【久遠 いろは】②
————歌声が響き渡る。
初めの一音で【久遠 いろは】の特異性を見せつけ。
初めの一語で【久遠 いろは】の心を露わにし。
初めの一節で【久遠 いろは】の存在を刻み込む。
その歌声だけで世界を塗り替えるかのようだ。
つい数分前まで、言葉を交わすだけで肩を震わせていた少女。
————その面影は、もうどこにもない。
今、この歌を届けているのは。
————【久遠 いろは】という、一人の【歌姫】だった。
『私』は静かに耳を澄ませる。
【久遠 いろは】は別のスタジオにいる。
だから聞こえてくるのは配信へ乗せられた歌声だけ。
————しかし。
画面越しであるという距離を【久遠 いろは】の歌声は容易く踏み越えてくる。
まるで同じ空間に居るようで息遣いまで感じ取れるほどの臨場感だった。
今【久遠 いろは】が歌っている曲は決してアップテンポな気分を盛り上げる曲ではない。
それなのに聴き手である者の気持ちを高揚させるのはライブ会場で生歌唱を聴いた時と同じ感覚だろう。
《鳥肌モノだよね……》
《これこそいろはちゃんよな》
《どれだけ聴いても飽きないもん》
《本当に別人に思える》
《これはいろはさんですわ……》
聴き慣れている者も、初めて聴いた者も【久遠 いろは】の歌唱力の高さに舌を巻く。
『私』が初めてその歌を耳にした時。
無意識のうちに今まで【真似】してきた歌を生業とする者たちと比較していた。
音程は正確でリズムに一切の揺らぎも無い。
ブレスも、ビブラートも、抑揚も。
その全てが高い水準でまとまっている。
————だが。
技術だけなら、この世界にはもっと優れた歌手もいる。
【久遠 いろは】の歌を特別たらしめているのは、そこではなかった。
「…………」
紡ぐ歌詞の意味を理解し。
込められた感情を表現し。
その一音一音へ【命】を灯らせる。
同じ歌の中で何度も感情を切り替えながらそれでも決して不自然にならない。
————まるで一曲そのものが一つの物語だった。
だから————聴いているだけなのに、情景が浮かぶ。
だから————一曲が終わる頃には、誰もがその世界へ引き込まれている。
————誰もが歌を聴いていた。
それなのに誰もが一つの物語を見ていた。
《歌詞が頭じゃなくて心に入ってくる……》
《これがいろはちゃんなんだよ……》
《感情がそのまま声になってる》
《泣きそう》
《鳥肌止まらん……》
コメント欄の流れは緩やかで【久遠 いろは】の歌に聴き入っているのだろう。
————時間にして3分43秒。
【久遠 いろは】が奏でる物語は終わりを見せた。
「……あ、ありがとうございました……!」
歌が終わった途端、【久遠 いろは】の声は再び小さくなる。
つい先程まで世界を支配していた【歌姫】はもういない。
そこにいるのは照れたようにキョロキョロと辺りを見渡す一人の少女だった。
《おかえりいろはちゃんw》
《歌終わった瞬間戻りますやんw》
《このギャップよ》
《だから好き》
《尊い》
《同一人物なんだよな……?》
「…………」
【久遠 いろは】はコメント欄を見つめながら、恥ずかしそうに肩をすくめる。
「そ、そんなに褒められると……その……」
言葉は途中で止まり、小さく俯いてしまう。
「……て、照れます……」
「素敵な歌でした」
そんな【久遠 いろは】に向かって『私』が素直な感想を伝える。
「歌詞の情景が自然と浮かんできました……」
「……ほ、本当ですか……?」
「もちろんです!」
「……えへへ」
小さく笑う声。
それだけで、嬉しいという感情が十分に伝わってきた。
《かわいい》
《守りたい》
《ミラちゃんからのお褒めの言葉は嬉しいでしょ!》
《この空気好き》
《やさしいせかい……》
「えっと……次は……」
【久遠 いろは】が挙動不審に動き始める。
実際に見ているわけではないため正確には分からないがなにか手元の物を探しているようだ。
「……ミラさんの番です……!」
「頑張りますね」
『私』は一言残して準備のためにスタンドマイクの前へ静かに立つ。
