第六話 歪な道連れ
いつの間にか一時間近く歩いている。三人で。なんでこうなった。頭上を覆う木々は相変わらず鬱蒼としており、差し込む光はわずかで、時間の感覚さえ曖昧にさせる。足元に積もった落ち葉を踏みしめるたび、乾いた音が単調に繰り返され、その単調さが余計に体感時間を引き延ばしているようだった。
「えーと、ソフィアさん? 俺には当てもなく彷徨っているようにしか思えないんだけど……、探し物の聖なる木とやらはどちらに?」
耐えきれなくなった疑問を、優斗は前を歩く小さな背中に向けて投げかけた。声をかけられたソフィアはゆっくりと振り返る。白い額に、汗が細かく浮いていた。光を受けて、鈍く滲んでいる。長い睫毛は疲労を隠すように伏せられているが、それでも隠しきれない倦怠がその表情には滲んでいる。
「……ごめんなさい。ある程度の方向は分かるんですが、あとどれくらい歩くかまでは私にも分からないんです」
申し訳なさそうに言葉を紡ぐソフィアに、優斗は慌てて頭を掻いた。
「あー、いやごめん。謝ってほしかったわけじゃないんだ。ただ、ちゃんとゴールがあるのか知りたかっただけで。というか、そもそも俺はソフィアに勝手について行ってるだけなんだから、そんなに気にしないでくれ」
苦笑混じりにそう言うと、ソフィアはほんのわずかに表情を緩め微かな笑みを返した。ふと横に視線を向けると、そこには先ほどから一言も発さずに歩き続けているエリシアの姿があった。腕を組み、視線は前方に固定されたまま、まるで周囲のすべてを拒絶するかのような空気を纏っている。露骨なまでの不機嫌さは隠そうともしておらず、先ほどの一件を引きずっていることは誰の目にも明らかだった。やがて、その沈黙に耐えかねたのか、エリシアはわずかに苛立ちを滲ませた声で口を開いた。
「あなたは聖女ソフィアとどんな関係なの? 手ぶらだから護衛にも見えないし、聖職者でもなさそう。ましてや、勝手について行ってるだけなんて……」
その声音には、単なる疑問以上の棘が含まれている。優斗は肩をすくめながら、あっさりと答えた。
「いや、さっき川でぶっ倒れてたとこ拾ってもらってさ、そのまま別れるのもアレだしついてきてるだけ。ていうか、聖女ってのは? ただの聖職者とは違うのか?」
思いついた疑問をそのまま口にする。だが次の瞬間、エリシアは信じられないものを見るように目を見開いた。
「あなた本気で言ってるの!? ソフィアの紅い瞳が聖女の何よりの証拠じゃない!」
まるで空はなぜ青いのか、と問われたかのような反応だった。この世界において、それは疑う余地すらない常識なのだろう。ソフィアは困ったように眉を下げながら口を挟む。
「ユウトさんは東のほうから旅をしに来たらしいです。おそらく、そこでは聖教とは違う宗教が信仰されていたのではないでしょうか?」
「あー。なんかその辺、俺のいたところはめちゃくちゃなんだ。色んな国の宗教がごちゃまぜでさ。クリスマスにはお祝いして、正月には神社に行って、葬式は寺。イベントは楽しむけど、特定の神様を熱烈に信仰してるって感じじゃない。聖教なんて名前も、こっちに来て初めて聞いたよ」
説明しながら、自分でも妙な話だと思う。エリシアは眉をひそめて未確認生命体でも見つけたみたいに胡乱気な視線を向けてくる。ソフィアに至っては、理解が追いつかないのか、金魚のように口を小さく開閉させている。やがて、ソフィアは深く重い吐息を吐いた。
「そうですね……。知らなくても、不思議ではないと思います。国が違えば、信仰も違いますし。聖女っていうのは、女神ティアに強い加護をいただいた人のことで……その、私もその一人なんです」
