第三話 森を歩く理由
どれくらい歩いただろう。森の中は深くて、時間の感覚がおかしくなる。優斗は、川沿いで出会った少女と共に、深い森の奥へと歩を進めていた。
「そういえば、君がこの森でやることって何なの? まさかその格好でピクニックってわけでもないだろうし」
重苦しい沈黙に耐えかねて、優斗は彼女の少しダボついた、部屋着のような服を指差しながら問いかけた。少女はふふっと、困ったような、けれどどこかおっとりとした笑みを浮かべて振り返る。
「探し物があるんです」
「探し物?」
「はい。これほど生命の気配に満ちた森なら、精霊の多く宿る聖なる木があるはずですから」
精霊。聖なる木。
言葉だけなら、優斗にも聞き覚えはある。ゲームや小説の中で、飽きるほど見てきた単語だ。だが、目の前の少女はそれを冗談ではなく、当たり前のものとして口にした。
優斗は思わず周囲を見回す。どれだけ目を凝らしても、そこに見えるのは苔むした木と、湿った土と、得体の知れない植物ばかりだ。精霊らしきものは見えない。いや、そもそも精霊らしきものがどう見えるのかも分からない。
「……精霊って、本当にいるのか?」
口にしてから、しまったと思った。この世界の常識を知らない自分が、当たり前みたいに否定するのは危ない。だが、少女は気を悪くした様子もなく、少しだけ首を傾げた。
「ユウトさんの故郷には、精霊はいないんですか?」
「少なくとも、俺は見たことないな。いたとしても、ニュースにはならなかった」
「にゅーす?」
聞き慣れない響きを確かめるように、少女は小さく首を傾げた。唇の上でその言葉をもう一度転がすみたいに、きょとんとした瞳が優斗へ向けられる。
「あー……遠くで起きたことをみんなに知らせる仕組み、みたいなやつ」
少女はぱちりと瞬きをした。それから、感心したように紅い瞳を少しだけ輝かせた。
「それなら、遠くで困っている人のことにも、気づけますね」
まっすぐな声だった。その素直な受け取り方に、少しだけ居心地が悪くなる。
「分かる、っていうか……分かった気になれる、というか」
言いながら、自分でも何を説明しているのか分からなくなる。スマホもテレビもない場所で、ニュースという概念をどう説明すればいいのか。しかも相手は精霊と聖なる木を当たり前に語る少女だ。
どちらの世界の常識がずれているのか、だんだん分からなくなってくる。
少女はくすりと笑った。
「でも、精霊はいますよ。姿は見えないことが多いですけど、風の流れや、草木の息遣いの中に宿っていると言われています」
「言われています、ってことは、君にも見えてるわけじゃない?」
「私は、はっきり見えるわけではありません。ただ……ここは、少しだけ優しい感じがします」
「優しい?」
「はい。生命が濃い場所は、空気が柔らかいんです。手を伸ばせば、誰かがそっと握り返してくれるような……そんな感じがします」
彼女はそう言って、木々の間に手を伸ばした。細い指先が、葉の隙間から落ちる淡い光に触れる。何も掴んでいないはずなのに、その横顔は本当に何かを感じ取っているように見えた。
「だから、もう少し奥に行けば、聖なる木に辿り着けるかもしれません」
「聖なる木って、さっき言ってたやつか」
「はい。精霊の多く宿る場所なら、女神の声も届きやすいはずですから」
少女は手を下ろし、木々の奥へ視線を向けた。
「私はそこで、女神の導きを聞かなければならないんです」
「……女神ねぇ」
優斗の口元から、自嘲気味な苦笑が漏れた。この世界に来た時点で、非科学的な存在を否定するつもりはない。だが、改めて言葉にされると、自分の立っている地面がふわふわと浮ついているような、奇妙な浮遊感に襲われる。
