第七話 歪な道連れ
いつの間にか三人で、一時間近く歩いていた。
どうしてこうなったのか。
優斗は心の中で何度目か分からない疑問を浮かべながら、前を行く二人の背中を眺めた。
頭上を覆う木々は相変わらず鬱蒼としており、差し込む光はわずかで、時間の感覚さえ曖昧にさせる。
どちらを向いても似たような幹と枝と葉ばかりで、今自分たちが進んでいるのか、それとも同じ場所をぐるぐる回っているのかすら分からなくなってくる。
先頭を歩くソフィアの足取りは一定に見えて、時折わずかに揺れた。木の根を避ける動きが、一拍だけ遅れることがある。枝をくぐる時、ほんの少しだけ肩が落ちることがある。
だが、彼女は立ち止まらない。何事もないみたいに、白い服の裾を揺らして歩き続ける。
その後ろを、エリシアが無言でついていく。腕を組み、背筋を伸ばし、視線は前方に固定されたまま。足取りに乱れはない。
けれど、その空気は明らかに柔らかいものではなかった。近づくな、と全身で言っているような、棘のある沈黙。
そして最後尾を歩いているのが、優斗だった。武器もない。地図もない。体力もない。おまけに、この世界の常識もない。
改めて考えると、最後尾に置かれているのは順当なのかもしれない。前に立ったところで、誰の役にも立てない。むしろ前に立つことになれば、困るのは優斗自身だろう。
「えーと、ソフィアさん?」
耐えきれなくなった疑問を、優斗は前を歩く小さな背中に向けて投げかけた。
「俺には当てもなく彷徨っているようにしか思えないんだけど……探し物の聖なる木とやらはどちらに?」
声をかけられたソフィアは、服の裾を揺らしながら、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、優斗は少しだけ言葉に詰まる。
白い額に汗が細かく浮き、光を受けて鈍く滲んでいた。
長い睫毛は疲労を隠すように伏せられているが、それでも隠しきれない倦怠が表情に滲んでいる。ソフィアは眉尻を下げ、小さく視線を伏せた。
「……ごめんなさい。ある程度の方向は分かるんですが、あとどれくらい歩くかまでは、私にも分からないんです」
申し訳なさそうに言葉を紡ぐソフィアに、優斗は慌てて頭を掻いた。
「あー、いやごめん。謝ってほしかったわけじゃないんだ。ただ、ちゃんとゴールがあるのか知りたかっただけで」
それから、少しだけ声を落とす。
「というか、そもそも俺はソフィアに勝手について行ってるだけなんだから、そんなに気にしないでくれ」
苦笑混じりにそう言うと、ソフィアはほんのわずかに表情を緩めた。
「ありがとうございます。ユウトさんは、優しいですね」
「いや、これは優しいとかじゃなくて、単に俺が勝手についてきてるだけで……」
「それでも、です」
やわらかく遮られて、優斗は言葉に詰まった。
別に、優しくしたつもりはない。そもそも、優しいと言われるほど立派なことは何もしていない。
それなのに、ソフィアはまるで本気でそう思っているような顔をしている。
やりづらい。
そう思って視線を逸らすと、横から冷たい声が飛んできた。
「ずいぶん仲がいいのね」
エリシアだった。
先ほどから一言も発さずに歩き続けていた彼女は、腕を組んだまま、露骨なまでに不機嫌そうな視線をこちらへ向けている。
「仲がいいっていうか、会話しない方が気まずいだろ」
優斗は肩をすくめた。だが、エリシアの表情は少しも緩まない。
「あなたは、聖女ソフィアとどんな関係なの?」
「関係?」
「手ぶらだから護衛にも見えないし、聖職者でもなさそう。ましてや、勝手について行ってるだけなんて……普通じゃないわ」
その声音には、単なる疑問以上の棘が含まれていた。
「いや、さっき川でたまたま会ってさ。そのまま別れるのもアレだし、ついてきてるだけ」
