第四話 生きてて良かった
魔獣が、地面を蹴る。何かを考えるより先に、優斗はソフィアの手首を掴んでいた。
「走れ!」
「っ、はい!」
二人は同時に駆け出した。
背後で、地面が抉れる音がした。振り返る余裕などない。けれど、見なくても分かる。
魔獣は追ってきている。木々の間を強引に押し分け、枝をへし折り、低い唸り声を撒き散らしながら、二人へ迫っている。
湿った土に靴底が沈み、苔に足を取られるたび、優斗の身体は前へ進むより先に地面へ引きずり戻されそうになった。止まれば死ぬと分かっているから足を動かしているだけで、体力も根性も、とうに信用できるものではない。
「ユウトさん、右へ!」
ソフィアの声に従って、優斗は反射的に身体を傾けた。
直後、背後から振るわれた黒い影が、つい先ほどまで優斗の頭があった空間を薙いだ。爪が木の幹を削り、樹皮と木片が雨のように散る。
「う、わ……っ!」
優斗の口から、裏返った声が漏れる。
今のは死んでいた。
当たっていたら、考える間もなく終わっていた。そう理解した瞬間、足は走っているのに、身体の芯だけが置き去りにされたみたいに冷たくなる。
ソフィアが立ち止まりかけた。いや、完全には止まっていない。走りながら半身を捻り、白い指先を背後へ向ける。その手のひらに、淡い光が集まっていく。
「争いを退ける光を!」
祈りの言葉と共に、白い光弾が放たれた。
それは弓矢よりも速く、まっすぐ魔獣の顔面へ飛んでいく。鈍い音が森に響いた。魔獣の頭がわずかに仰け反り、赤黒い目が憎悪に歪む。
効いている。少なくとも、牽制にはなっている。
優斗は、思わず息を呑んだ。
魔法だ。
この世界では、本当にそんなものがある。手のひらに集まった光が、目の前の化け物を確かに怯ませている。
ソフィアはどう見ても荒事に向いた少女ではない。細い手首も、乱れた白い服も、怯えを押し殺した横顔も、戦うためのものには見えなかった。
それなのに、彼女は魔獣に背を向けきらず、光を放っている。
その事実に、ほんの一瞬だけ希望が差した。
もしかすると。この少女なら、あんな化け物相手でも何とかできるのではないか、と。
だから、ほんの一瞬だけ、ありもしない希望が胸を掠めた。
「もしかして、ソフィアさんなら、あんな魔獣なんて何とかできたり……?」
「無理です!」
ソフィアは即座に首をぶんぶんと振った。髪が乱れ、頬に汗が伝っている。
「足止めが精一杯です! あの魔獣、体中傷だらけでも、まだ動けるくらい生命力が強いんです!」
言われて、優斗は背後を一瞬だけ見た。
確かに、魔獣の身体は無傷ではなかった。黒ずんだ毛並みの下には、生々しい傷がいくつも走っている。脇腹には裂けた痕があり、肩口には何かに抉られたような穴があった。乾いた血と新しい血が混じり、泥にまみれた毛がそこだけ不自然に固まっている。
だが、弱っているようには見えない。むしろ、その傷があるせいで、余計に凶暴さが増しているようにすら見えた。
ソフィアがもう一発、光弾を撃つ。
魔獣はそれを嫌がるように首を振ったが、止まらない。速度が落ちても、すぐに詰めてくる。距離は離れない。少しずつ、少しずつ、むしろ縮まっている。
このままじゃ駄目だ。走り続けても、埒が明かない。
優斗の体力が尽きる方が早いし、ソフィアだって、いつまでも魔法を撃ち続けられるわけがない。現に、彼女の息は乱れ、肩は上下し、額には汗が滲んでいる。繋いだ手に伝わる力も、さっきよりわずかに弱くなっていた。
このままでは、二人とも食われる。終わりだ。ゲームオーバーだ。
どうする。
どうする。
ない頭を絞って考える。木に登るか。そんな考えが一瞬だけ浮かんだが、あの巨体なら幹ごとへし折られるだけだ。
川へ逃げるか。だが、川がどちらにあるのかも分からないまま森の中を走り回ったところで、先に体力が尽きるのは目に見えていた。
ソフィアの魔法で目を潰すか。さっきから顔面に当てても怯ませるのが精一杯で、あの巨体を止めるにはまるで足りない。
それでも、何かあるはずだろうと思った。
異世界ファンタジーなら、こういう時にだけ都合よく見つかる抜け道があるはずだった。
主人公だけが気づける弱点が、偶然そこに落ちている武器が、土壇場で目覚める力が、ここまでの何気ない会話や景色の中に仕込まれていた伏線が、全部をひっくり返すための答えみたいに転がっているはずだった。
何か。何か、一つくらい。
優斗は走りながら、必死に周囲へ視線を走らせた。
足元には湿った土と、浮き出した木の根と、踏めば折れそうな細い枝が散らばっている。左右には似たような木々が並び、低い茂みが逃げ道を塞ぐように絡み合っている。背後には傷だらけの魔獣がいて、ソフィアの光弾を受けてもなお止まらず、枝をへし折りながら距離を詰めてくる。
