後編
聖女と言われる女が王宮に召し上げられたのは、春の初めだった。
城下町の教会で奇跡を起こしたと噂される娘が、ついに殿下の耳に届いたのだという。侍女たちがそわそわと話していた。
わたしは特に気にしないようにした。
気にしないようにした、が、胸のざわつきは消えなかった。
***
聖女——名をイレーナといった——が王宮に入ってから、空気が変わった。
じわじわと、しかし確実に。
お茶会の女たちの視線が、以前より鋭くなった。廊下ですれ違う貴族たちが、わたしを見て何かを言いかけてやめた。婚約者である王子は、以前にも増してわたしを避けた。
(なにかが、動いている)
わたしには見えなかった。でも何かが動いていることだけは、わかった。
レナードに話そうとして、やめた。証拠がない。感覚だけだった。
***
断罪の場が設けられたのは、五月の晴れた午後だった。
王宮の広間に、見覚えのある顔が並んでいた。王子、貴族たち、そして——イレーナが、白い衣をまとって立っていた。か細い肩が、小刻みに震えていた。
(上手ね)
既視感があった。なぜかはわからなかった。
「エルゼ・フォン・ハルトマン」
王子の声が、広間に響いた。
「そなたは聖女イレーナに対し、呪いを用いて害を与えようとした。その証拠が出ている。認めるか」
広間がしんと静まった。
わたしは答えなかった。
呪いなど、使っていない。でも「使っていない」と言ったところで、証拠がなかった。
「認めないということか」
「……私は」
言葉が、途中で止まった。
イレーナが顔を上げた。濡れた目で、わたしを見た。
「エルゼ様が……怖かったのです」震える声で言った。「ずっと、脅されていて……」
どよめきが広間を走った。
(嘘だ)
わかっていた。でも声が出なかった。
「さらに」王子が続けた。「そなたの魔力に、黒魔術の痕跡が確認された。時を操る類の——」
「それは違う」
声が、広間に響いた。
わたしの声ではなかった。
レナードが、一歩前に出ていた。
「殿下、申し上げます」落ち着いた声だった。「エルゼの魔力回路は、生まれつき損傷しております。魔術師に診せれば、すぐにわかることです。黒魔術の痕跡と見えたものは、壊れた回路が引き起こす干渉です」
広間が、静まった。
「レナード」わたしは小さく言った。
「殿下、魔術師をお呼びください」レナードは続けた。「調べれば、わかります」
王子が、しばらく黙っていた。
***
魔術師の診断は、半刻ほどで出た。
エルゼの魔力回路に、黒魔術の痕跡はない。ただし回路に異常な損傷があり、何らかの強大な魔力の消耗が過去にあったと思われる——という見解だった。
呪いの件も、イレーナの証言を裏付けるものが出てこなかった。
断罪は、保留になった。
広間を出て、廊下を歩きながら、わたしはずっと下を向いていた。レナードが隣を歩いていた。何も言わなかった。
「ありがとう」
わたしは小さく言った。
「別に」
「別に、じゃないわ」
「……うん」
それだけだった。でもレナードの声が、少し違った。何が違うのかはわからなかった。
***
その夜、わたしは荷物をまとめた。
大きな鞄ではなかった。必要なものだけ。この体に本当に必要なものだけ、選んだ。
(わたしがいなければ、丸く収まる)
断罪は保留になった。でもそれは終わりではなかった。イレーナはまだ王宮にいる。王子はわたしを疑っている。レナードが庇ってくれた。だからこそ、レナードまで巻き込んでしまう。
この屋敷を出よう、と思った。
どこへ行くかは、決めていなかった。でもここにいてはいけない気がした。
扉を静かに開けた。廊下は暗かった。一歩、踏み出した。
その時突然、手首を掴まれた。
驚いて振り返ると、レナードがいた。何も言わなかった。ただ、わたしの手首を掴んでいた。
表情が、いつもと違った。困ったような、怒ったような、それでいてどちらでもないような顔だった。
「……どこへ行く」
「迷惑をかけたくないの」
「誰に」
「レナードに」
レナードが、黙った。
手首を離さなかった。
「迷惑じゃない」
「でも——」
「迷惑じゃない」
同じ言葉を、もう一度言った。今度は少し、声が低かった。
わたしは何か言おうとして、言葉が見つからなかった。レナードも何も言わなかった。廊下に、沈黙が広がった。
レナードの手が、まだわたしの手首にあった。
(なんで)
わたしは下を向いた。
なんで、この人は。わたしが言葉にできないことを先に知っていて、わたしが動こうとする前に、もうそこにいてくれるのだろう。
「部屋に戻れ」
レナードが言った。
「……うん」
手首が、離れた。
わたしは踵を返した。扉を閉めて、荷物を床に置いた。寝台に腰を下ろして、手首を見た。
まだ、温かかった。
***
その夜、夢を見た。
夢の中で、わたしは広間に立っていた。見覚えのある広間だった。シャンデリアの光、石造りの床、長い影。
裁かれていた。何度も、何度も。
王子の声。聖女の泣き声。貴族たちのどよめき。それが繰り返した。繰り返して、繰り返して、終わらなかった。