「ついてきてるだけって……。まぁ、いいわ。というより、本当にそれだけなの?」
「それだけ」
「本当に?」
「……疑い深いな」
「当然でしょ。なんで聖女のそばに、素性の分からない男がいるのよ」
エリシアの視線が、優斗の頭から足先までをざっとなぞる。値踏み、というよりは検分に近い。
武器の有無、服装、体つき、荷物。
そういうものを一つずつ確認して、結論として怪しいに分類しているのが顔に出ていた。
もっとも、怪しいのは優斗自身にも否定できない。森の中で倒れていた、手ぶらで、どう見てもこの世界に馴染んでいない青年。説明だけ聞けば、明らかに不審者だ。
「ていうか、さっきから気になってたんだけど」
優斗は、無理やり話題をずらすようにソフィアへ視線を向けた。
「聖女ってのは? ただの聖職者とは違うのか?」
思いついた疑問をそのまま口にする。
だが次の瞬間、エリシアは信じられないものを見るように目を見開いた。
「あなた本気で言ってるの!? ソフィアの紅い瞳が聖女の何よりの証拠じゃない!」
まるで空はなぜ青いのか、と問われたかのような反応だった。
ソフィアは困ったように眉を下げながら口を挟む。
「ユウトさんは、東のほうから旅をしに来たらしいです。おそらく、そこでは聖教とは違う宗教が信仰されていたのではないでしょうか?」
「あー。なんかその辺、俺のいたところはめちゃくちゃなんだ」
優斗は頭を掻いた。
「色んな国の宗教がごちゃまぜでさ。クリスマスにはお祝いして、正月には神社に行って、葬式は寺。イベントは楽しむけど、特定の神様を熱烈に信仰してるって感じじゃない。聖教なんて名前も、こっちに来て初めて聞いたよ」
説明しながら、優斗自身も妙な話だと思っていた。
だが、彼のいた世界ではそれが普通だった。
少なくとも優斗の周囲では、クリスマスにケーキを食べ、正月に初詣へ行き、葬式では線香を上げることに、いちいち矛盾を感じる人間の方が少なかった。
エリシアは眉をひそめた。未確認生命体でも見つけたみたいな顔だった。
「……祈る相手が、そんなに変わるの?」
「祈るっていうか、イベント?」
「信仰を、行事として扱うの?」
「そう言われると、だいぶ罰当たりな気がしてきたな」
優斗が苦く笑うと、ソフィアは小さく口を開いたまま、何度か瞬きをした。理解が追いつかないのか、言葉を探しているようだった。
「その……ユウトさんの故郷では、神様同士が喧嘩したりしないんですか?」
「……そんな心配するのか」
「だって、いくつもの神様に祈るなら、どなたを一番にするのかで揉めてしまいそうで……」
「いや、たぶんそこまで真剣に考えてる人は少ない。少なくとも、俺は考えてなかった」
口にしてから、優斗は少しだけ居心地が悪くなった。
目の前のソフィアにとって、信仰は生き方そのものに近い。教会を襲われ、逃がされ、それでも女神の導きを求めて森を歩いている。
その彼女の前で、自分の世界では信仰をイベント扱いしていると言うのは、想像以上に軽薄に聞こえたかもしれない。
「……いや、悪い。ソフィアを馬鹿にしてるわけじゃないんだ」
優斗がそう付け足すと、ソフィアは静かに首を振った。
「分かっています。ユウトさんは、そのまま話してくださっているだけですから」
そう言われると、余計に言葉が続かなかった。
気を遣われた、というより、こちらの不器用さごと受け取られたような気がして、優斗は曖昧に視線を落とす。
ソフィアはそれ以上追及せず、胸元へそっと手を添えた。
「聖女というのは、女神ティアに強い加護をいただいた人のことで……。その、私もその一人なんです」
「そうなのか。……ちなみに、加護ってのは、具体的には何ができるんだ?」
優斗が尋ねると、ソフィアは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……人を、助ける力です」
