第二話 川沿いの出会い
「……あなた、こんなところで何してるんですか?」
鈴を転がすような声がした。こんな場所で聞こえるはずのない、あまりにも澄んだ声だった。
この世界に来て、初めて聞いた人の声。ただ、それに安堵できるほど、状況は易しくない。まずは、目の前の少女に確認すべきことがある。
「えーと、君がこの骨を集めてる猟奇殺人者だったりする?」
「えっ?」
少女の顔が固まった。
それから、優斗の視線を追うように足元を見る。白い破片。砕けた骨。土に混じった死骸の残骸。岩陰の周りに散らばるそれらに気づいた瞬間、少女の喉から小さな悲鳴が漏れた。
「ひっ……」
紅い瞳が大きく揺れる。
少女は青ざめた顔で、ふるふると首を振った。
「ち、違います。私、そんなこと……!」
「だよな。悪い。聞き方が最悪だった」
その反応だけで十分だった。
この少女は、骨に囲まれて平然としていられる人間ではない。なら、問題は彼女ではなく、この場所の方だ。
「逃げるぞ」
「え、あの――」
生憎、優斗に返事を待つ余裕はなかった。咄嗟に少女の手を掴み、川辺から離れるように森の中へ駆け出す。
掴んだ手は、思っていたよりもずっと細かった。力を込めれば簡単に壊れてしまいそうな感触に一瞬だけ戸惑いが走ったが、それを確かめている余裕はなかった。
湿った草がスニーカーに絡みつき、張り出した枝が腕を掠める。それでも、優斗は振り返らずに足を前へ出し続けた。
川の轟きが、少しずつ木々の向こうへ遠ざかっていく。けれど、それで安全になったとは到底思えない。
息はすぐに上がり、肺の奥が焼けるように痛み始める。泥に足を取られるたびに身体が前のめりになり、そのたびに掴んだ手を強く引きそうになって、慌てて力を緩める。それでも足は止まらなかった。
やがて、木々が背後の川辺を覆い隠した。水音はまだ聞こえる。けれど、少なくともあの骨の山は見えない。
そこでようやく、優斗は足を止めた。
「はぁ……はぁ……ここまで来れば、大丈夫、か……?」
言ってから、掴んだままだった手に気づく。
慌てて離すと、少女は乱れた金髪を片手で押さえながら、小さく息を整えていた。無理に引っ張られたせいか、少し驚いたように目を丸くしている。
「悪い。急に引っ張った」
「いえ……助けてくださり、ありがとうございます」
「助けたっていうか、俺が怖くなって逃げただけだけどな」
優斗がそう言うと、少女はまだ青ざめた顔のまま、木々の向こうを振り返った。つられるように、優斗もそちらを見る。
水音は遠い。骨の山も見えない。追ってくる何かの気配も、今のところはない。そこでようやく、肺の奥に張りついていた焦りが少しだけ緩んだ。
優斗は、改めて少女の横顔を見る。そして、今さらのように思った。
――綺麗だ。
まず目を奪われたのは、紅い瞳だった。灼けるように鮮やかなのに、不思議と刺々しさはない。幼さの残る顔立ちに、けれど子供らしさだけでは片づけられない静けさが宿っていた。
肩口で揺れる小麦色の金髪が、風にさらわれてかすかに流れる。目に映る全てが美しいからこそ、身にまとっているものに気づいた瞬間、優斗は奇妙なずれを覚えた。
彼女から感じる静けさに反して、着ているのは飾り気のない柔らかな布地だった。寝衣か、あるいは日常着か。少なくとも、こんな森の奥で、激流のすぐそばに一人でいた少女が身につけているには、あまりにも無防備な格好だった。
「あの~、大丈夫ですか?」
おずおずとした少女の声で、優斗はようやく我に返った。
しまった、と思った時にはもう遅い。見知らぬ少女の顔を、どれだけの間ぼうっと見つめていたのか分からない。
慌てて視線を外すと、少女もまた、木々の向こうへ目を向けていた。その横顔から柔らかさが消え、少しだけ声が低くなる。
「……おそらく、魔獣です」
「魔獣?」
物騒な単語が出てきたことに、優斗の背筋がまた冷えた。骨だらけの川辺から離れたはずなのに、足元の土まで急に頼りなく感じる。
少女は小さく頷いた。
「獲物を川辺まで運んで、食べ残しをあそこに溜めていたんだと思います。あれだけ骨があるなら、何度も同じ場所を使っているはずです」
「つまり……」
「縄張り、かもしれません」
優斗の喉が鳴った。
さっきまで自分がいた場所が、ただの川辺ではなく、何かの餌場だった。そう理解した瞬間、遅れて膝の力が抜けそうになる。
