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逃げ癖高校生は、誰も見捨てられない聖女を救いたい  作者: きわみん
第一章 『始まりの森』

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第十話 空っぽの正しさ

「……引き渡すって、本気で言ってるの?」


 低く、地を這うような響きだった。


「本気だ」


 返した声は、優斗自身も驚くほど静かだった。


 帝国軍には医療がある。皇帝が捕まえろと言っているなら、死なせるつもりはないはずだ。


 このまま何もしなければ確実に死ぬ。だったら、まだ可能性がある方に賭けるしかない。


 それだけのことだった。


「正気なの? この人は、あなたを助けたのよ。それを――帝国に渡すなんて」


 エリシアの瞳には、強い拒絶と、信じられないものを見るような絶望が混濁している。


「じゃあどうするんだよ。現実見ろ。それとも、他に何か方法があるのか?」


「……それはッ。――でも……!」


 やはり、続く言葉はなかった。


 勢いよく開かれたエリシアの唇が、行き場を失って微かに震える。


 その刹那の沈黙こそが、過酷な現実の証明だった。


 エリシアにも、そして優斗にも、この絶望を塗り替えるための第三の道など、最初から用意されてはいない。


 優斗は、逃げ場を塞ぐみたいに、エリシアを真正面から見据えた。


「でもじゃねえよ。現実見ろ」


 突き放すように吐き捨てる。


「じゃあ、このままここで回復を待つ? さっき見ただろ。治ってないんだよ。俺たちにソフィアを治す手段はない。時間もない。だったら――まだ可能性がある方に賭けるしかないだろ。ソフィアを助けたいなら、それしかない」


