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第八話 消去法の救済

タイトルとあらすじを変更しました。

以前お読みいただいていた方には、検索で見つけにくくなってしまったかもしれません。申し訳ありません。

内容に変更はありませんので、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。

 ソフィアは他人の傷を自分に引き受けている。なぜそんな不条理が許されるのか。なぜ彼女がそれを選んだのか。そんなものは分からないし、分かろうとしたところで、今この瞬間には何の意味も持たない。だが、それでも確かなことが一つだけあった。目の前に転がっているこの現実だけは、どう取り繕っても否定できないということだ。


 自分は救われた。エリシアも、死の淵から引き戻された。そしてその奇跡の裏側で、支払われるべき代償を独りで受け止めているのが、目の前で浅い呼吸を繰り返すこの少女だ。

 

「どういうこと……? 服も切れてないし、下着だって無事なのに、こんな切り傷。一体どうして……」

 

 エリシアの声は、薄氷を踏むように震えていた。困惑と恐怖と、理解の追いつかない苛立ちが混ざり合った、聞いているこちらの神経まで逆撫でするような不安定さ。無理もない。目の前で起きている現象は、あまりにも理屈から外れている。

 

「……たぶん、傷を移してる」

 

 自分でも驚くほど、声は静かだった。まるで最初から答えを知っていたかのように、すとんと落ちる声音だった。

 

「足の傷は俺の。胸の傷は……お前のだ」

 

「――っ」

 

 息を呑む音が、やけに大きく響いた。否定はない。反論もない。ただ、言葉を失っている。それが何より雄弁に、この仮説を肯定していた。視線を落とすと、血に濡れたソフィアの身体が視界に映る。本来そこにあるべきではないはずの傷が、まるで当然のように刻まれている。


 ――こいつが、全部背負った。


 その事実が、遅れてじわじわと胸の奥に広がっていく。鈍い痛みみたいに、逃げ場のない圧迫感みたいに。呼吸が、わずかに浅くなる。


 じゃあ俺は、どうする?


「エリシア」

 

 名前を呼ぶ。自分の声が、わずかに掠れているのが分かった。

 

「聖女の回復力ってのは……どれくらい信用できる」

 

「……えっ」

 

 問いの意味を測りかねたように、エリシアが顔を上げる。

 

「わからない、けど……。私が知ってる聖女は、こんな傷ならすぐに治ってた。だから……」

 

 言葉が詰まる。続きは、言いたくないのだろう。けれど、言わなくても分かる。

 

「……こんなに治らないソフィアさんは、おかしいと思う」

 

 静かな断定だった。その一言が、思考に重く沈む。


 ――このままじゃ、死ぬ。

 

 知識もない。手段もない。エリシアの魔法も決定打にならない。ある選択肢が、頭の中に浮かぶ。が、浮かんだ瞬間、反射的に打ち消した。


 必死に頭を巡らせる。どうにか、ソフィアを救う方法がないのかと。もっとマシで、もっと正しいやり方がどこかに転がっていないかと、縋るみたいに探す。


 聖なる木。ソフィアが言っていた目的地。そこに辿り着ければ、何かが変わるかもしれない。女神の導きだとか、そんな都合のいい奇跡が、本当にあるのなら――。


 だが、その発想はすぐに崩れた。ここからどれだけ距離があるのかも分からない。道もない森を、傷を負った人間を抱えて進む。しかもその傷は、今この瞬間にも命を削っている深さだ。辿り着く前に終わる。考えるまでもなく、現実的じゃない。


 なら、どうする。抱えて逃げるか。どこへ? どこに行けば助かる? 安全な場所のあてもないまま、ただ森の中を彷徨って――その果てに何がある。答えなんて、出るはずもない。


 どの選択肢も、少し掘り下げればすぐに行き止まりにぶつかる。救える可能性なんて、どこにも見当たらない。あるのは、どれだけマシに死なせるか、みたいな選択肢ばかりだ。


 ――ふざけるな。


 不意に目の前の身体が、わずかに動いた。

 

「……だい、じょうぶ……です……」

 

 か細い声が、割り込んできた。視線を向けると、ソフィアがかすかに唇を動かしていた。焦点の合わない瞳。それでも、こちらを見ようとしている。

 

