第十話 空っぽの正しさ
「……引き渡すって、本気で言ってるの?」
低く、地を這うような響きだった。
「本気だ」
返した声は、優斗自身も驚くほど静かだった。
帝国軍には医療がある。皇帝が捕まえろと言っているなら、死なせるつもりはないはずだ。
このまま何もしなければ確実に死ぬ。だったら、まだ可能性がある方に賭けるしかない。
それだけのことだった。
「正気なの? この人は、あなたを助けたのよ。それを――帝国に渡すなんて」
エリシアの瞳には、強い拒絶と、信じられないものを見るような絶望が混濁している。
「じゃあどうするんだよ。現実見ろ。それとも、他に何か方法があるのか?」
「……それはッ。――でも……!」
やはり、続く言葉はなかった。
勢いよく開かれたエリシアの唇が、行き場を失って微かに震える。
その刹那の沈黙こそが、過酷な現実の証明だった。
エリシアにも、そして優斗にも、この絶望を塗り替えるための第三の道など、最初から用意されてはいない。
優斗は、逃げ場を塞ぐみたいに、エリシアを真正面から見据えた。
「でもじゃねえよ。現実見ろ」
突き放すように吐き捨てる。
「じゃあ、このままここで回復を待つ? さっき見ただろ。治ってないんだよ。俺たちにソフィアを治す手段はない。時間もない。だったら――まだ可能性がある方に賭けるしかないだろ。ソフィアを助けたいなら、それしかない」
「……それでも! それでも、私は認めない!」
弾けるような絶叫が、狭い空間に反響した。
「帝国に引き渡して、それでもしソフィアさんに何かあったらどうするの!? そんなの、見捨てるのと一緒でしょ……!」
目の前の少女が何を言っているのか、優斗には理解できなかった。
なぜ、そんな話になるのか。
今は、助ける方法の話をしているはずだった。
「このままなら確実に死ぬ。帝国なら可能性がある。どっちに賭けるかの話だ」
「可能性って言葉で誤魔化さないで。ソフィアさんを見てよ! あなたを助けた人よ。その人を、信用できるかも分からない人間に差し出すことの何が正しいの!?」
「助けた人を売るのは、どう言い繕っても裏切りじゃない。あなただって、本当は分かってるでしょ」
優斗の胸の奥で、鈍い痛みが軋むように広がった。息を吸った瞬間、熱が喉を焼く。
それが何なのか、優斗には分からない。分からないまま、それでも黙っていられなかった。
喉の奥で焼けついた熱は、言葉の形をして吐き出される。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「――うるせぇよ」
気づいた時には、低い声が出ていた。
「裏切りでも何でもいい。でもソフィアを助けるには、これしかないんだよ」
「それでも……そんなの、納得できない……」
エリシアは絞り出すように言葉を漏らす。
なぜ分からないのか。これしかないはずだ。
「お前がこうやって反論してるうちにも、ソフィアの命は削れてる。俺はソフィアを死なせたくない。それだけだ」
エリシアの肩が、びくりと跳ねた。
なぜ止めるのか。なぜ分からないのか。
このままでは終わる。それだけの話のはずだ。
「お前だって助けられたんだから分かるだろ。助けられた人間なりに、命を救おうとしてるだけなんだよ。それとも、このまま見殺しにするのか?」
「……っ、それは――」
エリシアの声が震える。
言葉は、そこで途切れた。エリシアは何かを言おうとして、けれど声にできないまま唇を噛みしめる。
それでも、引き下がる気配はなかった。
どうして、この少女はまだ――。
「正しいとか正しくないとか、そんなの今はどうでもいい。このままじゃ死ぬんだよ。死んでからじゃ遅いんだよ」
言いながら、何かがおかしいと思った。
エリシアが、泣きそうな顔をしていた。
怒っているはずなのに、睨みつけているはずなのに、その目元だけが今にも崩れそうに歪んでいる。
どれくらい、そうしていただろうか。
エリシアの眉が、かすかに寄った。怒りではない。責めているわけでもない。唇がわずかに震えている。
「……じゃあ、なんでソフィアさんのことさっきから一度も見てないの」
無意識に、優斗の腕の力が強まる。
抱えているはずの身体が、やけに軽く感じた。
