第九話 からっぽの正しさ
「……引き渡すって、本気で言ってるの?」
低く、地を這うような響きだった。鼓膜に残るその震えが、じわりと脳の奥に沈んでいく。
これは助けるための話だ。帝国軍には医療がある。皇帝が捕まえろと言っているなら、死なせるつもりはないはずだ。このまま何もしなければ確実に死ぬ。だったら、まだ可能性がある方に賭けるしかない。それだけのことだろ。
「正気なの? この人は、あなたを助けたのよ。それを――帝国に渡すなんて」
エリシアの瞳には、言葉にできないほどの軽蔑と、信じられないものを見るような絶望が混濁している。その視線に射抜かれ、優斗は喉の奥が焼け付くような熱を帯びるのを感じた。
言い返せる。言い返せるはずだ。俺はソフィアを助けようとしている。助ける手段がないから、次善の手を選んでいる。見捨てるのとは違う。
「じゃあ、他にどうすればいい」
吐き出された声は、自分でも戦慄を覚えるほどに乾ききっていた。もっとマシな方法があるなら言えよ。誰も傷つかない、きれいな答えが転がってるなら——俺だって今すぐそっちに縋ってやるから。
「……それはッ。――でも……!」
やはり、続く言葉はなかった。勢いよく開かれたエリシアの唇が、行き場を失って微かに震える。その刹那の沈黙こそが、過酷な現実の証明だった。エリシアにも、そして自分にも、この絶望を塗り替えるための第三の道など、最初から用意されてはいないのだ。
「でもじゃねえよ。現実見ろ」
突き放すように吐き捨てた。
「じゃあ、このままここで回復を待つ? さっき見ただろ。治ってないんだよ。俺たちにソフィアを治す手段はない。時間もない。だったら――まだ可能性がある方に賭けるしかないだろ。ソフィアを助けたいなら、それしかない」
「……それでも! それでも、私は認めない!」
弾けるような絶叫が、狭い空間に反響した。
「帝国に引き渡して、それでもしソフィアさんに何かあったらどうするの!? そんなの、見捨てるのと一緒でしょ……!」
違う。見捨てるのとは違う。俺はソフィアを助けようとしている。帝国に渡せば生きられるかもしれない。このままなら死ぬ。だったら渡す方が正しい。間違っていない。
「仮定の話だろ。このままなら確実に死ぬ。帝国なら可能性がある。どっちに賭けるかの話だ」
「可能性って言葉で誤魔化さないで。ソフィアさんを見てよ! あなたを助けた人よ。その人を、信用できるかも分からない人間に差し出すことの何が正しいの!?」
間違っていない。助けるための判断だ。これは——。
「助けた人を売るのは、どう言い繕っても裏切りじゃない。あなただって、本当は分かってるでしょ」
「――うるせぇよ!」
気づいた時には、怒鳴っていた。
「裏切りでも何でもいい! でもソフィアを助けるには、これしかねぇんだよ! 俺が何も考えずに引き渡すなんて言ったと思うか!? 冗談じゃねぇ……考えたさ、この子に助けられたから! 考えて、考えて、考えて――それでも、これしかなかったんだよ……!」
「それでも……そんなの、納得できない……」
エリシアは絞り出すように言葉を漏らす。
なんで。なんで分からない。これしかないのに。これが一番マシなのに。
「なんでわかんねぇんだよ!」
喉が詰まる。息がうまく入らない。それでも、無理やり言葉を押し出した。
「時間がないんだよ! お前さえ納得してくれたら、今すぐ引き渡して、助かるかもしれない。それだけの話だろ!」
エリシアの肩が、びくりと跳ねた。
分かってくれ。頼むから分かってくれ。そういう話じゃないんだ。このままじゃ終わる。それだけの話なんだ。
「お前だって助けられたんだから分かるだろ。助けられた人間なりに、命を救おうとしてるだけなんだよ。それとも、このまま見殺しにするのか!? お前はそれでいいのか!!」
「……っ、それは――」
エリシアの唇が震える。言葉が出てこない。それでも、引き下がる気配がない。
なんでこいつはまだ——。
「正しいとか正しくないとか、そんなの今はどうでもいい! このままじゃ死ぬんだよ! 死んでからじゃ遅いんだよ!」
声が、震えた。自分でも気づかなかった。
「俺は……ただ、死んでほしくなかっただけだ。それだけなのに、なんで、なんでそんなに――」
言葉が、途切れた。喉の奥が熱い。続きが出てこない。吐き出した瞬間、胸の中がからっぽになった気がした。楽にはならなかった。ただ、静かだった。さっきまであれだけうるさかった何かが、どこかへ消えていた。
荒い呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。エリシアは何も言わなかった。反論も、怒りも返ってこない。
どれくらい、そうしていただろうか。
エリシアの眉が、かすかに寄った。怒りではない。責めているわけでもない。唇がわずかに震えている。
「……じゃあ、なんでソフィアさんのことさっきから一度も見てないの」
無意識に、腕の力が強まる。抱えているはずの身体が、やけに軽く感じた。その軽さが、ぞっとするほど現実味を帯びて、指先に力が入る。
「……助けたいなら」
エリシアの声が、わずかに掠れた。唇が震えている。泣いてはいない。でも、そのぎりぎりのところで踏みとどまっている。
「ちゃんと、見てあげてよ。ずっと私を見てる場合じゃないでしょ」
息が、止まった。視線が、自然に落ちた。腕の中に、さっきからずっとそこにいた少女がいる。目を閉じている。睫毛が、かすかに震えている。浅い呼吸が、不規則に続いている。
……いつから、見ていなかった。
不意に、紅い瞳が浮かんだ。暗い岩肌。死にかけていた自分を、引きずって助けた少女。損得なんか一切なしに。それだけのことを、当たり前のようにやってのけた。
背中を覚えている。どこにあるかも分からない木へ向かって、迷いなく歩いていた背中。倒れた兵士に駆け寄った足を。捕まえると言われても支えていた手を。
そういう生き方しかできない人間が、今、腕の中で浅い呼吸を繰り返している。
助けたい。
喉の奥が、じわりと灼ける。
……俺は、何をしていた。
「……俺は」
掠れた声だった。エリシアから目を逸らして、腕の中のソフィアを見る。睫毛が、かすかに震えている。
「正しいって思わないと、怖かったんだと思う。だから」
続きが、出てこない。
「……ずっとお前に怒鳴ってた」
エリシアは何も言わなかった。
「助けたいのか、正しくいたいのか、怖いのか、……全部混ざってて、よく分からない。でも」
「これだけは分かる。死んでほしくないのは、本当だ」
沈黙が落ちた。エリシアは何も言わなかった。ただ、腕の中のソフィアを見ていた。優斗も、もう何も言えなかった。ソフィアの浅い呼吸だけが、二人の間で不規則に続いている。
やがて、エリシアが小さく息を吐いた。
「……私も、死んでほしくない」
独り言みたいな声だった。優斗に言っているのか、自分に言っているのか、分からないような。
「……案内、する」
それだけ言って、エリシアは立ち上がった。
「……こっち」
冷たい背中を追いながら、優斗は腕の中に感じる体温に、指先を強く食い込ませた。正しいかどうかなんて、もう分からなかった。それでも——この体温だけは、消えてほしくなかった。




