第四話 やさしさの理由
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どれくらい歩いただろう。森の中は深くて、時間の感覚がおかしくなる。優斗は、自らを救ってくれた――というか、川沿いで自分を拾ったらしい少女と共に深い森の奥へと歩を進めていた。頭上を覆う巨木の枝葉が風に煽られ、波濤のような音を立てる。足元では幾層にも降り積もった枯れ葉が、一歩ごとに乾いた悲鳴を上げた。湿った土の匂いと、どこか甘ったるい未知の植物の香りが鼻腔を突く。
「そういえば、君がこの森でやることって何なの? まさかその格好でピクニックってわけでもないだろうし」
重苦しい沈黙に耐えかねて、優斗は彼女の少しダボついた、部屋着のような服を指差しながら問いかけた。少女はふふっと、困ったような、けれどどこかおっとりとした笑みを浮かべて振り返る。
「探し物があるんです」
「探し物?」
「はい。これほど生命の気配に満ちた森なら、精霊の多く宿る聖なる木があるはずですから」
その内容は明らかに現実離れしている。精霊。聖なる木。導き。どれも、元の世界ではファンタジーの中でしか聞いたことがない単語だ。
「そこで、女神の導きを聞かないといけなくて」
「……女神ねぇ」
優斗の口元から、自嘲気味な苦笑が漏れた。この世界に来た時点で、非科学的な存在を否定するつもりはない。だが、改めて言葉にされると、自分の立っている地面がふわふわと浮ついているような、奇妙な浮遊感に襲われる。
「というか、やっぱり君は聖職者だったんだな。それで、その……精霊? とかの気配を頼りに進んでるってことか?」
「はい」
ソフィアは短く頷いた。だが、その横顔はどこか強張っている。ただの儀式や任務にしては、彼女が背負っている空気はあまりにも重く、鋭かった。
「……相当、切羽詰まった用事みたいだな」
「……そうですね。のんびりピクニック、というわけにはいかないんです」
一拍、間が空いた。そのわずかな躊躇と、無理に作ったような穏やかな微笑みが、何より雄弁に事情の深刻さを物語っていた。そんな大事な用事について行っていいのか、という自分がいる反面、無理やりついていくと言い出したのは自分だという自覚もある。脳裏に浮かんだその考えを振り払うべく優斗は、努めて明るいトーンで話題を切り替えた。
「そういえばさ、まだ名前聞いてなかったよな」
「……あ」
少女の足が、ぴたりと止まった。数秒の静止。それから彼女は再び歩き出したが、何かに躓いたわけでもないのに、足取りがぎこちなくなった。
「私の名前……」
彼女は唇を噛み、優斗をちらちらと盗み見る。名前一つ教えるのに、なぜ爆弾の起爆スイッチを押すような覚悟をしているのか。名前を教えあうにはまだ親密度が足りなかったか。だとしたら、優斗はコミュニケーション能力の欠如を内省するばかりだ。
「……私の名前は、ソフィアです」
凛とした、けれどどこか寂しげな声だった。その瞳に宿る感情は複雑だ。何かを断ち切るような覚悟、この先に待つ運命への恐怖。それらすべてが不可解に入り混じっている。
「ソフィア、か。いい名前だな」
「……え?」
「いや、こっちの世界は横文字の名前が多いんだろうなとは思ってたけどさ。響きが綺麗で、君によく合ってる」
何気ない、ただの感想。だが、ソフィアと名乗った少女はその言葉を受けて、目を見開き小さく肩を震わせた。
「……え?」
「ん? どうした?」
「い、いえ……あの……」
ソフィアは視線を彷徨わせ、行き場をなくした指先で自らの胸元を強く握りしめた。顔にわずかな朱が差したが、それは羞恥というより、もっと切実な、呼吸の仕方を忘れてしまった者の動揺に近い。彼女は深く、深く息を吐き出すと、崩れかけた表情を無理やり押し殺すように姿勢を正した。
「私はソフィアで、聖職者……です」
「うん。さっき聞いたよ?」
「――っ」
今度こそ、彼女は完全にフリーズした。言葉を失い、逃げるように視線を足元へ落とす。
「……えっと、何か失礼なこと言っちゃった? 俺、あんまりこの国の常識に詳しくないからさ、そういう事してたなら謝りたいんだけど……」
「いや、違うの! 違うんです!」
ソフィアはぶんぶんと首を振った。
「いや、そうじゃなくて……あの、その……」
しどろもどろになりながら、言葉を探す。やがて、ふっと何かに気づいたように目を瞬かせた。
「……あ、そっか。なるほど。そういうこと……なんですね」
「何が?」
「いえ、なんでもないです。ごめんなさい、取り乱してしまって……」
なぜか一人で得心がいったようで、彼女はふう、と深く息をついて落ち着きを取り戻した。そして、歩みを止めぬまま、静かに語り始めた。
「……今の帝国のこと、どこまでご存知ですか?」
