前編
後編は明日の18時に公開予定です
これが、何度目かはもう数えていなかった。
広間は静まり返っている。シャンデリアの光が、石造りの床に長い影を落としていた。エルゼは両手を前に組んだまま、まっすぐ前を見ていた。
「エルゼ・フォン・ハルトマン」
王子の声が、広間に響いた。エドヴァルト殿下の声は低く、よく通る。裁く者の声だ。
「そなたは聖女マリアに対し、複数の謀略を以て貶めようとした。その罪、認めるか」
エルゼは答えなかった。
答えたところで、結果は変わらない。何度も試した。言葉を尽くした周回も、黙った周回も、泣いた周回も、全部同じだった。
王子の隣に、聖女が立っていた。白い衣をまとい、うつむいている。か細い肩が、小刻みに震えていた。
(上手ね)
感情は、もうほとんど動かなかった。疲弊していた。魂ごと、すり減っていた。
「認めないということか」
「……お好きなように」
どよめきが広間を走った。王子の眉がわずかに動いた。聖女が顔を上げ、濡れた目でエルゼを見た。
エルゼは視線を外さなかった。
(もう終わりにしよう)
胸の奥で、何かが決壊する感覚があった。糸が、ぷつりと切れるような。これ以上は続けられない。魔法を使うたびに何かが削れていくのはわかっていた。最初は痛みがあった。今はもう、痛みさえなかった。
エルゼは静かに目を閉じた。
これで終わると思うと、これまであれほどこだわってきたことが、急に些細なことに思えた。おかしな話だった。笑みがこぼれた。
「さようなら、この忌まわしい世界」
魔法が、発動した。
***
世界が、溶けた。
音が消え、光が滲み、自分の輪郭がどこにあるのかわからなくなった。毎回そうだった。ただ今回は、いつもより時間がかかった。
暗闇の中で、声が聞こえた気がした。
誰かが、泣いていた。
子供の泣き声だった。しゃくりあげる声で、必死に息を継いで、それでも泣くのをやめられない声だった。その声が、どこか遠くて、どこか近かった。
***
わたしが目を覚まして最初に目に入ったのは、天井だった。
白い天井に、薄桃色の天蓋が垂れている。柔らかな朝の光が、レースのカーテン越しに差し込んでいた。
(どこ、ここ)
起き上がろうとした時、扉が静かに開いた。
「エルゼ様、お目覚めでいらっしゃいますか」
侍女だった。栗色の髪をきっちりまとめた、十五、六歳ほどの少女。
エルゼ、という名前は、聞き慣れた感じがした。ただ、自分の名前かと聞かれると、少し違う気がした。
「お顔色がよろしくないようで……昨夜、急に倒れられたとのことで、皆、心配しておりました」
「そう」
侍女がたじろいだ雰囲気が伝わった。短く答えすぎただろうか。いや、いつもどおり聞かれたことに答えただけだ。知らないはずなのに、普段のエルゼの様子が手に取るようにわかった。
着替えを手伝ってもらいながら、わたしは鏡を見た。金色の髪。青い目。丸い頬に、まだ幼さの残る顔立ち。
(見慣れない顔だわ)
そう思って、すぐに気づいた。見慣れない、というのは正確ではない。この顔には見覚えがある。エルゼ・フォン・ハルトマン。この屋敷のことも、父のことも、亡くなった母のことも、断片的に知っている。
でも「自分がエルゼだ」という感覚が、どこにもなかった。
まるで、誰かの体を借りているようだった。
(まあ、いいわ。とりあえず生きていかなければ)
開き直るのは早かった。悩んでいても仕方がない。
***
情報を集めようと、廊下に出た。
角の向こうから、侍女たちの声が聞こえてきた。
「今日、遠縁の方がいらっしゃるそうよ」
「存じてます。レナード様とおっしゃる方でしょう。旦那様の後継者候補だとか」
「お嬢様は後継者に選ばれないのね、やはり」
「しっ。聞こえるわよ」
声が、ぴたりと止まった。
わたしは足を止めなかった。聞こえていた、とわざわざ教える必要もない。
(後継者候補のレナード、彼が来るのが今日だったのね)
それだけわかれば十分だった。
***
玄関ホールを、階段の手すりの隙間から覗いた。
少年が立っていた。黒に近い茶色の髪。すらりとした体。荷物は小さな鞄一つだった。
父が「よく来た」と言った。それだけだった。温かくも冷たくもない、事務的な声だった。少年は「はい」と答えた。背筋が真っ直ぐだった。
(荷物が少ないわりに、顔色がいいわね)
わたしはひとしきり観察してから、そっと階段を降りた。
「こんにちは」
少年がわたしを見た。父も振り返った。
「エルゼ、部屋にいなさい」と父が言った。