その軽さが、ぞっとするほど現実味を帯びて、指先に力が入る。
「……助けたいなら」
エリシアの声が、わずかに掠れた。
唇が震えている。
噛み締めた奥歯の隙間から、細い息が漏れた。
目尻が熱を堪えるみたいにわずかに歪む。
それでも、涙だけは落ちなかった。
「ちゃんと、見てあげてよ。ずっと私を見てる場合じゃないでしょ」
優斗は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を強く押さえつけられたように息を止めた。
反論しようとしたわけではない。何かを言い返せるだけの言葉が、そこに残っていなかった。エリシアの顔を見ていた視線は、抗うこともできないままゆっくりと落ちていき、ようやく、自分の腕の中にいる少女へと辿り着く。
ソフィアは、そこにいた。
優斗が助ける方法を探している間も、エリシアに怒鳴っている間も、諦めたくないのだと自分に言い聞かせている間も、彼女はずっと、優斗の腕の中にいた。
ソフィアは目を閉じていて、長い睫毛だけがかすかに震えていた。
血の気を失った頬は生きている人間のものとは思えないほど白い。薄く開いた唇からこぼれる呼吸は浅く、不規則で、今にも途切れてしまいそうに頼りなかった。
いつから、見ていなかったのか。
不意に、紅い瞳が脳裏に浮かんだ。
ソフィア一人なら逃げられたかもしれない状況で、それでも優斗を気遣い、魔獣へ魔法を放っていた横顔を。
倒れた兵士を見つけた瞬間、考えるより先に駆け出していた足を。捕まえると言われても、傷ついた体を支え続けていた手を。
そういう生き方しかできない人間が、今、腕の中で浅い呼吸を繰り返している。
助けたい。ずっとそう思っていた。それだけのために動いていた、はずだったのに……。
吐き気がした。胃の底がひっくり返るようだ。喉の奥が焼けて、息をするたびに胸の内側がざらつく。
何をしていた。
この子を助けたいのだと叫びながら、助ける方法ばかりを並べていた。あれは駄目だ、これならどうだ、他に手はないのかと、エリシアに怒鳴り続けていた。
必死だった。必死だったはずだ。けれど、その必死さの中で、優斗は一度もソフィアの顔を見ていなかった。
苦しいのか。怖いのか。何かを言いたそうにしているのか。そんな当たり前のことさえ、見ようとしていなかった。
腕の中にいる少女の顔を見る。血の気の失せた頬。薄く開いた唇。焦点の定まらない紅い瞳。
ソフィアは、そこにいた。
方法でも、選択肢でも、救うべき対象でもなく、今にも消えてしまいそうな一人の少女として、そこにいた。
それを、見ていなかった。
それが、自分だったのか。
そう突きつけられた瞬間、優斗は腕の中の体温を、嫌になるほどはっきりと感じた。
「……俺は」
優斗の口から漏れ出たのは、掠れた声だった。エリシアから目を逸らして、腕の中のソフィアを見る。
「……ソフィアを助けなきゃって、そればっかりで」
エリシアは何も言わなかった。ただ、張り詰めていた表情がわずかに揺れる。
怒っているのか、泣きそうなのか、彼女自身にも分かっていないみたいな顔だった。
「……ごめん。やっぱり、よく分からない」
それでも、視線だけは、もうエリシアではなく腕の中の少女へ向けている。
「でも、これだけは分かる。死んでほしくないのは、本当だ」
エリシアは何も言わなかった。ただ、腕の中のソフィアを見ていた。
優斗も、もう何も言えなかった。
ソフィアの浅い呼吸だけが、二人の間で不規則に続いている。
やがて、エリシアが小さく息を吐いた。
「……私も、死んでほしくない」
独り言みたいな声だった。優斗に言っているのか、エリシア自身に言い聞かせているのか、分からないような。
エリシアは一度だけ唇を噛み、視線をソフィアに向ける。
それから、感情を押し込めるみたいに小さく息を吐く。
「……案内、する」
エリシアは、震える声で呟いた。泣きそうな顔のまま、それでも小さく頷く。
「……こっち」
震えを押し殺した背中を追いながら、優斗は腕の中に感じる体温に、指先を強く食い込ませた。
正しいかどうかなんて、もう分からなかった。
それでも――この体温だけは、消えてほしくなかった。