でも夢の中のわたしは、泣いていなかった。ただ、疲れた顔をしていた。何度繰り返しても、同じだった。何を変えても、同じだった。
ふと、気づいた。
これは夢ではない。
記憶だった。
わたしの、記憶だった。
***
目が覚めた時、夜明け前だった。
体が重かった。頭の中に、断片がいくつも浮かんでいた。広間。王子。聖女。繰り返す世界。繰り返すたびに何かが削れていく感覚。最後の最後に、笑みがこぼれた瞬間。
(わたしは)
起き上がって、窓の外を見た。空が、薄く白み始めていた。
わたしは、エルゼだった。
ずっと、エルゼだった。他の誰かの魂が迷い込んだわけではなかった。何度も繰り返すうちに、自分が自分であることがわからなくなっただけだった。
ただ、愛されたかっただけだった。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
王国が欲しかったわけではなかった。王子が欲しかったわけでもなかった。ただ、誰かに「ここにいていい」と言ってほしかっただけだった。誰かに、必要とされていることを確認したかった。それだけのことが、どうしてもできなくて、歪んで、繰り返して、繰り返して——魂が擦り切れるまで、繰り返した。
(馬鹿ね)
涙が出た。
泣く理由がわかった。ずっと泣きたかったのだと、今更わかった。
***
朝になって、レナードが来た。
扉を叩く音がして、開けると、レナードがいた。手に茶の盆を持っていた。
「……侍女の仕事よ」
「侍女に頼むと時間がかかる」
突っ込みどころの多い理由だったが、わたしは黙って部屋に入れた。
テーブルに茶が置かれた。薄紅色の花茶だった。
「泣いたの」
唐突だった。わたしは少し黙った。
「泣いたわ」
「そうか」
レナードは何も言わなかった。追及しなかった。ただそこにいた。
わたしはティーカップを両手で包んだ。
「ねえ、レナード」
「うん」
「わたし、ずっとエルゼだったみたい」
レナードが、わたしを見た。
「そうだよ」
「知ってたの」
「知ってた」
短い返答だった。でもその声に、揺れがなかった。最初から知っていた、というように。
「エルゼとして、ここにいていいの」
レナードが少し間を置いた。
「いなきゃだめだ。俺の隣にいてほしい」
それだけだった。説明も、慰めも、なかった。ただそれだけ言った。
胸のあたりが、じわりと温かくなった。冷たかったものが、溶けていくようだった。
***
午後、父が部屋を訪ねてきた。
珍しいことだった。父がわたしの部屋に来るのは、記憶にある限り初めてだった。
父はしばらく扉の前に立っていた。部屋に入ることも、何かを言うこともなく、ただそこにいた。
「⋯⋯体は、大丈夫か」
やがて、言った。
「はい」
父がまた黙った。何か言いかけて、やめた。
いつもと同じだった。言いかけてやめる人だった。これまでその姿は、私に対しての諦めだと思い込んでいたけれど、でも今日はその先にどんな言葉があるのか知りたくて、待ってみた。急かさなかった。
「……お前の母も、強がりだった。最後まで美しい姿しか見せてくれなかった」
小さな声だった。
わたしは少し驚いて、父を見た。父はわたしを見なかった。ただ窓の外を見ていた。
「お前まで、いなくなるな」
「大丈夫です、お父様」
わたしは言った。
父が、わずかに肩を動かした。返事はなかった。でも、扉を閉めて出ていく前に、一度だけ振り返った。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
***
夕暮れ時、わたしは窓から外を見ていた。
もうループはできない。魔力回路が壊れていると、魔術師が言った。何度も繰り返したせいだ。もう時を巻き戻す力は残っていない。
怖いかと聞かれたら、怖くない、とは言えなかった。
でも。
(それでいい)
繰り返すたびに、何かが削れた。記憶が削れ、自分が削れ、最後には自分が誰かもわからなくなった。それでも繰り返したのは、どこかで正しい世界を信じていたからだった。
愛されることを、諦めきれなかったからだった。
諦めなくてよかった、とわたしは思った。
繰り返したすべての時間が、今日のこの夕暮れに繋がっていた。レナードが手首を掴んだ夜に。父が振り返った午後に。
どれ一つ、無駄ではなかった。
繰り返すことでしか辿り着けない場所だったのかもしれない、とわたしは思った。遠回りで、削れて、馬鹿みたいで、それでも——ここに来た。
夕陽が、窓から差し込んでいた。
わたしはその光の中に、静かに立っていた。
「エルゼ」
扉の向こうから、レナードの声がした。
「お茶が入ったよ」
わたしは少し笑った。
「今行くわ」
窓から離れて、扉へ向かった。
ここにいていい、とわたしは思った。
誰かに言われるまでもなく、自分でそう思えた。
初めて、自分でそう思えた日だった。
ずっと書きたくてたまらなかった設定です。
レナードの正体は?王子は何故避けてるの?エルゼは何をしてしまったの?聖女はなぜエルゼを陥れたの?などなど…いつか伏線をすべて回収した完全版を書ける日まで!




