第六話 借りるだけよ
警戒しながら歩み寄り、兵士の顔を覗き込んで――思わず声が漏れた。
「おいおい、マジかよ……」
鉄の装備に身を包んだその兵士は、優斗と同じくらいに見える。日本に生まれていたなら中学校や高校に通っていただろう少女だった。
頬を汚す土とは対照的に、手入れの行き届いた銀髪が鈍い光を反射している。
その胸当ては鋭く切り裂かれており、少女の身には不釣り合いな無残な傷が刻まれていた。
ソフィアが少女のもとに駆け付け、両手をかざす。
その手は淡く脈打つ白銀の光を放っており、それが傷口に吸い込まれるたび、ぱっくりと開いていた傷口が目に見えて小さく塞がっていく。
荒かった兵士の呼吸が少しずつ凪いでいく。
「それが治癒魔法ってやつか?」
「……はい。そんなところです」
ソフィアが短く応える。
だが、優斗の目は依然として少女の傷口に釘付けだった。
紙一重の差だった。
もしソフィアが駆けつけるのがあと数分遅ければ、あるいは彼女がここにいなければ。
少女の肺から漏れ出す吐息は、湿った土の匂いに混ざって霧散していただろう。
助かったからこそわかる。
今、目の前で呼吸を繋ぎ止めているこの命が、どれほど儚いものだったのか。
「ぉぇっ――」
不意に、せり上がるような不快感が胃の底から込み上げた。優斗は口元を押さえ、必死にそれを飲み込む。
命を助けたという安堵よりも先に、冷たい鉄の味が喉の奥に広がる。
もし、あの時自分がソフィアを止めていたら。自分たちの保身のために見捨てるという選択肢を押し通していたら。
この少女を見殺しにしていたのは、他でもない自分だったのではないか。
そんな救いようのない仮定に、そして子供が剣を握らねばならないこの世界の歪さに、心底嫌気がさした。
「本当に、なんなんだよ……」
嫌な予感というものは、得てして当たるようにできている。
ソフィアが「この子が目を覚ますまで見守りましょう」と言い出したとき、優斗は激しく難色を示した。
このまま放置して魔獣に襲われたら、この子はひとたまりもない。
言い分はわかる。
分かるのだが――。
「それで俺たちまでヤバくなるなら、意味なくないか?」
「そんなことないですよ。……それに、この子もきっと、お話しすれば分かってくれるはずです」
そんなに都合よく行くだろうか。
あいにく優斗は、この世界がソフィアのように透き通った人間だけで構成されているとは思っていない。
聖職者だからか、それとも別に何かあるのか。とにかくソフィアはああいう人間なのだ。
だからあの倒れてた子も同じだなんて、優斗には到底思えなかった。
だけど――。
真っ直ぐに自分を見つめるソフィアの紅い瞳と、優斗の視線が合った。
それだけで、続くはずだった言葉が喉の奥で止まった。逃げ場を失ったように、優斗はため息を吐き、その場に腰を下ろす。
変化が訪れたのは、それからしばらくしてのことだった。
少女のまぶたが、ぴくりと震えた。彼女は胸の奥に溜まった濁った息を吐き出すように呻いている。
「……ぅ……」
やがて、ゆっくりと瞳が開かれる。
エメラルドのような瞳が、ぼやけた世界を彷徨い――そして、目の前にいるソフィアの姿を捉えた瞬間。
「……見つけた。捕まえなきゃ――」
それは、寝起きの朦朧とした意識の中から零れ落ちた言葉とは思えないほど、妙に芯の通った声音だった。
その一言に、優斗は思わず眉をひそめる。
見つけた?
