第一話 異世界転移ってやつ!?
毎日18:30に投稿予定。本日は二話投稿予定です。21時くらいに二話目投稿予定。
最初に感じた異変は、鼻腔を満たす湿った苔の匂いだ。土と水が混ざり合ったような、むせ返るほど濃い匂い。吸い込むたびに肺の奥が重くなる。息を吐いても、胸の奥に湿り気が張り付いたまま剥がれない。
――こんな匂い、部屋で嗅ぐはずがない。
ぼんやりとした意識のまま、そんな当たり前の違和感だけが浮かぶ。続いて、頬に触れている感触に気づいた。冷たい。ざらついている。フローリングでも畳でもない。もっと無機質で、硬質な――石?
目を開くと、そこは木々が鬱蒼と生い茂る森の中だった。広さは六畳ほどだろうか。そこだけ木々が退けられたようにぽっかりと空いている。地面には規則正しく並べられた石畳。だがその多くはひび割れ、隙間からは濃い緑の苔が這い出している。まるで、ここだけ時間が止まったあと、ゆっくりと自然に侵食されたみたいだ。中央には、人の背丈ほどの高さの古びた石碑のようなものがあった。表面は風化して掠れており、かろうじてミミズがのたくったような見たこともない文字列が刻まれていることがわかる。日本語でも英語でもない見たことのない記号。
――誰かが作った場所だ。そして、長い間、誰も訪れていない。
「ここ、どこだ……?」
見下ろした自分の体は、変わらず情けないままだった。アイロンという概念が宇宙の果てにでも消えていったような、不恰好なシワだらけのTシャツ。色白な肌に細身な体。これが榊原優斗だ。どこからどう見ても、日光を浴びていない引きこもりの二十代だ。
まあ、いい。これは……そうだ。アニメや小説で死ぬほど見てきたやつだ。異世界転移、というやつではないのか。
「それじゃあ、異世界にきた俺には何らかの能力が付与されているはずだろ。本来地球の人間は扱えない魔法の才能とか、物の価値を調べる鑑定スキルとか」
淡い期待を抱き、それらしい言葉を口にしてみるが何も起きない。「ステータス・オープン」と唱えても虚空にウィンドウは表示されず、石畳を殴ってみても拳を痛めただけだった。
……まあ、女神と対面した記憶がない以上、チートなど最初からなかったのかもしれない。そういうことにしておこう。問題は今の自分には水も食料もないという、もっと現実的なやつだ。ポケットを漁ると、スマホもない。完全に手ぶらだ。
「クッソ。せっかく異世界に来たってのに当てもなく森を歩き回るとかマジかよ」
冷え切った森を歩くにつれ、頭を支配していた高揚感は徐々に冷めていく。そもそも、ここは本当に異世界なのか。両親が寝ている隙に自分を森へ捨てただけではないのか。現に、今の自分はチート能力の片鱗すら感じられていない。とはいえ、この仮定は優斗が運ばれていることにも気づかないほどの「とんだ間抜け」でないと成立しないわけだが――。
「――ッ!」
自分が救いようのない間抜けだということくらい、自分が一番分かっている。胸を焼くようなその自覚を振り払うべく、優斗は強く足を踏み出した。その代償として、地面に落ちていた枝がパキリと折れ、足が深く沈み込む。
「なんだ……?」
違和感に足元を見ると、地面が妙にぬかるんでいた。周囲を見渡すと、湿った土は森の奥へと続いており、耳を澄ませばその先から水の音が聞こえてくる。
「流れる音……。もしかして川か!?」
優斗は逸る気持ちを抑えきれず音のする方角へ向かう。水があれば水分補給はもちろん、魚がいるかもしれない。そうなれば、今抱えている食住の問題が一気に好転する。そう思った瞬間、胸の奥にわずかな余裕が生まれた。逸る気持ちで木々の群れを追い越し、草むらを駆け抜けて、視界が開けた先には――。
「川……。っていうより、これは……」
