【久遠 いろは】
————配信開始数分前。
【久遠 いろは】との会話が広がったとは言えない状況だったが入口の扉がノックされる。
「そろそろ移動お願いします」
「澪ちゃん行けそう??」
現れたのは神代さんと【久遠 いろは】の担当マネージャーである【諸星 真】さん。
「あちゃ〜……予想通りガチガチだねぇ……」
たははと笑いながら【久遠 いろは】の元へと近づいた諸星さんは縮こまる彼女の脇に手を入れて持ち上げるとそそくさと扉へ向かう。
「ごめんねぇ〜優梨ちゃ〜ん。
この子のことは私に任せて準備しちゃって!」
まるで借りてきた猫のようにされるがままの【久遠 いろは】の姿を見送り『僕』は神代さんに視線を向ける。
「……ひとまず向かいましょうか」
「はい」
神代さんは苦笑いを浮かべながらも『僕』のことを優先してくれたようでスタジオへと案内してくれる。
今回は【神楽 琴音】と共に配信したスタジオではなく、歌が歌いやすいようにセッティングされたスタジオだと事前に聞いていたためどのような作りなのだろうかと気を向けていた。
————環境が変われば【真似】も変えなければならないから。
神代さんの後ろをついて行き、エレベーターを経由していつもとは違うフロアへと足を踏み入れる。
これまで案内された配信スタジオとは違い部屋だけでなくフロアの通路にも防音のための設備が整っており、ある程度の感覚を開けて防音扉が並んでいた。
「早川さんはここですね」
防音扉が開かれて中に案内される。
そこには【神楽 琴音】と共に配信した部屋のような設備に追加してスタンドマイクによる立ったまま配信ができる環境が整えられていた。
数名は同時に入れるであろうスペースだったがそこには【久遠 いろは】の姿はない。
「別々で配信ですか?」
「久遠さんは対面だと……」
「なるほど理解しました」
先程までの様子を思い出しながら神代さんと互いに苦笑する。
果たして対面じゃないだけでどれ程の効果があるのだろうかと心配しながらも『私』は配信の準備を進めていく。
「それでは私は失礼します。
今日も配信楽しみにしてますよ?」
「ご期待に応えられるよう頑張ります」
そのようなやり取りをして神代さんは防音扉から出ていく。完全に一人の環境だが防音対策がしっかりとされているのか雑音なども聞こえてこない。
モニターに映し出されている時間を見ればもう配信まで一分を切っている。
配信開始のボタンを何時でも押せるように準備をしておくのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
《見守り隊今日も集合!》
《見守り隊は今日も静かに待機……》
《いろはちゃん大丈夫だよー!》
《見守り隊がついてるよ!》
コメント欄では【久遠 いろは】の視聴者たちが励ますようなコメントを流していく。
実はもう既に配信開始ボタンは押されており待機画面から『私』と【久遠 いろは】の姿が映し出されている。
忙しなく動いている【久遠 いろは】だったが音声は聞こえてこない。
緊張で声が出ないのかもと思い個別に連絡を送ろうと準備をしているとブツンッ!という大きな音が響く。
「————皆様すみません……!!
ミュートが解除できていませんでした……」
後に続くのは大音量の【久遠 いろは】の声。
嫌な予感がした『私』は既にヘッドホンを外して手に持っていたのだがそれでもかなりの音量が聞こえてきていた。
《あ゙ッ……!!?》
《……耳ないなった……》
《これだから見守り隊は辞められない……》
《ちゃんと調整するんだぞ……》
《鼓膜バッバイした……》
死屍累々とはこのようなことを指すのか。
『私』はコメント欄を見ながらそんなことを思う。
「や、やっちゃった…………こ、これでどうでしょう!?」
何とか通常の設定程度に合わせられたようで適音で【久遠 いろは】の言葉が聞こえ始める。
「……こ、こんばんは……」
ほんの少しだけ深呼吸。
「————今日も歌、聴いてくれますか……?