「マジかよ……」
「はい。今のこの森を一人で歩くのは、とても危険です。あなたは、早く森を出た方がいいと思います」
少女はそう言って、優斗へ向き直った。さっきまで骨を見て怯えていたはずなのに、その声はもう落ち着きを取り戻している。
「森を抜けて少し歩けば、街道に出られます。今は少し騒がしいかもしれませんけど、一般の方が通れないほどではないはずです」
「ちょっと待ってくれ」
優斗は思わず声を挟んだ。先ほどの少女の言葉が、脳内で繰り返される。
「あなたは、ってことは、君はこの森を出ないのか?」
「……はい。私は、この森でしなきゃいけないことがありますから」
「危ないんじゃないのかよ」
少女はこくりとうなずいた。
その反応が、優斗には却って分からなかった。骨を見た時の怯えは演技ではない。さっきの悲鳴も、青ざめた顔も、本物だったはずだ。
それなのに、逃げるという選択肢が、最初から彼女の中に存在していないように見える。
「こんな魔獣が出る森で、しなくちゃいけない事って何だよ。今は、自分の身の安全を大事に――」
「それは駄目です」
優斗の言葉を遮るように、少女は静かに言った。
声を荒げたわけではない。それなのに、そこには踏み込めば折れるのではなく、こちらの方が押し返されるような硬さがあった。
「私は、行かなくちゃいけないところがあるんです」
その紅い瞳は、迷っていなかった。
怯えていないわけではない。怖くないはずがない。それでも、足を止める理由にはならないのだと、そう言っているようだった。
優斗は小さく息を吐く。
「……じゃあ、俺もついて行っていいか? 一人より二人の方がまだマシかもしれないだろ。俺が何か手伝えるかもしれないし。ほら、魔獣が出た時に、俺が囮になるくらいはできるかもだろ?」
「囮は駄目です」
冗談めかして逃がしたつもりの言葉を、少女は即座に切り返した。
優斗は思わず口をつぐむ。
少女は少しだけ怒ったように眉を寄せていた。怒った、と言っても、怖さはない。ただ、困った子供を叱るような、そんな表情だ。
「自分をそんなふうに使うのは、よくないです」
「……悪い」
「それに、私もあなたを危ないところへ連れていきたいわけじゃありません」
「分かってる。分かってるけど……」
そこで、優斗は言葉を切った。
無理に連れていけと頼んでいる自覚はあった。戦えるわけでもない。道を知っているわけでもない。実際、さっきだって骨に怯えて逃げ出しただけだ。
けれど、目の前の少女を一人で森の奥へ行かせる方が、よほどまともではないように思えた。
「俺一人で街道を探すのも危ない。君一人で森の奥に行くのも危ない。だったら、せめて途中までは一緒に動いた方がいいだろ」
「……途中まで?」
「ああ。君の用事が終わるまででいい。そのあと、街道まで案内してくれれば助かる」
「でも……」
少女はまだ迷っていた。胸元に寄せた手を、何度も握っては開く。指先に力がこもり、またほどける。
優斗を置いていくことへの躊躇いと、優斗を連れていくことへの躊躇い。その両方を抱えたまま、答えを出せずにいるようだった。
「俺が役に立つとは言わない。でも、さっきみたいに危ない場所に気づいたら教えることくらいはできる。少なくとも、一人よりはマシだろ」
「……本当に、私の用事が終わるまでですよ?」
やがて、少女は小さく息を吐いた。
「危ないことはしない。勝手に離れない。あと、囮になるとか言わない。約束できますか?」
「ああ。できる」
少女はじっと優斗を見つめた。
疑っているというより、心配している目だった。少しの間を置いて、彼女は仕方ありませんね、とでも言いたげに肩の力を抜く。
「分かりました。一緒に行きましょう」
その言葉を聞いた瞬間、優斗の胸の奥に張りついていた不安が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ありがとう」
「……お礼を言うのは、まだ早いです。私はあなたを危ない場所に連れていくんですから」
少女はそう言って、少し困ったように目を伏せる。
「それでも、ここで一人にされるよりずっといい」
少女は何かを言いかけて、けれど結局、言葉にはしなかった。
ただ、少しだけ困ったように眉尻を下げる。その表情には呆れも混じっていたが、突き放すような冷たさはなかった。