「……それでも! それでも、私は認めない!」


 弾けるような絶叫が、狭い空間に反響した。


「帝国に引き渡して、それでもしソフィアさんに何かあったらどうするの!? そんなの、見捨てるのと一緒でしょ……!」


 目の前の少女が何を言っているのか、優斗には理解できなかった。


 なぜ、そんな話になるのか。


 今は、助ける方法の話をしているはずだった。


「このままなら確実に死ぬ。帝国なら可能性がある。どっちに賭けるかの話だ」


「可能性って言葉で誤魔化さないで。ソフィアさんを見てよ! あなたを助けた人よ。その人を、信用できるかも分からない人間に差し出すことの何が正しいの!?」


「助けた人を売るのは、どう言い繕っても裏切りじゃない。あなただって、本当は分かってるでしょ」


 優斗の胸の奥で、鈍い痛みが軋むように広がった。息を吸った瞬間、熱が喉を焼く。


 それが何なのか、優斗には分からない。分からないまま、それでも黙っていられなかった。


 喉の奥で焼けついた熱は、言葉の形をして吐き出される。


「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」


「――うるせぇよ」


 気づいた時には、低い声が出ていた。


「裏切りでも何でもいい。でもソフィアを助けるには、これしかないんだよ」


「それでも……そんなの、納得できない……」


 エリシアは絞り出すように言葉を漏らす。


 なぜ分からないのか。これしかないはずだ。


「お前がこうやって反論してるうちにも、ソフィアの命は削れてる。俺はソフィアを死なせたくない。それだけだ」


 エリシアの肩が、びくりと跳ねた。


 なぜ止めるのか。なぜ分からないのか。


 このままでは終わる。それだけの話のはずだ。


「お前だって助けられたんだから分かるだろ。助けられた人間なりに、命を救おうとしてるだけなんだよ。それとも、このまま見殺しにするのか?」


「……っ、それは――」


 エリシアの声が震える。


 言葉は、そこで途切れた。エリシアは何かを言おうとして、けれど声にできないまま唇を噛みしめる。


 それでも、引き下がる気配はなかった。


 どうして、この少女はまだ――。


「正しいとか正しくないとか、そんなの今はどうでもいい。このままじゃ死ぬんだよ。死んでからじゃ遅いんだよ」


 言いながら、何かがおかしいと思った。


 エリシアが、泣きそうな顔をしていた。


 怒っているはずなのに、睨みつけているはずなのに、その目元だけが今にも崩れそうに歪んでいる。


 どれくらい、そうしていただろうか。


 エリシアの眉が、かすかに寄った。怒りではない。責めているわけでもない。唇がわずかに震えている。


「……じゃあ、なんでソフィアさんのことさっきから一度も見てないの」


 無意識に、優斗の腕の力が強まる。


 抱えているはずの身体が、やけに軽く感じた。


 その軽さが、ぞっとするほど現実味を帯びて、指先に力が入る。


「……助けたいなら」


 エリシアの声が、わずかに掠れた。


 唇が震えている。


 噛み締めた奥歯の隙間から、細い息が漏れた。


 目尻が熱を堪えるみたいにわずかに歪む。


 それでも、涙だけは落ちなかった。


「ちゃんと、見てあげてよ。ずっと私を見てる場合じゃないでしょ」


  優斗は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を強く押さえつけられたように息を止めた。


 反論しようとしたわけではない。何かを言い返せるだけの言葉が、そこに残っていなかった。エリシアの顔を見ていた視線は、抗うこともできないままゆっくりと落ちていき、ようやく、自分の腕の中にいる少女へと辿り着く。


 ソフィアは、そこにいた。


 優斗が助ける方法を探している間も、エリシアに怒鳴っている間も、諦めたくないのだと自分に言い聞かせている間も、彼女はずっと、優斗の腕の中にいた。


 ソフィアは目を閉じていて、長い睫毛だけがかすかに震えていた。


 血の気を失った頬は生きている人間のものとは思えないほど白い。薄く開いた唇からこぼれる呼吸は浅く、不規則で、今にも途切れてしまいそうに頼りなかった。


 いつから、見ていなかったのか。


 不意に、紅い瞳が脳裏に浮かんだ。


 ソフィア一人なら逃げられたかもしれない状況で、それでも優斗を気遣い、魔獣へ魔法を放っていた横顔を。


 倒れた兵士を見つけた瞬間、考えるより先に駆け出していた足を。捕まえると言われても、傷ついた体を支え続けていた手を。


 そういう生き方しかできない人間が、今、腕の中で浅い呼吸を繰り返している。


 助けたい。ずっとそう思っていた。それだけのために動いていた、はずだったのに……。


 吐き気がした。胃の底がひっくり返るようだ。喉の奥が焼けて、息をするたびに胸の内側がざらつく。


 何をしていた。


 この子を助けたいのだと叫びながら、助ける方法ばかりを並べていた。あれは駄目だ、これならどうだ、他に手はないのかと、エリシアに怒鳴り続けていた。


 必死だった。必死だったはずだ。けれど、その必死さの中で、優斗は一度もソフィアの顔を見ていなかった。


 苦しいのか。怖いのか。何かを言いたそうにしているのか。そんな当たり前のことさえ、見ようとしていなかった。


 腕の中にいる少女の顔を見る。血の気の失せた頬。薄く開いた唇。焦点の定まらない紅い瞳。


 ソフィアは、そこにいた。


 方法でも、選択肢でも、救うべき対象でもなく、今にも消えてしまいそうな一人の少女として、そこにいた。


 それを、見ていなかった。


 それが、自分だったのか。


 そう突きつけられた瞬間、優斗は腕の中の体温を、嫌になるほどはっきりと感じた。


「……俺は」


 優斗の口から漏れ出たのは、掠れた声だった。エリシアから目を逸らして、腕の中のソフィアを見る。


「……ソフィアを助けなきゃって、そればっかりで」


 エリシアは何も言わなかった。ただ、張り詰めていた表情がわずかに揺れる。


 怒っているのか、泣きそうなのか、彼女自身にも分かっていないみたいな顔だった。


「……ごめん。やっぱり、よく分からない」


 それでも、視線だけは、もうエリシアではなく腕の中の少女へ向けている。


「でも、これだけは分かる。死んでほしくないのは、本当だ」


 エリシアは何も言わなかった。ただ、腕の中のソフィアを見ていた。


 優斗も、もう何も言えなかった。


 ソフィアの浅い呼吸だけが、二人の間で不規則に続いている。


 やがて、エリシアが小さく息を吐いた。


「……私も、死んでほしくない」


 独り言みたいな声だった。優斗に言っているのか、エリシア自身に言い聞かせているのか、分からないような。


 エリシアは一度だけ唇を噛み、視線をソフィアに向ける。


 それから、感情を押し込めるみたいに小さく息を吐く。


「……案内、する」


 エリシアは、震える声で呟いた。泣きそうな顔のまま、それでも小さく頷く。


「……こっち」


 震えを押し殺した背中を追いながら、優斗は腕の中に感じる体温に、指先を強く食い込ませた。


 正しいかどうかなんて、もう分からなかった。


 それでも――この体温だけは、消えてほしくなかった。

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