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第一話 共犯

 野営地が遠ざかるにつれ、足音だけが草を踏み続けた。エリシアは振り返らなかった。背筋は真っ直ぐで、感情をどこかに押し込めたまま動いているような、そういう歩き方だった。優斗はその三歩後ろをついていく。距離を詰めようとは思わなかった。いや、思えなかった。

 

 腕が、まだ軽い。正確には、軽いことを意識してしまっているのだろう。さっきまでそこにあった重みが消えて、その空白だけが残っている。振り払おうとするたびに逆に意識が向く。


 空の端が完全に闇に染まり、星々がその鋭い光を放ち始めた頃、エリシアが唐突に足を止めた。見渡す限りの草原の中に、ぽつんと岩がいくつか固まっている場所があった。風よけにもならない程度の低い岩だが、エリシアはそこに腰を下ろした。疲れた、とは言わない。ただ止まった。

 

 優斗も無言で隣の岩に座る。乾いた草の匂いと、夜の冷気が鼻腔を突く。沈黙は、重かった。エリシアが不意に口を開いたのは、それからどれくらいの時間が経ってからだったか。

 

「……あなたは。この先、何がしたいの」

 

 それは、問いというよりは独白に近かった。責めるような鋭さも、誘うような甘さもない。ただ、自分の立ち位置を確認するために、隣にいる異質な存在に言葉を投げかけただけのような、乾いた響き。

 

「ソフィアを取り戻す」


 優斗は迷わずに答えた。それだけが、今の自分を繋ぎ止めている唯一の楔だった。

 

「それで?」

 

 畳みかけるようなエリシアの追及に、優斗は言葉を詰まらせた。取り戻した後——そこから先が、何も見えない。帰る場所があるのかも。そもそも帰りたいのかすら。

 

「……分かんね」

 

 正直に吐き出すと、エリシアの鼻から小さく息が漏れた。それは呆れというよりも、どこか別の感情を含んでいるようだった。しばらく、沈黙が続いた。風が草を撫でる。それだけが繰り返される。

 

「……軍にいる間は、考えなくてよかった」


 エリシアが、膝を抱え込むようにしてポツリと言った。優斗は視線を向けず、ただ続きを待つ。

 

「指示があって、動いていればよかった。それが正しいことだって、信じられたから」

 

「信じられた、か」

 

「うん」

 

 短い肯定。その過去形に含まれた響きを、優斗は聞き逃さなかった。エメラルドの瞳が、暗闇の中でどこか遠くを見つめている。

 

「じゃあ、命令違反したのはなんでだよ」

 

 エリシアの肩が、びくりと震えた。ジャージの襟に顔を埋めるようにして、彼女は声を絞り出す。

 

「……魔獣が、いたからよ。それだけ」

 

「それだけか」

 

「……聖女の捜索中だったけれど、あの森は街に近すぎた。隊長は余計な獲物には構うなって言ったわ。でも、放置すれば被害が出るかも。……私は、それが許せなかった。ただ、それだけ」

 

「それで一人で突っ込んだのか」

 

「……結果的にね。笑えばいいじゃない、無様だって」

 

「笑わねぇけどさ。……それは無茶だろ」


 優斗は魔獣の強さを知っている。その力が一人の人間の手に余ることも、挑めば命が危ういことも。


「分かってたわよ、そんなこと!」

 

 弾かれたようにエリシアが声を荒らげる。だがその勢いはすぐに萎み、やるせない後悔へと形を変えた。


「……で、負けた。死にかけた私を、ソフィアさんが拾った。……あの人が、私の代わりに傷を背負った」

 

 エリシアの声が少しだけ変わった。平坦なままなのに、何かが混じった。薄い膜を一枚、内側から押しているような。

 

「私が勝手に正義感を振りかざして動いたから、ソフィアさんはあそこにいた。私が弱かったから、あの人はあんな傷を負わなきゃいけなかった。……全部、私のせいよ」

 

 言い切って、エリシアは膝の上に視線を落とした。続きはなかった。責めてくれ、と言いたいわけでも、慰めてくれ、と言いたいわけでもない。ただ事実として並べた、という顔だった。だからこそ、返す言葉が難しかった。

 

 否定するのは簡単だ。お前のせいじゃない、と言えばいい。だが、それは本当のことじゃない。エリシアが動かなければ、ソフィアは胸の傷を負わなかった。その部分だけは、どう言い繕っても変わらない。

 

「……俺が引き渡した」

 

 気づけば、口から言葉が零れていた。胸の奥に沈んでいたものが、そのまま押し上げられてきただけの、不格好な言葉だった。


「お前が動いたから、ソフィアは傷を負った。俺が引き渡したから、ソフィアは帝国に連れていかれた。……お前だけじゃない」


 エリシアが顔を上げる。驚いたように目を見開き、そのままこちらを見ている。

 