何か。何か。何かないのか。
……何もない。
胸の奥が、嫌な形で冷えていく。
その冷たさから逃げるように、優斗は隣を走るソフィアへ視線を向けた。
彼女は自分の命だって危ないのに、自分だけならもっと速く逃げられるかもしれないのに、優斗の足に合わせて走っている。さっきから何度も振り返り、魔法を撃ち、ただの足手まといでしかない優斗を助けようとしている。
教会の人たちを助けるために。見ず知らずの優斗を助けるために。
怖いはずなのに、逃げたいはずなのに、それでも他人のために前へ進もうとしている。
こんな少女が。こんな高潔な少女が。こんなところで死んでいいはずがない。
助けたい。救いたい。この少女の命を、繋ぎ留めたい。
その瞬間、頭の奥で何かが鳴った。
『条件達成を確認』
無機質な音だった。
人の声ではない。感情のない、機械のような響き。けれど、それは確かに優斗の頭の中で鳴っていた。
『□□□□を代償に、特定の感情を強化します』
あれだけうるさかった頭の中が、妙に静かになった。
恐怖が消えたわけではない。痛みが消えたわけでもない。背後から迫る魔獣の気配も、走り続ける肺の苦しさも、ソフィアの荒い息遣いも、確かにそこにある。
けれど、それらは急に遠くなった。水の底から眺める景色みたいに輪郭だけを残し、優斗の内側までは届かなくなる。
ソフィアを助ける。その一点だけが、濁った思考の中で不自然なほどはっきりと浮かび上がっていた。
逃げ切ることはできない。ソフィアの魔法だけで倒すこともできない。なら、必要なのは勝つことではなく、止めることだ。ソフィアが生き残るだけの時間を作ればいい。
そのために使えるものが一つだけあると気づいた時、優斗は足を止めていた。
「ユウトさん!?」
ソフィアの手が離れる。
振り返れば、魔獣はもう目の前まで迫っていた。赤黒い目がこちらを見下ろし、唾液に濡れた牙の隙間から低い唸り声が漏れている。その顔は、愚かな獲物が自分から足を止めたことを喜んでいるように見えた。
視線を落とす。
泥にまみれた地面の上に、折れた枝が転がっていた。先端は不自然に裂け、槍の穂先のように尖っている。
優斗は身を屈め、枝を拾った。
手のひらに木片が食い込む。構わない。両手で握り直す。正面から見れば、ただの枝だ。武器と呼ぶにはあまりにも頼りなく、あの巨体を相手にするには冗談みたいな代物だった。
けれど、魔獣の肩口には傷がある。まだ完全には塞がりきっていない、肉の柔らかい場所がある。
「ソフィア、下がってろ」
「駄目です! ユウトさん、何を――」
「いいから」
自分の声とは思えないほど、冷たい声が出た。
魔獣が跳んだ。黒い巨体が、視界を埋める。牙も、爪も、泥と血に固まった毛並みも、全部が一つの塊になって落ちてくる。
それに対して、優斗は真正面から踏み込んだ。
両手で握った枝の先端を、魔獣の肩口へ突き立てた。硬い毛皮を裂き、乾いた木が肉へ潜り込む感触が、腕を通してはっきりと伝わってくる。
魔獣が吠える。耳が潰れそうな咆哮が、空気ごと優斗の身体を叩いた。
浅い。これでは足りない。
優斗は歯を食いしばり、枝をさらに押し込んだ。元からあった裂け目に先端をねじ込み、塞がりかけていた傷口を内側からこじ開ける。
肉が引っかかる。骨か、硬くなった筋か、枝の先が一瞬止まる。それでも構わず、全体重を乗せた。
魔獣が暴れた。枝を突き立てられた肩を振り払うように、黒い前脚が滅茶苦茶に振るわれる。
直後、優斗の左肩が引き裂かれる。何度も、何度も。魔獣は痛みから逃れるように、前脚を振るい続ける。
絶叫。右脇腹が、左足の付け根が次々と爪の感触に引き裂かれる。視界が真っ赤に染まった。それでも、痛みはどこか遠い。
「ユウトさん――ッ!」
悲鳴のような声が聞こえて、優斗は枝をさらに捻った。肉をかき回す。血が飛ぶ。もはや、飛び散っている血肉が、優斗の物なのか、魔獣の物なのか判別はつかない。
すぐ目の前に、牙の並ぶ魔獣の口腔が迫る。喉笛に迫る牙。それが目の前で白い閃光に弾かれた。
枝を握っていたはずの右腕に、もう感覚はない。握っているのか、離したのか、それすら分からない。視線だけをどうにか動かすと、地面に巨大な赤黒い何かが転がっているのが見えた。
それが何なのか、考える間もなく意識が途切れていく。消えたとき、どうなるのかもわからない。
穴の開いた脇腹から自分が外に流れ出していく。内と外との境界が溶けていく。自分が、自分じゃなくなっていく――。
「待って、お願い……。私の為に死ぬなんて、許さないから……」
泣きそうな声。泣き声。
あぁ、生きてて良かっ――。




