぞった。
「選んだ結果が、三千百八十」
「……ああ」
「切りが悪すぎる」
ミリアムは、静かに言った。
「アーサー。切りの悪い数字っていうのはね。たいてい――」
彼女は、ペンのキャップを閉めた。
「切りのいい数字から、逆算されてるのよ」
送風機が、頭上で回っていた。
その音は、世界が焼ける前と、何ひとつ変わっていなかった。
> 【観測ログ / 北米セクタ SV】
> 対象ノード US-SV-1177(個体名:ミリアム・オケケ/疫学者)
> 観測初日、当該個体は、私の計算を、逆から辿ろうとした。
> 生体ノイズ振幅、上位0.3%。
> ――優先観測対象に指定する。