「ご挨拶くらいしてもいいでしょう」わたしは言った。「はじめまして。私はエルゼよ。あなたがレナードね、よろしく」
レナードが少し目を丸くした。それから、「よろしく」と言った。声が思ったより低くて、わたしは少し驚いた。
父は何か言いかけて、やめた。
(なんだかやな感じ。でも、違和感がないということは、エルゼにとって彼の態度はいつも通りだということね)
***
その夜の夕食は、三人だった。
父の右隣にレナード、左隣にわたし。向かい合う形になった。レナードはほとんど喋らなかった。父も喋らなかった。
静かな食卓だった。
(ずいぶん静かなものね)
デザートのタルトが運ばれてきた時、わたしはレナードを見た。レナードも、ちょうどわたしを見ていた。目が合った。
「タルト、好き?」
レナードが少し目を丸くした。
「……ここに来るまでは、食べたことがないよ」
「そうなの? おいしいわよ! いちごのが一番おいしい」
「そうなんだ」
「どこから来たの」
「北の方だよ」
「お父さんとお母さんは?」
レナードが黙った。一拍置いて、「いないよ」と言った。
わたしも黙った。
(私もお母様がいない)
「じゃあ、ここが家だね」
レナードがまたわたしを見た。さっきとは少し違う顔をしていた。何か言いたそうで、でも言葉が見つからないような顔だった。
「……そう、言ってもらえると嬉しいな」
タルトを一口食べて、レナードは小さく言った。
「おいしいね」
わたしはそれが嬉しくて、にっこりした。
***
翌日から、レナードの部屋に家庭教師の先生が来るようになった。
廊下を歩いていると、部屋から声が聞こえてきた。わたしはそっと扉の前で立ち止まった。先生の声と、レナードの声が交互に続いている。
(おかしいわ)
レナードが来たのは昨日だ。この屋敷の教育方針も、使う教材も、まだ何も知らないはずだった。なのに先生の問いに、まるで以前から知っていたように答えている。
(北の田舎からきたのではなかったの?)
不思議だったが、深く考えるより先に興味が勝った。そっと扉を開ける。レナードがこちらを一瞥して、小さく顎を引いた。おいで、ということらしかった。
わたしは部屋の隅の椅子に座って、授業の続きを聞いた。やはりレナードはよどみなく答えた。間違えることがほとんどなかった。
(頭がいいというより、知っているのね。どこで覚えたのかしら)
授業が終わって、先生が出ていった。レナードが窓の外に目をやりながら、静かに息をついた。
「ねえ」わたしは言った。「さっきの授業、全部知ってたでしょう」
レナードがわたしを見た。
「……なんで」
「全然迷わなかったもの。初めて聞く話って、もう少し考えるじゃない」
レナードが黙った。少しの間があって、「そんなことに気づくエルゼは賢いね」と言った。否定はしなかった。
(ごまかされないわ)
「どこで覚えたの」
「……生家で、少し」
生家で、少し。その「少し」の量ではなかったが、わたしはそれ以上聞かなかった。今は答えてもらえない気がした。
「じゃあ私にも教えて」
「……は?」
「レナードが知ってることを教えてほしいの。先生の授業より絶対おもしろいわ」
レナードがぱちりと瞬きした。それから、小さく笑った。
「じゃあ、まずは語学かな」
「うん!」
「難しいかもしれないよ」
「いいわ。私、覚えるの早いもの」
(根拠はないけれど)
レナードは教えるのが上手だった。難しい言葉をそのまま使わず、わたしがわかるように言い直してくれた。間違えても怒らなかった。「もう一回やってみようか」とだけ言って、「こっちから考えると簡単だよ」と別の角度から説明してくれた。
一時間ほどで、わたしの頭は限界になった。
「もうだめ! 頭が爆発しそう」
「最初はそんなものだよ」レナードは本を棚に戻しながら言った。「でも今日だけで三つ覚えたね。早いほうだと思うよ」
「本当に?」
「うん。明日もやるかい」
「やる! 絶対やる」
レナードが、ほんの少し、口の端を上げた。笑った、というほどでもない。でも確かに、何かが柔らかくなった顔だった。
(この人は、笑うとこういう顔をするのね)
***
レナードが来て三ヶ月が経った頃から、少し年を重ねた女たちが次々と訪問するようになった。来客がある日には、廊下を行き交う侍女たちがよそよそしく、やけに愛想よかった。未来の奥様付きの侍女の座を狙っているようだった。
(みっともないったらないわ)
わたしは冷めた目でそれを眺めた。後妻の座を狙って集まっている女たち。そのそばでそわそわしている侍女たち。父から目を向けられていないわたしには、誰も目線を向けなかった。