《来るぞ……》
《ミラちゃんの歌……》
《楽しみ》
《いろはちゃんの後って絶対緊張するだろ……》
《何歌うんだ?》
コメント欄では今からの『私』の歌に対してのコメントが流れていく。
————『私』は目を閉じる。
頭の中には、たった今まで歌っていた【久遠 いろは】の歌声が残っていた。
音程、息遣い、抑揚、感情。
その全ては、もう理解している。
————だから。
『私』は静かに息を吸った。
「————それでは」
イントロが流れ始める。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私は爆発しそうな程に緊張している心臓を落ち着かせるように深呼吸をする。
せっかくコラボしてもらっているミラさんを困らせないようにマネージャーに台本も作ってもらっていたのだが歌った後にどこに行ったか分からなくなり気絶するかと思った。
今もまだ胸の鼓動は速いままだったが、耳へ届いたミラさんの歌う曲のイントロに意識を向ける。
それだけでほんの少しだけ呼吸が楽になった。
————やはり歌はいい。
私が歌っている訳では無いが聴くだけでも心が安らぐのだから。
「————……えっ……??」
しかし。
最初の一音で、私は身体が止まった。
その息遣いも声の抜き方も歌い出しの癖、感情の乗せ方でさえ。
全部全部————私だった。
「う、うそ……」
歌っている曲は先程とはもちろん違う。
————しかし、私はこの曲を歌ったことがない。
なのに。
まるで私が歌っているようだった。
《……え?》
《ちょっと待って……》
《声だけで飽き足らず……??》
《完全にいろはちゃんじゃね……?》
《いろはちゃんこの曲歌ったことないよね……?》
《いや、歌ってるのミラちゃんだよな?》
《え、どういうこと?》
《完全にいろはちゃんなんだけど》
ミラさんが真似するのが得意なのは理解していた。
初めは声真似が得意なんだと思っていたけどレンさんとのコラボ配信でゲームのプレイも真似できるのを知った。
まさか歌声まで真似できるなんて思っていなかった。
歌は声を真似すれば良いだけじゃない。
それっぽく歌えば良い訳じゃない。
一人ひとりに何者にも代え難い癖がある。
息を吸うタイミング。
語尾を少しだけ抜く癖。
高音へ入る直前の僅かな力の入れ方。
ロングトーンで揺らす幅。
ビブラートを掛け始める瞬間。
感情を乗せる場所。
それらは楽譜には書かれていない。
長年歌い続ける中で自然と身体へ染み付いた————その人だけの歌い方。
————だからこそ。
私自身ですら無意識に歌っている部分ばかりだった。
「……どうして……」
どうして分かるんだろう。
どうして、そこまで。
私自身も意識していない歌い方を。
《やばい……》
《いろはちゃんが歌ってるとしか思えない……》
《完全にいろはちゃん》
《鳥肌めっちゃ立ってる》
《声、ゲームときて歌もできるんだ……》
《歌い方まんま同じ……》
《もう意味分からん》
私は身体が震えていることに気付いた。
確かに、少しだけ怖い。
自分でも意識していなかった自分を、先に見つけられてしまったようで。
けれどそれ以上に————
————嬉しい気持ちがいっぱいだった。
ミラさんは私の歌をただ聴いていたんじゃない。
誰よりも真剣に。
誰よりも丁寧に。
私という人間を歌を通して見ていてくれたんだ。
誰かの歌い方を真似ることを嫌う人もいる。
本人のものを奪っているようだと言う人もいる。
けれど————私は私の歌を奪われたとは思わなかった。
————むしろ。
私の歌を誰よりも理解しようとしてくれていた。
そんな気がして、少しだけ胸が熱くなった。
————あぁ。
もっと聴いていたい。
私が歌に込めたものを、ミラさんはどう受け取ったのだろう。
その答えを。
今度はミラさんの歌が聞かせてくれている。
私にとって【歌】は、言葉では伝えられない想いを交わすための、もう一つの会話なのだから。




