第五話 優しさの理由
白光だ。視界を埋め尽くすような白銀の光の奔流が、体を包み込む。
意識が覚醒する。暗い水底から浮かび上がってくるように、徐々に陽光が瞼の裏に感じられて、優斗は目を開いた。
「――ッ! 目が覚めましたか、大丈夫ですか!?」
声は真横から。そちらに視線を向けると、目元を赤く腫らした金髪の少女が座っていた。優斗は、混濁している記憶を丁寧に手繰り寄せていく。
「……ええっと、確かアキバ行きの電車に乗って、席に座ってたらうとうとして――」
遡りすぎた独り言だが、軽口を叩いていると頭も回ってくる。
巨大な狼のような魔獣。ソフィアを助けるために、命を挺したこと。体中がボロボロになっていたこと。
だが、見下ろした自分の体は五体満足、正常で傷があった気配すら感じられない。明らかに致命傷だったはずだ。だとしたら、この現状は当然目の前の少女によるもの。
「傷、治してくれたんだよな。……ありがとう、お陰で命拾いした」
ソフィアは、ぱちりと瞬きをしたあと、慌てたように首を横に振った。目元に残った赤みのせいで、その仕草は少しだけ幼く見える。
「むしろ命拾いしたのは私です! ユウトさんが助けてくれなかったら、きっとあの魔獣に食べられてました」
そう言われると、無理した甲斐があるものだ。だが、優斗の胸の内に一つ引っかかるものがあった。
あの機械音は何だったんだ? 当然、優斗は今まで17年の人生で、あのような音を聞いたことはない。となれば、思い至るのは――。
「あれが、おれの転移特典なのか?」
目の前で不思議そうに首をかしげているソフィアを、今は意識の外へ追いやる。あの声が聞こえて起こったことと言えば、思考が明瞭になった事くらいだ。
ソフィアを助けたい、そのために何が出来るかを考えた。結果、自分の命すら投げうって、見事ソフィアを救うことが出来たという訳だ。
だが、優斗の胸の奥に、一抹の不安がよぎる。
ソフィアを救いたい、という気持ちはあった。だが、それは自分すら犠牲にしてまで成し遂げたい願いだったのか。
優斗の中に、目の前の少女の高潔さに憧れていた部分があるのは否定できない。それと比べた自分の矮小さに嫌気が差したことも。
だが、果たしてそれは命を懸けるほどの物だったのか。自分が自分ではなかったような感覚に、優斗の背筋が震える。
「ユウトさん?」
ソフィアの声に、優斗ははっと顔を上げた。
こちらを覗き込む紅い瞳には、怪訝さよりも心配の色が濃い。目元を赤く腫らしたまま、まだ自分のことを気にしている。その姿を見ると、胸の奥に沈んでいた気味の悪さが、余計にはっきりと形を持った。
助けたかった。
それは本当だ。
けれど、助けようとした自分の中に、本当に自分の意思が残っていたのか……。
「……いや、何でもない」
考えたところで、答えが出るわけではなかった。
少なくとも、今ここで座り込んでいる場合ではない。別の魔獣が来る可能性もあるし、ソフィアを追っている連中が近くにいるかもしれない。
「とりあえず、ここを離れよう。さっきの奴が一匹だけとは限らないし」
「はい。ユウトさん、歩けますか?」
「たぶん。傷は……まあ、見た感じないしな」
そう言って立ち上がると、足元がわずかにふらついた。ソフィアが慌てて手を伸ばしてくる。反射的に大丈夫だと言いかけて、優斗はその手を借りた。
「すみません。本当なら、もっと休んでいただきたいんですけど……」
「いや、分かってる。ここに長居する方が危ないだろ」
ソフィアは小さくうなずくと、こちらを気遣うように一度だけ足元へ視線を落とした。
二人は、魔獣が暴れた跡を避けるようにして森の中を進む。抉れた土。へし折られた枝。幹に深く刻まれた爪痕。転がっている赤黒い魔獣の死体。