そんな透明人間だったはずのわたしに、いつからか女たちが嫌がらせをはじめた。
きっかけは、玄関ホールの肖像画だったと、後から侍女の話し声で知った。
エルゼの母、アンナ・フォン・ハルトマンの肖像画。金色の髪に青い目の、わたしによく似た女性の絵が、玄関正面の壁に飾られていた。わたしがお願いして飾ってもらったものだ。お母様の顔を忘れたくなかった。ただそれだけの理由だった。
でも女たちには、別の意味に見えたらしい。
「ヴィルヘルム様は、まだ奥様を忘れられないのかしら」
お茶会の帰り際、廊下で声が聞こえた。
「あの子がお母様のことを忘れられないからと、ヴィルヘルム様も後ろ髪を引かれているんでしょうよ」
「あの娘も変なところで子供っぽいわねえ」
笑い声がして、遠ざかった。
(なるほど。そう見えるのね)
胸のあたりに、じわりと重いものが広がった。反論できる相手でも場でもなかった。
***
女たちの嫌がらせは、じわじわと続いた。
お茶会のたびに、わたしの前でだけ砂糖が切れた。わたしの分のスコーンが、なぜか床に落ちた。わたしには誰も目線を向けなかった。
わたしは最初、我慢した。次に、言い返した。
「まあ、怖い子」と女たちは笑った。その笑い方が、わたしは一番嫌いだった。
(大人のくせに子供に嫌がらせをして。私が本当に九歳の子供だったら、耐えられなかったと思うわ)
ある日、レナードがそれを見ていた。
お茶会の後、廊下で女たちに取り囲まれていたわたしの横を、レナードが通りかかった。女たちはレナードに気づいて、さっと散った。
「大丈夫?」
「大丈夫よ! でも」わたしは散っていく背中を見ながら言った。「ああいう大人にはなりたくないと思ったわ」
レナードが少し目を丸くして、それから小さく笑った。
「そうだね。ならないようにしようか、二人で」
「約束ね」
「約束だよ」
レナードはわたしと並んで廊下を歩いた。部屋の前まで来て、「また明日」と言った。
「うん、またね」
扉を閉めてから、わたしはその場に立ったまま、胸に手を当てた。
さっき、二人で、と言った。たったその一言が、不思議なくらい温かかった。
(この体の持ち主が戻ってくることがあった時、せめて少しでも温かい場所で過ごせるように)
わたしにできることを、しておこうと思った。
***
勉強は、毎日続いた。
特に約束をしたわけではなかった。ただ翌日もレナードの部屋に行ったら受け入れられて、その次の日も、またその次の日も同じだった。いつの間にか、午後の一時間はそういうものになっていた。
語学が終わると、歴史になった。歴史が終わると、今度はわたしが「これはどういう意味」と聞き始めて、それがまた一時間になった。
「君、本当に覚えが早いな」
ある日、レナードが言った。珍しく、少し驚いた顔をしていた。
「でしょう。言ったじゃない」
「言ってたね」
「信じてなかったでしょう」
「……少しは信じてたよ」
一見意地悪な返答だったが、レナードなりの褒め言葉らしかった。わたしはそれで十分だと思った。
***
ある秋の午後、廊下でレナードにばったり会った。
お互い特に用があったわけではない。レナードは何かの書類を持っていて、わたしは庭から戻るところだった。
「そういえば」レナードが言った。
「なに」
「珍しい茶葉が届いたよ。花が入ってるやつ」
わたしは少し首を傾けた。
「それをなんで私に言うの」
レナードが少し間を置いた。
「……さあ」
(さあ、って)
突っ込みどころの多い一言だったが、わたしは「飲む」と言った。理由は特になかった。ただ断る理由もなかった。
レナードの部屋は、わたしの部屋より本が多かった。棚に収まりきらない分が、床に積まれていた。茶の支度は侍女がしてくれて、テーブルに花びらの浮いた薄紅色の茶が置かれた。
「きれい」
「だろう。北の方では祭りの時に飲むんだって」
「レナードの故郷?」
「いや、商人から聞いた話だよ」
わたしは茶碗を両手で包んで、湯気を眺めた。ほんのり甘い香りがした。
「レナードの故郷ってどんなとこなの」
「寒い。雪が多い」
「それだけ?」
「……森が近かった。朝、鹿が出た」
「鹿! 見たことないわ」
「ここでは、そうだね。少し珍しいかも」
レナードが少し遠い目をした。懐かしんでいるのか、そうでもないのか、わからない顔だった。わたしはそれ以上聞かなかった。
お茶は、温かく、おいしかった。
***
それから、時々お茶を飲むようになった。