何を――と、半ば反射的に少女の視線を追えば、その先にいるのは他でもないソフィアであり、直後に遅れて理解が追いつく。
ああ、この子はやはりそういう人間なのか、と。
だが、その認識が形になるよりも早く、少女の身体はすでに動いていた。
ほとんど反射のように上体を起こし、そのまま立ち上がろうとする。
意思だけなら十分すぎるほどに前へと出ているのに、肝心の身体がそれに追いつかない。
足に力を込めた瞬間、びくりと痙攣するように震え、そのまま均衡を失い、重心が大きく崩れた。
――まずい。
そう認識するよりも先に、視界の端を金色が掠める。
ソフィアだった。彼女は一切の迷いなく一歩踏み込み、倒れ込もうとする少女の身体をそのまま受け止める。
華奢な体つきに似合わぬ安定した動きで、崩れ落ちる重みを引き受けるその姿は、まるで最初からそうすることが決まっていたかのように自然で、そして何より――躊躇いがなかった。
「大丈夫ですか」
かけられた声は、陽だまりのように穏やかだった。
そこには警戒も、敵味方の区別もない。ただ倒れている人間がいるから支えるという、それだけの理由しか存在していないかのようだ。
優斗には、その光景がひどく現実離れしたものに見えた。
「っ……な、なな何を……っ! は、離してください。私が誰だかわかっているんですか!?」
少女の身体が強張る。
反射的に振り払おうとしたのだろう。だが、力が入らないのか、あるいは思考が追いついていないのか。
その動きは中途半端なところで止まり、代わりに露骨な戸惑いだけが表情に浮かび上がる。
「なんで……」
「……ちょっと待て。ソフィア」
堪らず優斗が間に割って入る。状況の歪さに、眩暈がしそうだった。
「その子、さっき言ってただろ。捕まえなきゃいけないって。……君のこと」
自分で言葉にしてみて、改めてその歪さに気づく。
助けた相手に捕まえられるかもしれない、などという構図がまずおかしいのに、それを当の本人がまるで問題として扱っていないことが、さらに理解を遠ざけていた。
「それを、なんで普通に支えてんだよ」
責める意図はない。ただ純粋に、意味が分からなかった。
ソフィアはそんな優斗の言葉を受けても、少しだけ首を傾げるだけで、やはりどこかズレている。
「だって」
あまりにも当然の前提を口にするように、彼女は言う。
「だって、まだ私、この人に傷つけられていませんから」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
優斗は眉を寄せ、ソフィアを見る。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
「これからそうなるかもしれない、って話だろ。そうなる前にやめるだろ、普通……!」
ソフィアは少女を支えたまま、静かに優斗のほうへ顔を向けた。
「そうですね。……ですが、それはまだ起きていないことです」
ソフィアは静かに、しかし断固として言い切った。
「目の前で困っている人を助けない理由にはなりません。少なくとも、今のこの人は、怯えているようにしか見えません」
少女の身体が、ぴくりと強張った。
「っ……わ、私は怯えてなんか――! 離してください、このっ、離しなさい!」
銀髪の少女は、ソフィアの腕をポカポカ殴りつけ、その腕から逃れて地面に座り込んだ。
けれど、そこから立ち上がって剣を抜く気配はない。ただ、気まずそうに、そして癪に障るといわんばかりに視線を逸らす。
その瞳には、先ほどまでの敵意ではない、整理のつかない激しい戸惑いが色濃く浮かんでいる。
「……この体じゃ、捕まえるのは無理。……だけど、あなたを見逃すつもりもない」
エリシアは震える指先で乱れた銀髪を整え、精一杯の威厳を込めて優斗とソフィアを睨みつけた。
それから、黙った。何かを測るように、あるいは言い訳を探すように、数秒の沈黙が落ちる。
「……ついていくわ」
「は?」
「監視よ、監視! 私が動けるようになるまで、貴方たちが不審な動きをしないか見張る義務があるわ。……勘違いしないでちょうだい、別に助けられたからとか、そういうわけじゃないんだから!」