響いてくる豪快な水音――そう、豪快な水音が優斗の耳に届く。目の前に見えるのは川と表現するにはあまりに荒々しい、激流と呼ぶべきものだった。魚を探すどころか、不用意に近づけば一瞬で飲み込まれてしまいそうだ。だが、せっかく見つけた唯一の水源なのだ。
「これが上流で、川沿いにしばらく下ったら水の流れが穏やかになるって線はどうだ?」
小学生の理科で習った川は上流ほど急で下流に行くにつれ緩やかになる、という知識が脳裏をよぎる。心の中で、名前も思い出せない恩師に感謝しながら、優斗は川沿いを下ろうとした。だが、森の中とは違い、川岸は巨大な岩が不揃いに突き出しており、足場は最悪だった。元来た道へ戻り、森の中を通って下流を目指そうとしたその時。
優斗の足元で、ボキリという鈍い音が響いた。枝でも踏んだかと思い、何気なく視線を落とす。白い、細長いものが転がっていた。石……にしては軽そうで、妙に滑らかだ。湾曲したその形は自然物にしては整いすぎている。違和感に引っかかりながら、優斗はしゃがみ込み、それに手を伸ばしかけて――止めた。
――骨だ。
理解した瞬間、世界の見え方が変わった。さっきまでただの岩だと思っていた白い塊。起伏の激しい地面だと認識していた足場。それらの中に、同じ質感の骨が混じっていることに気づく。いや、混じっているどころではない。至るところに転がっている。折れたもの、砕けたもの、形を保ったままのもの。大きさもまちまちで、人間の腕ほどのものから、明らかにそれ以上の巨大な骨まである。
「なんだよ……これ」
喉の奥が、ひゅっと狭くなる。恐る恐る視線を上げると、岩壁のように見えていたものの正体にも気づいてしまった。白と灰色がまだらに重なったそれは、単なる岩ではない。骨と、風化した死骸の集合体だ。長い時間をかけて積み重なり、削られ、固まり、まるで地形の一部のようにそこにある。
「……ここ、なんなんだよ」
さっきまでの水があるという安堵は、優斗の中から完全に消え失せていた。代わりに胸の奥へと広がっていくのは、じわじわとした嫌な予感だ。こんな場所が安全なわけがない。むしろ逆だ。ここは――『何か』がいる場所だ。
ざっ、と風が吹いた。その瞬間、背筋に粟立つような感覚が走る。理由は分からない。だが、本能が警鐘を鳴らしていた。
――ここにいてはいけない。
優斗は反射的にその場から離れようとした。だが、その動きよりも早く、視界がふっと陰る。地面に落ちる影が、急速に広がっていった。雲でもかかったのかと思い、優斗は反射的に顔を上げた。
次の瞬間、轟、と空気が唸った。強烈な風圧が上から叩きつけられ、思わず身体がよろめく。
何かが――いる。
理解が追いつくよりも先に、巨大な影が頭上を横切った。反射的にのけぞり、尻もちをつく。そのすぐ上を、何かが通過した。遅れて、音が来る。バサァン――と、空気を叩き潰すような羽ばたき。耳を打つ轟音。鼓膜がびりびりと震える。
あり得ないと、あり得てはいけないと思った。だが、否定する間もなく、ソレは再び旋回して戻ってくる。空を切り裂くように旋回し、ゆっくりと高度を落としながら、優斗の正面へと姿を現した。
――デカい。
その一言しか出てこない。両翼を広げれば、優斗の視界を覆い尽くすほどの大きさ。過剰に内曲したかぎ状のくちばし。光を反射して鈍く輝く鋭利な爪。そして、胸部には不自然に露出した、紫色の石。それは生物の一部とは思えない異物感を放ちながら、脈打つように微かな光を放っていた。
鳥のようでいて、明らかにただの鳥ではない。だが、優斗の知識では鳥としか形容することのできないソレは、ゆっくりと首を傾けた。値踏みするように。獲物を観察するように。その視線が、自分に向けられていると理解した瞬間――。
優斗の背中を、冷たい汗が伝った。