「……ユウトさん。……行って……ください」

 

 優斗は、反射的に口を開いた。だが言葉が出てこない。

 

「……わたしのことは、置いていって……いいんです」

 

 一拍。呼吸が乱れる。それでも彼女の口は、止まろうとしない。

 

「……あなたが、わたしに……かまう理由は、ないんですから」

 

「――ふざけんなよ」

 

 思わず、低く吐き捨てていた。喉が、かすかに灼ける。

 

 何が置いていっていいだ。この状態で、まだ他人の心配をしているのか。

 

 ふと、森を歩いていた時間が脳裏をよぎる。どこにあるかも分からない木を探して、それでも迷いなく歩いていたあの背中。倒れた兵士を見て、損得なんか一切なしに駆け出したあの足。助けた相手に捕まえると言われても、当たり前のように支えていたあの手。

 

 そんな人間が、今、死にかけている。言葉を絞り出すたびに血を失っているくせに、それでも他人を気にかけようとしているのか。そういう生き方しかできないのか、こいつは。視界の端に、自分の裂けたズボンが映る。左足。そこにあったはずの傷は、もうどこにもない。

 

 こいつが、全部持っていった。自分の分も、エリシアの分も。なのに、それでもなお、同じことを繰り返そうとしている。このまま放っておけば、きっとまた誰かを庇って、そのたびに傷を背負って――。

 

 そして、いつか。その先の想像を、無理やり断ち切る。そんな未来、認められるわけがない。


 先ほど打ち消した考えが、ずるりと這い戻ってくる。

 

 嫌だ。それだけは、よくない選択のはずだ……。


 それが最初に浮かんだ感情だった。ソフィアがどうなるか分からないまま決める。それを俺が、勝手にだ。俺は、人の人生を決めて良いような人間じゃないのに。

 

 でも、他にない。そこで思考が、ぐるりと一周した。同じ場所に戻ってくる。出口がない。どこへ行っても壁だ。嫌だという気持ちと、それしかないという現実が、ぐるぐると喉の奥で絡まって、飲み込めない。飲み込めないまま、時間だけが削れていく。

 

 ……違う。これは、見捨てる話じゃない。このまま何もしなければ確実に死ぬ。だったら——まだ可能性がある方に賭けるのが正しい。

 

 俺はソフィアを助けようとしている。

 そうだ。それだけの話だ。助ける手段がないから、次善の手を選んでいる。間違っていない。俺は助けようとしている。だから——これは正しい。

 

 そうだ。これは、助けるための判断だ。だから――。

 

「エリシア」

 

 絞り出すように名前を呼ぶ。

 

「お前は……ソフィアを殺すために来たのか?」

 

 その瞬間、エリシアの肩がびくりと跳ねた。

 

「……違う。殺すな、って言われてる。捕まえろって……皇帝陛下の勅命だって」


「……じゃあ、安全なんだな」

 

「え……?」

 

「帝国軍に引き渡せば、少なくとも死なないんだな」

 

「それは……」

 

 エリシアが言葉を濁す。視線がわずかに逸れる。

 

「殺されは、しないと思う。でも……」

 

「でも、なんだよ」


「……私は、信頼されてないから。……間違ってるかも」


 彼女の内に潜む何かが垣間見えた気がした。信頼されてない。帝国軍に籍を置いて、それでも信頼されていない人間が、皇帝の勅命だと言っている。


 ……どこまで信じていいんだ、これ。

 

 でも、と思う。でも他に何がある。聖なる木は遠い。逃げ場もない。エリシアが嘘をつかれている可能性と、このままソフィアが死ぬ確実性を、頭の中で並べてみる。並べた瞬間、答えは出ていた。

 

 喉の奥が、ひりつく。それでも、間違っていない。帝国に渡せば生きられるかもしれない。このままなら死ぬ。だったら、渡す方が正しい。俺はソフィアを助けようとしている。ただ、それだけだ。

 

 だから――。

 

「……俺はソフィアを帝国に引き渡す」


 低く呟き、優斗はソフィアの身体を抱き上げた。軽い。腕の中に収まった重さは、壊れ物を持ち上げた時のそれだった。でも、腕に触れる体温は確かにある。布越しに伝わってくる、微かな熱。それだけが、まだ生きているという証拠だった。

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