銀髪の少女は震える膝を抱え込むようにして、自分に言い聞かせるような震える声を出した。
優斗は小さく息を吐いて、もう一度ソフィアを見る。
彼女は変わらず、当たり前のように銀髪の少女を優しそうに見つめている。
その光景は、優斗の常識からすればどう考えても成立しないはずなのに、それでも目の前で成立してしまっている以上、否定することもできない。
それを見ていると、呆れを通り越して、背筋に冷たい氷を押し当てられたような薄ら寒い恐怖を覚えた。
もし今、この少女の隠し持っていた刃で体を貫かれても、笑いながら死んでいくんじゃないか。
そんな救いのない光景が、あまりにも容易に想像できてしまう。
――この子は、いつか自分自身の光に焼き尽くされて壊れる。
「……分かったよ。好きにすればいい」
完全に納得したわけじゃない。ただ、この歪な流れを止められる気がしなかっただけだ。
「でも何かあったら、俺は止めるからな」
「……分かってるわよ」
少女は優斗を鋭く一瞥し、短く応えた。その視線には、警戒と困惑と、ほんの僅かな居心地の悪さが混じっている。
やがて彼女は、ほんのわずかに視線を逸らした。気まずそうに、言葉を落とす。
「……エリシア・クローディス」
優斗は思わず少女に顔を向けた。
「……あ?」
少女は視線を落としたまま、短く続けた。
「わたしの名前。呼ぶとき、困るでしょ」
ぽつりと告げられたその名は、思っていたよりもずっと普通で、そして妙に綺麗な響きをしていた。
エリシアはそれ以上何も言わず、視線を落とす。
その視線を無意識に追った先――、優斗の視界に入ったのは、戦闘で裂けたのだろう胸当ての隙間と、その奥に覗く白い肌だった。
数瞬、思考が止まる。
いや、止まったというより、処理が追いつかなかった。
「……」
やばい、と思ったときにはもう遅い。
エリシアの頬が、じわじわと赤く染まっていく。
耳の先まで一気に熱が広がり、そのエメラルドグリーンの瞳が、ぎぎぎ、と音を立てるみたいにこちらを向いた。
「あんた……なに、見てんのよ……!」
絞り出された声は震えていた。
怒りというよりは、自分の弱みを、晒したくない相手に暴かれたことへの、悲鳴に近い拒絶。
「いや、これは……悪い。わざとじゃないんだ」
咄嗟に視線を逸らす。
だが、その気まずい沈黙が、かえってエリシアの自尊心を切り刻む。
彼女は震える手で乱れた胸元を必死に隠そうとするが、無残にひしゃげ、大きく口を開けた鉄の亀裂は、彼女の細い腕だけではとても覆い隠せるものではなかった。
「最低……。あんた、本当に……っ」
エリシアの瞳に、うっすらと涙の膜が張る。
居た堪れなくなった優斗は、無言のまま自分のジャージの上着を脱ぎ、彼女の方へと放り投げた。
「…………。これ、使え」
「な、なに……?」
エリシアは反射的にそれを受け取り、それから、おそるおそる優斗のほうへ視線を向けた。
「いいから着とけ。……そんな格好で歩かれたら、こっちの目のやり場に困るんだよ」
彼女は唇を噛み締め、おぼつかない手つきで袖に腕を通すと、腰のあたりでぶら下がっている金属のつまみを不審そうに摘まんだ。
「……これ、どうすればいいの」
「あー、それか。えっと、下の溝にその端を差し込んで、そのまま上に引き上げるんだ」
優斗の説明を聞きながら、エリシアが恐る恐るつまみを引き上げる。
――ジィィィッ。
静かな森に、滑らかな機械音が響く。
噛み合っていく樹脂の歯が、彼女の胸元の傷を、そして晒されていた羞恥を、一つずつ丁寧に覆い隠していった。
最後までチャックを上げきると、エリシアは深く、長い息を吐いた。
優斗の服は、彼女にとって大きく、袖からは指先すら見えない。首元までしっかり閉じられたジャージの立ち襟に、彼女の小さな顎が半分ほど埋まっている。
「……借りるだけよ。あとで、死ぬほど洗って返してやるんだから」
俯き、顔を隠すようにして呟くエリシア。
その声からは先ほどの殺気は消え、代わりにどこか幼い頑固さが混じっているように聞こえた。