「あー、なるほどな。……ところで、なんでそんな聖女様や聖教を、噂の皇帝陛下は弾圧なんてしてるんだ? やっぱり、宗教が政治に口を出し始めたから、とかいうよくある理由か?」
軽い調子を装いながらも、優斗は探るようにエリシアへと視線を向ける。
「違うわよ。聖教の関係者が帝国の内政に関わったことはないはず。むしろ、教会が貧しい人たちに食料を配給したりして、関係は良好だったって学校で習ったもの」
エリシアは即座に否定した。その声音には迷いはなく、少なくとも彼女の中ではそれが揺るがない常識であることが窺える。
「じゃあ、どうして?」
短く問い返した優斗の言葉は、森の静寂の中にすっと溶けていった。エリシアとソフィアは、まるで打ち合わせでもしていたかのように、同時に視線を逸らす。言葉は続かない。沈黙だけが、じわりじわりと場を満たしていく。その態度はあまりにも分かりやすく、そしてあまりにも雄弁だった。――知らないのだ、この二人も。
「……わかんねぇのか」
優斗は小さく呟き、苦笑ともため息ともつかない息を吐いた。
「いや、でも急に弾圧って、なんかおかしくね。その皇帝ってやつ、聖教と何かあったんじゃないか?」
「そこまではわかんないわよ……。というか、あなた帝国のこんな中心のほうまで来てるのに、なんでそんなに何も知らないの?」
呆れを含んだ視線が向けられる。だがその裏には、わずかな警戒の色も混じっていた。
「俺は榊原優斗な。それに、何も知らないのには山よりも深く、海よりも高い理由があるんだよ。……というか、エリシアこそなんであんなところで倒れてたんだよ?」
話題をずらすように問いかけると、エリシアの表情がわずかに強張る。エリシアは「それは……」とつぶやいて目をそらす。彼女の胸元には、先ほどまで生々しい切り傷が刻まれていた。ソフィアの奇跡的な治癒がなければ、今頃は冷たい土の上で息絶えていたであろう深手。訓練された兵士であるはずの彼女が、なぜ一人であのような深手を負い、放置されていたのか。
「ただ、任務中にちょっとヘマしただけよ」
「……ちょっと、て。お前なぁ」
明らかにちょっとでつく傷じゃないだろ。飛び出かかった言葉を、必死に飲み込む。これ以上踏み込めば、明確に拒絶されるだろうという予感があった。
――面倒なことになる。そう思って、口を閉じた。それだけだ。
そんな思考にほんの一瞬だけ意識を沈めた、その時だった。
「――ッ!?」
背後で、何かが崩れ落ちるような鈍い音が響いた。乾いた落ち葉が押し潰される、ぐしゃりとした不快な音。その中に、かすかに混じる、喉の奥で押し殺されたような短い吐息。ほんのわずかな音だったはずなのに、それはやけに鮮明に耳に届いた。ぞくり、と首筋を冷たいものが這い上がる。振り返る、という行動よりも先に、体が勝手に反応していた。ほんの数歩先を歩いていたはずのソフィアの姿が、そこにはない。代わりに、ゆっくりと、その小さな体が地面へと崩れ落ちていくのが見えた。
「……ソフィア?」
自分でも驚くほど間の抜けた声が、かすれて漏れる。返事はない。ソフィアは片膝をつくようにして辛うじて体を支えながら、地面に指を食い込ませていた。細い指先が土を掴み、わずかに震えている。呼吸は浅く、荒く、喉の奥で擦れるような音を立てている。肩が小刻みに上下するたびに、その体が今にも崩れ落ちそうに揺れた。額には脂汗が滲み、白磁のようだった頬からは完全に血の気が失せている。その唇はわずかに開かれ、そこから漏れる呼気は、どこか熱を帯びているようにも見えた。
さっきまで普通に歩いてたのに。一歩、踏み出そうとして、止まる。何をすればいいのか、分からなかった。




