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逃げ癖高校生は、誰も見捨てられない聖女を救いたい  作者: きわみん
第一章 『始まりの森』

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第八話 慈愛の代償

 ソフィアの額に、脂汗が滲んでいた。膝をついて、かろうじて立っているだけの姿勢だ。


 森の冷気の中で、その一点だけが異様に熱を帯びている。


 エリシアはその異変に気づくや否や、ほとんど反射のように彼女の身体へと手を伸ばし、その華奢な肩を抱き留めた。


 だが、腕の中でずるりと重みが落ちていく。


 小さく、けれど確かに震えた膝がかくりと折れ、次の瞬間にはなんの抵抗もなく、その場に崩れ落ちた。


「おい! ソフィア、大丈夫か!?」


 優斗は咄嗟に声を張り上げながら駆け寄った。


 だが、返事はない。


 ぐったりと力の抜けた身体は、まるで最初からそこに意識などなかったかのように静まり返っている。


 そのときだった。


 視界の端に、わずかに色の違う滲みが映り込む。


 ソフィアの部屋着、その左肩のあたりが、じわりと暗く濡れていた。


 血。


 一瞬、優斗の思考が追いつかなかった。


 そんなはずがない、と反射的に否定が先に立つ。


 見落とすはずがない。


 ついさっきまで、彼女に怪我をしている様子など一切なかったはずだ。


 あれだけ近くにいて、あれだけ会話をしていたのだから。


 焦燥に背中を押されるように、優斗は躊躇うことなくソフィアの肩口へ手を伸ばした。白い服の襟元を掴み、左肩が見えるところまで強引にずらす。


 そして、露わになった光景に言葉を失った。


 左肩から二の腕にかけて。


 その白い肌を無残に切り裂くように、深く、大きな傷が走っていた。


「なんだよ……、これ」


 思わず零れた声は、ひどく掠れていた。


 傷口からはどくどくと血が溢れ出し、止まる気配すらない。


 こんなものが、軽傷であるはずがない。


 素人目に見ても分かる。


 これは歩ける状態の傷ではないし、ましてや平然としていられるようなものでもない。


 なのに、つい先ほどまで彼女は何事もなかったかのように歩いていた。


 それが何よりも、優斗の理解を拒んでいた。


「嘘でしょ……。聖女なのに、こんな傷……」


 隣でエリシアが、信じられないものを見るように目を見開いていた。


 その声音には、単なる驚きだけではなく、あり得ないものを見てしまったという色が濃く滲んでいる。


 優斗は、震える手で自分のTシャツの右腕の裾を掴んだ。


 力任せに引き裂こうとして、一度目は滑り、二度目でようやく布が悲鳴を上げる。


 それを即席の包帯代わりに、ソフィアの左肩へ押し当てた。


 巻きつけるというより、溢れ出す血を無理やり塞ぐだけの拙い処置だった。けれど、何もしないで見ていることだけはできなかった。


 エリシアは迷いなくソフィアの左肩へと膝をつき、その傷口に両手をかざした。


 指先から淡く滲み出すように現れたのは、柔らかな緑色の光だった。


 弱々しく揺らめきながらも、確かに傷へと染み込んでいくその光景は、この世界における治癒という現象を目の当たりにしているのだと実感させるには十分だった。


 だが、その光を見つめた瞬間、優斗の胸の奥に小さな棘のような違和感が引っかかった。


 理由は分からない。


 けれど、見過ごしてはいけない何かが、そこにある気がしてならない。


「なぁ、エリシア。それ、今使ってるのって……治癒魔法、だよな?」


 確かめるように問いかけると、エリシアは視線を向けることもなく、小さく息を吐くように応じた。


「……そうよ」


 それ以上の言葉は続かない、短い肯定。


 今は会話よりも、目の前の傷をどうにかすることに意識を集中しているのだろう。


 だが、その一言で十分だった。


 優斗は改めて、目の前の光景を凝視する。


 緑の光に包まれた傷口から流れ出る血は、ほんのわずかにその勢いを弱めたように見えた。


 だが、それだけだ。


 ぱっくりと開いた肉は一向に閉じる気配を見せず、傷そのものが癒えている様子はどこにもない。


 あの時、ソフィアが使っていたのは、本当に治癒魔法だったのだろうか。


 そんな疑念が、胸の奥で静かに燻り始める。


 もし違うのだとしたら、彼女は一体、あの瞬間に何をしていたというのか。


 自分の目で確かに見たはずの光景が、今になって形を変え、別の意味を帯び始めているような、不気味な違和感が拭えない。


 ふと、意識とは無関係に視線が落ちた先に、優斗のTシャツがあった。


 左肩の布が、不自然に裂けている。


 その周囲は乾いた血のように赤黒く染まり、布地だけが鋭く抉られたように口を開けていた。転倒や擦過でできた破れ方ではない。何か硬く、鋭いものに引き裂かれた跡だった。


 いつ、こんなものが。


 疑問が浮かんだ瞬間、答えはすぐそこにあった。


 魔獣との戦い。


 枝を突き立てられた肩を振り払うように、黒い前脚が滅茶苦茶に振るわれた。あの時、視界が真っ赤に染まった。