「責任の取り合いがしたいわけじゃないけどな」


 付け足すように言葉を重ねる。自分でも、上手い言い方だとは思っていない。ただ、ここで黙るよりはましだと判断しただけだった。


「お前が自分の正しさで動いて、死にかけた。俺はそれしかないと思って、ソフィアを手放した。どっちも、自分で決めたことだ」


 言葉を選んでいる余裕はなかった。ただ、嘘にならない範囲で並べていく。飾ろうとすればするほど、どこかで逃げになる気がしていた。


「結果がどうなるかは、まだ分からない。……けど、だからって」


 そこで一瞬だけ言葉が詰まる。喉の奥に引っかかる感覚を、無理やり押し通すようにして、続けた。


「お前が全部背負う話じゃない」


 静まり返る。風の音だけが、草原をなぞるように通り過ぎていく。さっきまで当たり前に存在していたはずの気配が、一歩引いた場所に遠ざかったような、妙な感覚があった。エリシアは何も言わなかった。ただ、言葉の意味を測るように、わずかに視線を揺らしている。その沈黙が数秒続き、やがて彼女の表情がゆっくりと歪んだ。


「……なにそれ」


 絞り出すような声だった。


「そういう言い方、やめて欲しいんだけど」


 怒鳴るわけでもなく、ただ低く、押し殺した声音。その中に混じっている感情は単純な苛立ちではなかった。反発と、困惑と、どこか行き場を失ったものが絡み合っている。


「悪いな」


 優斗は短く返す。反論する気はなかったし、取り繕うつもりもなかった。あれ以上ましな言い方が自分に出来たとも思えないし、あのまま黙っているよりはよかったと、それだけは思っていた。


「……でも」


 エリシアは言いかけて、言葉を切る。何かを続けようとして、見つからなかったのか、それとも見つけたくなかったのか。どちらにせよ、そこで言葉は途切れた。代わりに、彼女はゆっくりと息を吸い込み、そして深く、深く吐き出す。肩がわずかに落ちる。その動きは、張り詰めていた何かが、完全ではないにせよ少しだけ緩んだように見えた。それでも、顔は伏せたままだったが――。

 

「……否定は、しないわ。……納得は、してないけど」


 そう言って再び空を見上げた彼女の横顔には、ほんのわずかだけ、ずっと込めていた力を緩めたような柔らかさを感じた。



 

 翌朝、地平線の向こうに城壁が見えてきた時、エリシアが短く言った。

 

「アルツバーン」

 

 優斗はその輪郭を目で追った。石造りの壁がゆっくりと大きくなってくる。近づくにつれ、壁の向こうから音が漏れ始めた。人の声。荷車の音。金属の触れ合う音。森の中では聞こえなかった、人間が生きている音だ。


 ただ、近づくほど、城壁そのものが目を引いた。高い。思っていたより、ずっと。草原側から見ると、壁は緩やかな丘の稜線に沿って建てられており、その頂部が城壁の基底になっている。つまり、ただでさえ高い壁が、さらに地形の高さの上に乗っている。しかもその丘は、どこから見ても傾斜が均一に急で、自然に削られたものではなく、明らかに手が入っている。

 

「……あの丘、人工か? まるで地面ごと作り替えたみたいだ」

 

 思わず口にすると、エリシアが意外そうな顔でこちらを見た。

 

「よく気づいたわね。何百年も前に、都市を守るために山を削って盛り直したって言われているわ。今は草に覆われているけれど、その下は強固な土塁よ」

 

 城壁の角に塔が立っている。城門までの道が一本しかない。両脇は急な斜面だ。……シミュレーションゲームでやったことある。攻め手を一箇所に絞り込む地形。 どう考えても、まともに攻めたら詰む。

 

 都市国家なんてもの、大国が軍で押し寄せたら終わりじゃないか——そう思っていた自分が、急に間抜けに見えた。

 

「中立って、強さに裏打ちされてるんだな」

 

「当たり前でしょ。そうじゃなきゃ中立なんて保てないわよ」

 

 エリシアがあっさり言った。当然のことを言われたというような口ぶりだった。優斗には当然ではなかったが、それは自分の常識が足りないだけだと納得した。

 

 門をくぐった瞬間、それが一気に押し寄せてきた。狭い路地に、人が溢れている。見たことのない色の布を纏った行商人。焼いた肉の匂いと、香辛料の刺激臭が混ざり合う。言葉が飛び交っているが、半分以上は聞き取れない。

 

 ――人が、いる。

 

 当たり前のことなのに、その当たり前に一瞬だけ息が詰まった。異世界に来てから、優斗が会った人間は数えるほどしかいない。だがそれだけじゃない。元の世界にいた頃だって、こんなに人の多い場所に足を踏み入れた記憶がない。部屋とコンビニと、たまに深夜のファミレス。それが優斗の行動範囲のほぼすべてだった。これだけの数の人間が視界に収まっているのは、おそらく初めてだ。

 

 頭の奥がじわりとする。人の声、足音、匂い、熱。それが四方から同時に押し寄せてきて、処理が追いつかない。軽く、めまいがした。前を歩くエリシアが足を止めずに進んでいく。優斗はその背中を追いながら、雑踏に目を奪われ続けた。子供が走っている。老人が店先に座っている。誰も、二人のことを気にしていない。

 

 ここには、日常がある。ソフィアを失った、あの冷たい森のすぐそばで、世界は何事もなかったかのように続いていた。それがひどく遠い話みたいに感じられて、優斗はただ、前を向いて歩いた。

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