決まった日があるわけではない。廊下でばったり会った時や、勉強が早く終わった時や、特に理由のない時。レナードが「お茶でもどうかな」と言うか、わたしが部屋の扉を叩くか、どちらかだった。
話す内容は、たいしたことではなかった。
庭の花が咲いた。厨房のパンが今日はよく焼けていた。廊下の絵画の人物がどこか父に似ている。そういうことを、短く話した。
レナードはあまり笑わなかった。でもわたしが妙なことを言うと、口の端がわずかに上がった。わたしにはそれが少し、楽しく思えた。
***
王宮への挨拶は、十月に入ってからだった。
婚約者との顔合わせを兼ねた、形式的なものだとのことだった。王子、エドヴァルト殿下。その名前も、自分の婚約者だということも、知識としては持っていた。
王宮の広間は広く、天井が高かった。わたしは父とレナードの半歩後ろを歩きながら、柱の装飾を数えた。十二本。
広間の奥から、王子が現れた。整った顔をしていた。明るい金の髪、青い目、貴族の子弟らしい立ち振る舞い。わたしと目が合った瞬間——明らかに、視線を逸らした。
一瞬だった。すぐに表情を整えて、形式的な挨拶をした。声も、言葉も、何も問題なかった。
ただ、目が合わなかった。
(この人は、私を避けている)
理由はわからなかった。ただそれは確かだった。
帰りの馬車の中で、わたしはずっと窓の外を見ていた。父とレナードは向かいの席で、何も言わなかった。
「一つ聞いてもいいですか」
「ああ」
「殿下は、私のことが嫌いなのでしょうか」
少し間があった。
「さあな」
「そうですか」
「気になるか」
「少し」
(エルゼが、何かしたのかしら)
答えは、まだなかった。
***
十一月のお茶会で、女たちが噂をしていた。
城下町の大きな教会に、不思議な力を持つ娘が来たのだという。
「病人を癒したそうよ。手をかざすだけで」
「まあ。伝説の聖女様みたいね」
「地方の教会ではずいぶん前から知られていたらしいわ。ようやくこちらに来られたのね」
「殿下のお耳に入れば、王宮に召し上げられるんじゃないかしら」
女たちはそれだけ言って、別の話題に移った。
わたしはティーカップを置いて、窓の外を見た。
(聖女、か)
なぜか、胸のあたりがざわついた。気にする理由など、どこにもなかった。
なかったはずなのに。
***
その夜、書斎の前を通ると、扉が細く開いていた。
父の声が聞こえた。
「レナード、お前の能力は期待以上だ」
いつもの事務的な声とは、少し違った。低く、静かで、確かな重さがあった。
レナードが何と答えたかは、聞こえなかった。
わたしはそのまま、自分の部屋へ戻った。扉を閉めて、寝台に腰を下ろした。
羨ましい、という言葉が頭に浮かんで、わたしはそれを打ち消した。打ち消して、また浮かんだ。
うまく眠れなかった。
***
翌日、廊下でレナードに会った。
わたしの顔を見て、レナードが少し眉を動かした。
「お茶でもどうかな」
理由は聞かなかった。わたしも聞かなかった。ただ「うん」と言って、部屋についていった。
茶が運ばれてきて、しばらく黙って飲んだ。レナードも何も言わなかった。
沈黙が、苦ではなかった。
「ねえ」わたしはやがて言った。「昨日、お父様に何を言われたの」
レナードが少し目を細めた。
「聞こえてた?」
「少しだけ」
レナードが茶碗を置いた。
「よくやっている、と言われたよ」
「……そう」
「羨ましい?」
直球だった。わたしは少し黙った。
「羨ましくない、とは言えないわ」
「そう」レナードは窓の外を見た。「⋯俺は、駒なんだよ」
「どういうこと」
「生家では三男だったから、いつか使い道が決まるまでの置き物みたいな扱いだった。」
さらりと言った。事務的な声だった。
わたしはティーカップを持ったまま、レナードを見た。
「……嫌だった?」
「幼い頃は、そうだったかな。でも、ここでエルゼと家族になれたから、あの頃のことは気にならなくなったよ」レナードはそれだけ言って、また黙った。
窓の外で、風が木の枝を揺らした。
(なんでこの人は)
わたしはレナードを直視できずに、自分の手元の紅茶の水面を見つめた。なんでこの人は、わたしが言葉にできないことを、先に形にできるのだろう。羨ましいか、と聞いた。駒だった、と言った。わたしが胸の奥に押し込めていたものを、さらりと取り出して、目の前に置いた。
うまく眠れなかった夜のことを、誰かに話したわけではなかった。それなのに。
「お茶、冷めるよ」
レナードが言った。
「……うん」
わたしは茶碗を口に運んだ。少し、ぬるくなっていた。