か、カレイド・スフィア四期生の【久遠 いろは】……です!」
《はいお耳復活〜》
《いろはちゃん可愛いよ!》
《待ってました!!》
《ワイは画面を楽しむんやでぇ……》
《耳重傷ニキいて草なんよ〜》
《今日は一体どんなコラボが……!!》
優しいコメント欄の流れ方。
自分のやらかしにダメージを与えられていた【久遠 いろは】だったがまずはしっかりと挨拶をこなす。
「皆さんこんばんは。
まだ何色にも染まっていない空から来ました。
————カレイド・スフィア四期生【空音 ミラ】です。」
《ミラちゃん!》
《こんばんはー!》
《歌コラボ楽しみ!》
《この組み合わせ待ってた!》
《歌はどんなレベルを見せてくれるんだ……!?》
【久遠 いろは】はコメント欄を見ながら小さく頷く。
「……きょ、今日は、ミラさんと一緒に……歌わせていただきます……」
「二人で数曲歌わせていただく予定ですのでお楽しみに!」
『私』が困っている様子の《久遠 いろは》から言葉を引き継ぐ。
「リクエストにも答える予定なのでなにかあれば連絡をお待ちしております」
《楽しみ!》
《見守り隊待機!》
《観察人も集合!》
《全員お利口さんに並べぇーい!!》
「今日なんですが《私》も久遠さんもスタジオで配信しているんですが……」
『私』はクスリと笑いながら現在の奇妙な様子を実況する。
「なんと我々別々のスタジオにて配信中です」
《これは……》
《いろはちゃんのマイナススキル発動しちゃったかぁ……》
《永遠の人見知り……》
「み、ミラさん!?!?」
「どうしたんですか?久遠さん?」
「そ、そういうのは……内密に進むものでは……??」
「いえ、実況ばりに包み隠さず伝えるべきかと……」
『私』の言葉に声にならない悲鳴をあげている【久遠 いろは】。
始まってすぐではあるものの会話のテンポを見るに本当に対面でなければ幾分かマシになるらしい。
【久遠 いろは】は分かりやすくオロオロしながらも口を開く。
「うぅ……み、見守り隊のみんなにまた恥ずかしいところを……」
《それもいろはちゃんだからヨシ!》
《いつものことだ!》
《歌えば全部ひっくり返るから安心しろ!》
《我々は知っている》
《本番はここから》
「……ありがとうございます」
その一言だけでも先程より声は少しだけ落ち着いていた。
『私』はコメント欄を眺めながら自然と口を開く。
「久遠さんは本当に愛されていますね」
「……え?」
「コメント欄の皆さんが久遠さんを信頼しているのが伝わってきます」
「…………」
褒められ慣れていないのか実際の姿は見えないものの照れているような雰囲気を感じる。
《照れてる》
《かわいい》
《守りたいこの空間……》
《見守り隊今日も仕事してる》
《でも歌が始まったら別人なんだよな》
《それ》
《初見さんはびっくりするぞ》
《ギャップで脳が焼かれる》
《これがまた癖になる……》
喋ることが得意ではない【久遠 いろは】の代わりに、コメント欄が自然と場を温めている。
そんな関係が画面越しにも伝わってきた。
————ギャップ。
コメント欄でも流れていた言葉だが確かにその通りだ。
「わ、私はただ歌っているだけなので……」
どこか自信の無い声音だったがこの様子が更なるギャップを産む。
【真似】をした『私』だからこその思いかもしれないが今まで【真似】してきた人の中で一番のギャップがあったのは確かだ。
「えっと……ミラさん。
ちょっと……1曲先に歌っても……いいですか……??」
「はい、どうぞお先に」
「……ありがとうございます」
消えてしまいそうな声音だった。
「————それでは……」
【久遠 いろは】は静かに息を吸う。
たったそれだけの動作にコメント欄の流れがほんの少しだけ遅くなる。
《きた》
《静かに》
《見守り隊、傾聴》
《始まる》
【久遠 いろは】は目を閉じた。
小さく深呼吸を一つ————肩から力が抜ける。
その姿は、数分前まで椅子の後ろへ隠れていた少女とは思えなかった。
「最初の曲は……
————【○○○○○】です……!」
タイトルコールと共にイントロが静かに流れ始める。
コメント欄から文字が消える。
誰もが知っている。
ここから先だけは————
————【久遠 いろは】は誰よりも輝くことを。
そして————【久遠 いろは】はゆっくりと口を開いた。




