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第二話 言い訳の果て

毎日18:30投稿予定。明日も2話投稿します

 ――見られている。


 理解した瞬間、全身の血が一気に引いた。やばい。理由なんて考えるまでもない。あれは、危険だ。


「俺を食おうってのかよ、チクショウ!」


 叫ぶとともに優斗は反射的に踵を返した。ソレに背を向け、森へ向かってがむしゃらに駆けた。逃げろ。考えるな。走れ。地面を蹴る。足がもつれる。視界が揺れる。それでも止まれない。止まったら終わる。木々の間へ。森の中へ。あの巨体なら入り込めないはずだ。そうだ、そうに決まってる。後ろを振り返る余裕なんてない。振り返った瞬間、何かが起きる気がして。


 風が鳴る。背後で、空気が爆ぜるような音がした。


 ――近い。


「くそっ、くそっ……!」


 肺が焼ける。喉が痛い。脚が鉛のように重い。運動不足の身体は、この土壇場で無情にも悲鳴を上げている。


 もっと速く。もっと、もっと――。


 枝をかき分け、ひたすらに前へ。視界を遮る葉も、不安定な足場も構っていられない。とにかく距離を置く、それしかない。背後で空気を引き裂く音が、執拗に耳を打つ。

 

「はっ、……はぁっ!」


 歯を食いしばり、細い幹の隙間をすり抜け、低い枝をかいくぐる。頬を裂く葉の感触すら、今はただのノイズだ。


 どれほど走っただろうか。羽音がわずかに遠のいたように聞こえる。耳元を支配していた暴風が、少しずつ後ろへと引いていく。それでも足は止めない。まだ、信用できるはずがない。


 少しずつ、足元の感触が変わってきた。湿った土から、乾いた硬い地面へ。木々の密度が増し、枝葉が重なり合って頭上を完全に覆い隠している。


 ――そして。


 ようやく、背後の圧が消えた。あの張りつくような視線も、空気を震わせる羽音も聞こえない。限界に達した膝が、がくがくと震えて勝手に止まった。


「っ、は……っ、は……!」


 膝に手をつき、むせ返るように酸素を求める。肺が焼ける。心臓が鼓動の音を耳元で打ち鳴らす。だが、追ってきていない。耳を澄ませても、聞こえるのは自分の荒い呼吸と、遠い風の音だけだ。


 ……逃げ、切ったのか?


 実感がじわじわと広がり、全身の緊張がほどけていく。膝が笑い、立っているのもやっとだ。大丈夫だ、あんなデカい化け物が、この密集した森の中を自由に動けるわけがない。


 助かった。ほんの少しだけ、休めば――。


 不意に、視界の端に違和感が落ちた。足元、木の根の隙間に。淡い紫色の光が、ゆらゆらと揺れている。


「……なんだ?」


 反射的に視線が吸い寄せられた。光は点ではない。細い筋となって、いくつも上から降り注いでいる。まるで、木漏れ日のように。思考が追いつくよりも早く、視線が上を向いた。重なり合う枝葉の隙間。その向こう側に、不気味に脈打つ紫色の光源があった。


「――は?」


 直後――世界が爆ぜた。鼓膜を突き破るほどの轟音。視界を埋め尽くしていた緑の壁が、暴力的に粉砕される。


「――ッ!?」


 衝撃波が全身を叩いた。身体が軽々と浮き上がる。地面が消え、景色が回転する。風が、刃となって森ごと自分を抉り取っていく。


「がっ――!」


 身体が宙に投げ出される。視界が赤い。遅れて、自分の血が宙を舞っているのだと気づいた。上下の感覚を失い、空へと放り出された体はやがて重力に従って、心臓を掴み上げられるような速度で、落下を始めた。次に見えたのは、荒れ狂う水面だった。

 

「――ッ!」


 冷たい。痛い。何もかも一気に押し寄せてくる。水。四方八方から叩きつけられる濁流に、全身が容赦なく飲み込まれる。


「がっ、――ッ、ごぼっ!」


 叫ぼうと開いた口から水が流れ込み、気道を焼くような痛みが走る。むせ返ろうにも、そのための空気すら存在しない。視界は光と影が歪んで混ざり合い、上下の感覚も消し飛ぶ。身体は激流に翻弄され、勝手に回転し――。


 不意に何かが弾けた。足。いや、どこだ。下半身のどこかが、唐突に焼けつく。冷たいはずの水の中で、そこだけが異様に熱い。鋭く、抉るような痛みが神経を引き裂き、思考を強引に引き剥がす。何にやられたのかも分からない。ただ、そこに何かが起きているという事実だけが、やけに鮮明に浮かび上がる。理解が追いつかないまま、次の瞬間にはその感覚すら激流に攫われる。


 ヤバい。これは本当に――まずい。


 意識が、途切れかける。その暗がりの中で、不意に別の光景が差し込んできた。


 ――顔だ。両親の顔。何か言っている。口が動いている。だが、声は聞こえない。そもそも、何を言われていたのかすら思い出せない。


 次に浮かぶのは、あの顔だった。差し伸べられた手。こちらに向けられた、何も責めない目。ぼーっとしていた自分を弾き飛ばして、それでも笑っていた。名前を呼ぶ声が、聞こえた気がした。


 ――でも、もう聞こえない。


 次に浮かぶのは、教室の風景だった。ざわめき。笑い声。誰かがこちらを見ている気がする。でも、それが誰なのか分からない。どうでもいいと思ってしまう自分がいる。中学。高校。大学。どれも、輪郭がぼやけている。思い出せるはずなのに、色がない。重みがない。手応えがない。あらゆる場面がフラッシュバックし、ぐちゃぐちゃに混ざって暗転していく。


 ……あぁ。


 理解してしまう。俺は、何もしてこなかった。何もやっていない。何も残していない。その事実だけが、妙に重く沈んでくる。冷たい『死』が迫りくる。ごぼごぼと、体中が水に満たされていく。開いた口から自分が外に流れ出していく、内と外との境界が溶けていく。自分が、自分じゃなくなっていく――。

 

 ――嫌だ。


 次なんて来ない。そんな都合の良い話なんてあるわけない。死んだら終わりだ。

 

 嫌だ。

 

 嫌だ、嫌だ。

 

 嫌だ嫌だ嫌だ――。

 

 嫌だ。こんなところで終わるなんて、冗談じゃない。


 ――死にたくない。死にたくない!


 微睡みを受け入れ、楽になろうとしていた体を必死に動かす。手を伸ばす。どこに向かっているのかも分からない。上も下も分からない。ただ、それでも何かを掴もうとする。本能が、まだ終わるなと叫んでいる。


 無様に、もがく。必死に、足掻く。みっともなくてもいい。それでも。


 それでも――。


 生きたい。


 息を吸おうとする。分かっているのに、身体が勝手に動く。


「――ッ、がぼっ!」


 入ってくるのは水だ。それでも。


 それでも――。


 終わりたくない。ここで終わるなんて、認めない。死にたくない。


 その瞬間。すべての音が、ふっと遠のいた。激流の轟きも、身体を打つ衝撃も、何もかもが一瞬で切り離されたかのように静まり返った。代わりに、異様なほどにはっきりとした声が、直接頭の中へと流れ込んでくる。


『条件の達成を確認。■■を代償に――』


 直後、優斗の意識は深い闇へと突き落とされた。

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