 間違いない。


 これは、あの時についたものだ。


 次に脳裏に浮かび上がったのは、あの白銀の光だった。


 柔らかく、それでいてどこか現実離れした輝き。


 エリシアが今まさに使っている淡い緑の光とは、似ても似つかない質のもの。


 あれをただの治癒魔法だと片付けるには、あまりにも異質で、あまりにも完成されすぎていた。


 ゆっくりと、引き寄せられるように視線が動く。


 その先にあるのは、倒れたソフィアの左肩。


 今なお血を流し続けている、深く鋭い切り傷。


 その位置は、優斗のTシャツの裂けた場所と、まるで示し合わせたかのように一致していて――。


「……まさか」


 否定しなければならない。


 こんな考えは、ただの思い込みだと切り捨てなければならない。


 だが、目の前に並んだ事実が、それを許してくれない。


 魔獣と戦った後、あり得ないほど無傷だった優斗の身体。


 そして、彼女の左肩についた切り傷。


 それぞれはバラバラだったはずの断片が、ゆっくりと繋がり始めている。


 まるで最初からそういう形になるように仕組まれていたかのように。


「……ソフィア、お前。まさか――」


 漏れ出た声は、優斗自身も驚くほど掠れていた。


 だが、そこで終わらない。


 もし、その仮説が正しいのだとしたら。


 優斗の思考は、さらに一歩踏み込んでしまう。


 では、他の傷はどうなる。


 視線が、さらに下へ落ちる。


 右脇腹。左足の付け根。


 そこにも同じように、赤黒く染まった裂け目が残っていた。


 見た瞬間、喉の奥が詰まった。


 今そこに痛みはない。血も流れていない。服だけが裂けていて、その下にあるはずの傷だけが消えている。


 ゆっくりと、優斗の視線がソフィアへ戻った。


 白い部屋着の右脇腹が、じわりと赤黒く染まり始めていた。


 遅れて、裾の奥、左足の付け根に近いあたりにも、同じ色が滲む。


 あり得てはいけない。こんなものは偶然だ。見間違いだ。自分が混乱しているだけだ。


 そうでなければ、優斗はソフィアを助けたつもりになっていただけではないか。


 いや、それより酷い。


 むしろ、助けられたのは――。


 それだけは、認めてはいけない。


 だが、目の前の現実は、優斗の否定を待ってくれなかった。


 なら、もう一つはどうなる。


 あのとき、地面に倒れていた少女。


 胸を深く切り裂かれて、今にも死にかけていた、あの傷は。


 視線が、自然とエリシアへ向いた。


 彼女は未だに治癒魔法へ集中している。淡い緑の光が、かすかに揺らめきながらソフィアの傷へと注がれているが、その表情には余裕がない。額には汗が滲み、歯を食いしばるようにして魔力を絞り出している。


 あの胸の傷は、本当に癒えたのか。


 答えが喉元までせり上がってきた瞬間、優斗の身体は半ば反射的に動いていた。


 ぐったりと力の抜けたソフィアの身体へ手を伸ばし、震える指でその衣服の胸元を掴む。


 理性が遅れて警鐘を鳴らす。


 だが、それよりも先に、確かめなければならないという衝動が勝っていた。


 ゆっくりと、布をずらす。


「ちょっ!? あんた、こんな時に何して――。ッ!?」


 エリシアの抗議が、途中で途切れた。


 思わず、呼吸そのものを忘れたかのように息が詰まった。


 視界に飛び込んできたのは、本来ならば穢れ一つないはずの白い布地が、じわりと侵食されていく光景だった。


 最初はほんの小さな染みのように見えたそれは、次の瞬間には輪郭を広げ、繊維の隙間へと広がっていく。


 赤い。


 目の前に見えるのに、それが信じられない。


 目を逸らせなかった。


 逸らした瞬間、何か決定的なものを認めずに済ませてしまう気がした。


 震える指先のまま、さらに布をめくる。


 そして露わになったそれを見た瞬間、喉の奥で何かがひくりと引き攣った。


 浅い擦り傷などではない。


 皮膚を無遠慮に切り裂き、肉を抉るように刻まれた、明確な致命に近い痕跡。


 そして何より――その位置。


 それは、優斗が先ほどまで見ていた光景と、寸分違わぬ場所にあった。


 エリシアの胸元に刻まれていた、あの致命傷と同じ深さで、同じ形で、同じ場所に。


 まるで、写し取ったかのように。


「…………」


 声が、出ない。


 頭の中で何かが音を立てて崩れ落ちていく。


 否定しようとしていたはずの仮説が、もはや仮説ですらなく、どうしようもない現実として目の前に突きつけられている。


 偶然であるはずがない。


 見間違いであるはずがない。


 優斗の喉が、ごくりと音を立てた。


 乾ききったはずの喉に、やけに重たい空気が張り付く。


「……やっぱり、かよ」


 ようやく零れた言葉は、あまりにも弱々しく、吐息に紛れて消えてしまいそうだった。


 だが、それでも一度形になってしまった理解は、もう覆らない。


 ソフィアは――。


 人の傷を、自分に引き受けている。

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