「というか、やっぱり君は聖職者だったんだな。それで、その……精霊? とかの気配を頼りに進んでるってことか?」
「はい」
ソフィアは短く頷いた。だが、その横顔はどこか強張っている。ただの儀式や任務にしては、彼女が背負っている空気はあまりにも重く、鋭かった。
「……相当、切羽詰まった用事みたいだな」
「……そうですね。のんびりピクニック、というわけにはいかないんです」
一拍、間が空いた。そのわずかな躊躇と、無理に作ったような穏やかな微笑みが、何より雄弁に事情の深刻さを物語っていた。
そんな大事な用事について行っていいのか、という自分がいる反面、無理やりついていくと言い出したのは自分だという自覚もある。
脳裏に浮かんだその考えを振り払うべく優斗は、努めて明るいトーンで話題を切り替えた。
「そういえばさ、まだ自己紹介してなかったよな。俺は榊原優斗。まあ……遥か東の地から来た、流れ者みたいなもんだ。君の名前は?」
転移ものの定番に則って、優斗はそう名乗った。細かい説明を避けられるうえに、それっぽい雰囲気まで出る。
実際、優斗は自分でも少し格好つけすぎたかと思いながら、内心では悪くない自己紹介だとさえ思っていた。
だが、それとは対照的に、少女はぴたりと足を止めた。
「……あ」
数秒の静止。それから彼女は再び歩き出したが、何かに躓いたわけでもないのに、足取りがぎこちなくなった。
「私の名前……」
彼女は唇を噛み、優斗をちらちらと盗み見る。優斗は口を閉じて、待った。名前一つ教えるのに、なぜ爆弾の起爆スイッチを押すような覚悟をしているのか。
名前を教えあうにはまだ親密度が足りなかったか。だとしたら、優斗はコミュニケーション能力の欠如を内省するばかりだ。
「……私の名前は、ソフィアです」
凛とした、けれどどこか寂しげな声だった。その瞳に宿る感情は複雑だ。何かを断ち切るような覚悟、この先に待つ運命への恐怖。それらすべてが不可解に入り混じっている。
「ソフィア、か。いい名前だな」
「……え?」
「いや、こっちの世界は横文字の名前が多いんだろうなとは思ってたけどさ。響きが綺麗で、君によく合ってる」
何気ない、ただの感想。口にしてから、少しだけ気恥ずかしくなって目を逸らした。だが、隣で小さく息を呑む気配がした。
「……え?」
「ん? どうした?」
「い、いえ……あの……」
ソフィアは視線を彷徨わせ、行き場をなくした指先で自らの胸元を強く握りしめた。顔にわずかな朱が差したが、それは羞恥というより、もっと切実な、呼吸の仕方を忘れてしまった者の動揺に近い。
彼女は深く、深く息を吐き出すと、崩れかけた表情を無理やり押し殺すように姿勢を正した。
「私はソフィアで、聖職者……です」
「うん。さっき聞いたよ?」
「――っ」
今度こそ、彼女は完全にフリーズした。言葉を失い、逃げるように視線を足元へ落とす。
「……えっと、何か失礼なこと言っちゃった? 俺、あんまりこの国の常識に詳しくないからさ、そういう事してたなら謝りたいんだけど……」
「いや、違うの! 違うんです!」
ソフィアはぶんぶんと首を振った。
「いや、そうじゃなくて……あの、その……」
しどろもどろになりながら、言葉を探す。視線があちこちに泳ぎ、両手が宙をさまよった。
やがて、ふっと何かに気づいたように、ぴたりと動きが止まった。目を瞬かせた。
「……あ、そっか。なるほど。遥か東の地から来たんですものね……」
「何が?」
「いえ、なんでもないです。ごめんなさい、取り乱してしまって」
なぜか一人で得心がいったようで、彼女はふう、と深く息をついて落ち着きを取り戻した。そして、歩みを止めぬまま、静かに語り始めた。