少し前までそこにあった死の気配だけが、まだ森の空気にこびりついている。
会話はなかった。
ソフィアは時折、振り返るでもなく歩調だけをわずかに緩める。こちらの足音を聞いているのだと気づいて、優斗はそのたびに、何でもないふりで一歩を大きくした。
実際、体に痛みはない。息も乱れていない。不自然なくらい普通に歩けている。致命傷だったはずなのに、だ。目の前の少女がそれだけの力を持っている。
その事実に飲み込まれていた優斗の意識は、前を歩いていたソフィアが唐突に足を止めたことで現実に引き戻された。
「――っ、大変です!」
ソフィアの鋭い叫びが、森の静寂を切り裂いた。反射的に顔を上げると、彼女はすでに駆け出していた。その視線の先――少し開けた場所に、人影が見えた。地面に倒れている、誰か。
「ちょっと待って!」
優斗は咄嗟に声を張り上げ、彼女を追った。間一髪でその腕を掴み、足を止めさせる。
「どうしたんですか!? 早く助けないと、あの人――」
「落ち着け。よく見ろ」
優斗は目を細め、倒れている人影を観察した。小柄な体躯だが、身に纏っているのは旅人の服ではない。鈍く光る胸当て、腕を守る篭手。腰には手入れの行き届いた剣が帯びられている。
「どう見ても兵士だろ。それも、そこそこちゃんとした装備の」
「……」
「さっき言ってた、教会を襲った連中と同類じゃないのか?」
ソフィアは言葉を失い、唇を震わせた。だが、彼女は優斗の掴んだ手を、自身の柔らかな手でそっと包み込み、そして優しく解いた。
「……そうですね。ユウトさんの仰ることは、とっても正しいんだと思います」
彼女は振り返り、どこか吹っ切れたような微笑みを向けた。
「でも、あの方が今、苦しんでいるのも本当なんです。ここで見捨ててしまったら……私、きっと教会に残ってくれたみんなに顔向けできません。明日からの自分のことが、嫌いになってしまうと思うんです」
「……ソフィア」
理屈ではなかった。損得でも、生存戦略でもない。それがソフィアという、目の前に立つ人間の生き方なのだと、彼女の眼差しが静かに告げていた。
優斗は、一瞬だけ目を閉じた。掴んでいた腕を、そっと離す。
……兵士だ。さっきソフィアから聞いた話の、あの連中だ。倒れているのがどんな事情であれ、目を覚ませば真っ先に俺たちを敵と見なすかもしれない。そもそも、そいつを助けるためにここで立ち止まるという選択肢自体、この状況では悪手もいいところだ。
分かってる。全部分かってる。
目を開くと、ソフィアがまだこちらを見ていた。責めてもいない。急かしてもいない。ただ待っている。優斗は小さく息を吐いた。
その静けさが、どうしようもなく腹立たしかった。ソフィアだって怖いはずだ。それなのに、他人を慮る事ばかり考えている。
――この子を一人にしておけない。
「……分かったよ。分かったから、一人で行くな。二人で一緒に行くぞ」
「分かりました」
ソフィアは素直にうなずいた。けれど、その体はもう倒れた兵士の方へ向いている。両手を胸の前で小さく握りしめ、今にも駆け出しそうな足先だけが、落ち着きなく枯れ葉を踏んでいた。
「……本当に分かってるか?」
「はい。ユウトさんが危ない時は、今度こそ、絶対に助けます」
「そういう意味じゃないんだけどな……」
呆れた声が漏れる。言い聞かせた意味の半分も届いていない気がした。けれど、ソフィアは真剣だった。真剣な顔で、優斗の少し後ろに下がる。そのくせ、兵士がわずかに動けば、迷わず飛び出していきそうな危うさだけは消えていない。
けれど、足はもう前へ出ていた。警戒を解かぬまま、優斗は倒れた兵士へと歩み寄った。