「人を助ける力?」
「はい。傷ついた方や、苦しんでいる方に、女神様の慈悲を届ける力です」
エリシアが横から口を挟む。
「聖女の奇跡は、普通の治癒魔法とは格が違うわ。だからこそ、聖女は帝国でも聖教でも特別な存在だったの」
「……なんでそんな聖女様や聖教を、噂の皇帝陛下は弾圧なんてしてるんだ? やっぱり、宗教が政治に口を出し始めたから、とかいうよくある理由か?」
優斗は探るようにエリシアへと視線を向ける。
「違うわよ。聖教の関係者が帝国の内政に関わったことはないはず。むしろ、教会が貧しい人たちに食料を配給したりして、関係は良好だったって学校で習ったもの」
エリシアは即座に否定した。その声音には迷いはなく、少なくとも彼女の中ではそれが揺るがない常識であることが窺える。
「じゃあ、どうして?」
短く問い返した優斗の言葉は、森の静寂の中にすっと溶けていった。
エリシアとソフィアは、まるで打ち合わせでもしていたかのように、同時に視線を逸らす。
言葉は続かない。沈黙だけが、じわりじわりと場を満たしていく。その態度はあまりにも分かりやすく、そしてあまりにも雄弁だった。
二人とも、知らないのだ。
「……わかんねぇのか」
優斗は小さく呟き、苦笑ともため息ともつかない息を吐いた。
「いや、でも急に弾圧って、なんかおかしくね。その皇帝ってやつ、聖教と何かあったんじゃないか?」
エリシアはじっと優斗を見たまま、警戒するように目を細める。
「そこまではわかんないわよ……。というか、あなた帝国のこんな中心のほうまで来てるのに、なんでそんなに何も知らないの?」
「あなたじゃなくて、榊原優斗な。それに、何も知らないのには山よりも深く、海よりも高い理由があるんだよ。……というか、エリシアこそなんであんなところで倒れてたんだよ?」
話題をずらすように問いかけると、エリシアの表情がわずかに強張る。
エリシアは「それは……」とつぶやいて目をそらした。
彼女の胸元には、先ほどまで生々しい切り傷が刻まれていた。ソフィアの奇跡的な治癒がなければ、今頃は冷たい土の上で息絶えていたであろう深手だ。
訓練された兵士であるはずの彼女が、なぜ一人であのような深手を負い、放置されていたのか。
「ただ、任務中にちょっとヘマしただけよ」
「……ちょっと、て。お前なぁ」
明らかに、ちょっとした失敗で済む傷ではなかった。
喉元まで出かかった言葉を、優斗は必死に飲み込む。
これ以上踏み込めば、明確に拒絶されるだろうという予感があった。
そう思ってて、優斗は口を閉じた。
その時だった。
「――ッ!?」
何かが崩れ落ちるような鈍い音が響いた。乾いた落ち葉が押し潰される、ぐしゃりとした不快な音。その中に、かすかに混じる、喉の奥で押し殺されたような短い吐息。
ほんのわずかな音だったはずなのに、それはやけに鮮明に耳に届いた。ぞくり、と首筋を冷たいものが這い上がる。
前を歩いていたエリシアの向こう側にいたはずの、ソフィアの姿が見当たらない。
代わりに、ゆっくりと、その小さな体が地面へと崩れ落ちていくのが見えた。
「……ソフィア?」
優斗自身も驚くほど間の抜けた声が、かすれて漏れる。
返事はない。
ソフィアは片膝をつくようにして辛うじて体を支えながら、地面に指を食い込ませていた。細い指先が土を掴み、わずかに震えている。
呼吸は浅く、荒く、喉の奥で擦れるような音を立てている。肩が小刻みに上下するたびに、その体が今にも崩れ落ちそうに揺れる。
額には脂汗が滲み、白磁のようだった頬からは完全に血の気が失せている。その唇はわずかに開かれ、そこから漏れる呼気は、どこか熱を帯びているようにも見えた。
ついさっきまで、普通に歩いていたはずだった。
優斗は一歩、踏み出そうとして、止まる。
何をすればいいのか、分からなかった。