「……今の帝国のこと、どこまでご存知ですか?」
「いや、全く知らない。さっきも言った通り、俺は遠くから来たばかりだからな」
「そうですか……。新しい皇帝陛下が即位されてから、聖教は帝国にとって良くないものとして扱われるようになりました」
淡々とした語り口。だが、声の奥には悲しみを押し殺したような硬さが混じっている。
「最初は、まだよかったんです。礼拝を減らされたり、その……少しずつ、で……。でも今朝、急に兵士の人たちが教会に来て……」
「理由も言わずに、ただ従わない者は反逆者だと。皆を、連れ去ろうとしたんです」
「……」
「それで……私だけが、逃がされました。教会に秘匿されていた、古い転移の魔道具を使って」
彼女の拳が袖をぎゅっと握りしめる。それから、静かに息を吸った。
「みんな、私が逃げる時間を稼ぐために、残って……。だから、私は立ち止まれないんです。女神様の導きを得て、どうすればみんなを救えるのか、その答えを持ち帰らなきゃいけない。私一人の力では、あまりにも無力だから……」
逃げ延びたことを、使命みたいなものに変えて、その細い肩に無理やり乗せようとしている。少なくとも、優斗にはそう見えた。
魔獣への恐怖が消えたわけではないだろう。川辺で骨を見た時の青ざめた顔も、小さく漏れた悲鳴も、優斗は覚えている。それでも、彼女は他人の為に進むのだと決めている。
優斗の胸の奥が、じわりと熱くなる。憧れに近いのか、尊敬に近いのか、それとも自分との差を突きつけられた痛みなのか、優斗には判別できなかった。
「それは……」
口を開いても、その先が続かない。
「大変だったな」なんて言葉は軽薄に過ぎるし、「頑張れ」なんて無責任なことも言えない。優斗のこれまでの人生経験は、こんな時にどんな言葉をかけるべきなのか教えてくれない。
国家と宗教。権力と信仰。
教科書の中でしか見たことのないような対立が、今は目の前の少女の震える肩に乗っている。
とんでもないところに来てしまった。
その実感が、遅れて胸の底に沈んでいく。異世界という言葉に抱いていた浮ついた響きは、もうどこにもなかった。
その時だった。
森の奥で、枝の折れる音がした。
乾いた音は小さかった。けれど、今の優斗には妙にはっきりと聞こえた。考えるより先に身体が強張り、視線が音のした方へ向く。
木々の隙間が、揺れている。風ではない。葉が擦れ、低い茂みが押し分けられる。その奥に、何かがいる。
優斗は息を呑み、反射的にソフィアの前へ腕を出した。
「下がれ」
「え……? ユウトさん、どうしたんで――」
ソフィアの言葉は、最後まで紡がれなかった。
それも当然だろう。茂みの奥から現れた獣――いや、獣と呼ぶにはあまりにも異様なそれが、二人の前に姿を見せたからだ。
狼に似ていた。
ただし、優斗の知る狼とは大きさが違う。四つ足で立っているにもかかわらず、その背は優斗の頭よりも高く、もし後ろ足で立ち上がれば、優斗の身長を二つ重ねても届かないだろう。黒ずんだ毛並みは泥と血で固まり、ところどころに白い骨片のようなものが絡みついている。
口元から覗く牙は、短剣のように鋭かった。そこから、ぬらぬらと粘ついた唾液が糸を引いて滴り落ちる。地面に落ちたそれが、枯れ葉の上でいやに生々しく光った。
赤黒い目が、こちらを見下ろしていた。
ソレの喉の奥で、低い唸り声が鳴る。地面を震わせるようなその音に、優斗の背筋が凍った。
逃げろ、と本能が叫んでいる。
目の前のソレが何なのかを考えるより先に、身体の方が答えを出している。喉は乾き、膝は勝手に後ろへ下がろうとし、視線だけがソレから外せないまま、必死に木々の隙間を探していた。
魔獣。そう呼ぶしかないものが、そこにいた。