「いや、全く知らない。さっきも言った通り、俺は遠くから来たばかりだからな」
「そうですか……。新しい皇帝陛下が即位されてから、聖教は帝国にとって良くないものとして扱われるようになりました」
淡々とした語り口。だが、声の奥には悲しみを押し殺したような硬さが混じっている。
「最初は、まだよかったんです。礼拝を減らされたり、その……少しずつ、で……。でも今朝、急に兵士の人たちが教会に来て……」
「理由も言わずに、ただ従わない者は反逆者だと。皆を、連れ去ろうとしたんです」
「……」
「それで……私だけが、逃がされました。教会に秘匿されていた、古い転移の魔道具を使って」
彼女の拳が袖をぎゅっと握りしめる。
「みんな、私が逃げる時間を稼ぐために、残って……。だから、私は立ち止まれないんです。女神様の導きを得て、どうすればみんなを救えるのか、その答えを持ち帰らなきゃいけない。私一人の力では、あまりにも無力だから……」
逃げ延びたことを使命という名の呪いとして、その細い肩に無理やり乗せようとしている彼女。なぜか、それを見ているだけで、ひどく胃の辺りが浮きつくような不快な眩暈がする。
「それは……」
かける言葉が、見つからない。「大変だったな」なんて言葉は軽薄に過ぎるし、「頑張れ」なんて無責任なことも言えない。優斗のこれまでの人生経験は、こんな時にどんな言葉をかけるべきなのか教えてくれない。国家と宗教。権力と信仰。教科書の中の歴史的事件としてしか知らなかった対立が、今、目の前の少女の震える肩越しに現実として突きつけられている。
……マジで、とんでもないところに来ちまったんだな。
異世界という実感。それがこれほどまでに重苦しく、血の臭いが混じったものだとは思いもしなかった。その時だった。
「――っ、大変です!」
ソフィアの鋭い叫びが、森の静寂を切り裂いた。反射的に顔を上げると、彼女はすでに駆け出していた。その視線の先――少し開けた場所に、人影が見えた。地面に倒れている、誰か。
「ちょっと待って!」
優斗は咄嗟に声を張り上げ、彼女を追った。間一髪でその腕を掴み、足を止めさせる。腕を掴んだ瞬間、自分の手が震えていることに気づいた。気づいて、気づかないふりをした。
「どうしたんですか!? 早く助けないと、あの子――」
「落ち着け。よく見ろ」
優斗は目を細め、倒れている人影を観察した。小柄な体躯だが、身に纏っているのは旅人の服ではない。鈍く光る胸当て、腕を守る篭手。腰には手入れの行き届いた剣が帯びられている。
「どう見ても兵士だろ。それも、そこそこちゃんとした装備の」
「……」
「さっき言ってた、教会を襲った連中と同類じゃないのか?」
ソフィアは言葉を失い、唇を震わせた。だが、彼女は優斗の掴んだ手を、自身の柔らかな手でそっと包み込み、そして優しく解いた。
「……そうですね。ユウトさんの仰ることは、とっても正しいんだと思います」
彼女は振り返り、困ったような、けれどどこか吹っ切れたような微笑みを向けた。
「でも、あの方が今、苦しんでいるのも本当なんです。ここで見捨ててしまったら……私、きっと教会に残ってくれたみんなに顔向けできません。明日からの自分のことが、嫌いになってしまうと思うんです」
「……ソフィア」
「それに、あの方にも帰りを待つ大切な人がいるかもしれません。そう考えたら、私は自分のためにあの方を見捨てるなんて、考えられないんです。ですから、お願いです。ちょっとだけ、私のおせっかいに付き合ってくれませんか?」
理屈ではなかった。損得でも、生存戦略でもない。それがソフィアという、目の前に立つ人間のわがままなのだと、彼女の眼差しが静かに告げていた。
優斗は、一瞬だけ目を閉じた。
……兵士だ。さっきソフィアから聞いた話の、あの連中だ。倒れているのがどんな事情であれ、目を覚ませば真っ先に俺たちを敵と見なすかもしれない。そもそも、そいつを助けるためにここで立ち止まるという選択肢自体、この状況では悪手もいいところだ。
分かってる。全部分かってる。
目を開くと、ソフィアがまだこちらを見ていた。責めてもいない。急かしてもいない。ただ待っている。その静けさが、どうしようもなく腹立たしかった。こっちが断れば、こいつは一人で行く。それだけは確信できた。
――一人にしたら、絶対ろくなことにならない。
それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。少なくとも、そういうことにしておく。
「……分かったよ。分かったから、一人で行くな。二人で一緒に行くぞ」
「ユウトさん……ふふ、ありがとうございます」
「礼を言うな。助けられた俺が言うのもなんだけどさ、ソフィアはとことん損する性格だと思うぜ」
そんな言葉を言い残して、優斗は警戒を解かぬまま、倒れた兵士へと歩み寄った。




