第十一話 手放した重さ
しばらく歩くと、唐突に視界が開けた。
見渡す限りの草原――否、その中に、場違いなほど多くのテントが並んでいる。大小様々な布の屋根。杭に繋がれた馬。行き交う兵士たち。森の中とは違う、乾いた空気が正面から叩きつけてきた。
――あれが、帝国軍の野営地か。
そう思った瞬間、優斗の足は止まりかけた。腕の中のソフィアの重みが、また少し変わっている気がして、視線を落とす。
軽い、とずっと思っていた。だが今感じるのは軽さというより、何か大切なものが少しずつ零れ落ちていくような、そういう頼りなさだった。
胸の上下が見えるか、何度も確認する。
見える。かろうじて、見えている。
それだけを確認して、優斗はまた歩いた。
隣のエリシアは、一言も口を開かなかった。背筋は真っ直ぐで、視線は前に固定されている。怒っているのか、諦めているのか、それとも自分を説き伏せながら歩いているのかは分からない。
ただ、止まるつもりがないことだけは分かった。
少しして、こちらへ向かって歩いてくる人影が見えた。
がっしりとした体躯に、使い込まれた革鎧。鍛え上げられた腕と、隙のない足運び。少なくとも、ただの兵士には見えなかった。
「ん? ……おい、エリシアか。よく生きてたな」
男の口元がわずかに緩んだ。
「お前の親父殿に面倒な報告をしないで済む。まったく、ひやひやさせやがって」
「ガット隊長……」
エリシアの声が硬くなる。
名前を呼んだだけで、それ以上は続かなかった。
隊長と呼ばれた男――ガットは、優斗を一瞥した。顔、服装、靴、腕の傷へと視線が滑り、最後に、腕の中のソフィアへ落ちる。
「……それで? 後ろのお二人はどちら様だ」
「彼が抱えているのが、聖女ソフィアです」
エリシアは迷わず答えた。
ガットの眉がわずかに跳ねる。
「怪我をしています。すぐに手当てをしていただきたいのですが」
「これは驚いた」
ガットは口の端を引き上げ、低く笑った。
感嘆というより、予想外の成果を前にした人間の反応に近い。
「とんだ手柄じゃないか。――なあエリシア、これだけのものを持ち帰ってくれたなら、先の命令違反による除籍も無かったことにしてやってもいいが?」
「いえ、大丈夫です。それより隊長、早く彼女に手当てを……」
ガットは「はいはい」と鷹揚に手を振りながら、優斗の腕の中へ歩み寄った。
「大方、あの化け物にやられたところを聖女様に助けてもらったとかか? お前の幸運に感謝するんだな」
品定めするような目が、ソフィアの顔をのぞき込む。
血の気の失せた頬。かすかに上下するだけの胸。浅く、不規則な呼吸。
それらを一通り確認した瞬間、ガットの表情から、さっきまでの軽さが消えた。
膝をつき、包帯代わりに巻かれたTシャツをわずかに捲る。滲み出た血の量を見て、短く舌打ちをひとつ。
「治癒師を呼べ」
振り返りもせずに投げた声は低く、有無を言わせない響きを持っていた。
それだけで、周囲の兵が動き出す。
「……なあ」
優斗は、気づけば問いかけていた。
目の前にいる、エリシアよりも事情を知っていそうな男の背中へ。
「なんで帝国は聖女を探してたんだ」
ガットの足が、一瞬だけ止まった。
優斗には、そう見えた。けれど次の瞬間にはもう歩き出していたため、それが本当に足を止めたのか、ただの見間違いだったのかまでは分からなかった。
「さあな」
振り返りすらしない。
答える気がないのか、本当に知らないのか。どちらとも取れる返し方だった。
しばらく、沈黙が続いた。
優斗は、腕の中にあるソフィアの体温だけを、妙にはっきりと感じていた。
冷たい。それでも、かすかに温もりは残っている。
ソフィアは、まだここにいる。早く。早くしてくれ。
焦りが喉元までせり上がり、優斗がそれを声にしようとした時、廊下の奥から足音が近づいてきた。
「失礼します、道を」
一人ではなかった。白い上着を纏った人間が三人、四人、優斗の周りへ滑り込むように集まってくる。
「こちらへ。横にしますので、そのまま下ろしてください」
分かった、と答えようとして、優斗は気づいた。
体が動かない。
指示の意味は分かっている。ここまで来たのは、そのためだった。ソフィアを助けるために、彼女を帝国へ渡すために、ここまで歩いてきた。
それなのに、腕に入った力が抜けなかった。
ソフィアを抱いた両腕だけが、石になってしまったみたいに言うことを聞かない。離さなければいけない。そうしなければ助からない。分かっているはずなのに、指先は彼女の体温に縋りついたまま、わずかに震えるだけだった。
「……お願いします、早く」
治癒師が、もう一度だけ言う。その声でようやく、優斗は固まっていた腕を動かした。
膝を折り、ソフィアの体を地面へ横たえる。傷に響かないように、できるだけ慎重に。少しでも乱暴に扱えば、それだけで彼女が壊れてしまいそうだったから。
ソフィアの体が腕から離れた瞬間、優斗の両腕から重みが消えた。
軽かった。ずっと、軽いと思っていた。
それなのに、何も抱えていないはずの腕だけが、妙に重い。
優斗の腕から、すとん、と力が抜ける。次いで、膝が折れた。両手が地面につく。優斗は顔を上げられなかった。
上げなければならないとは分かっている。ソフィアがどうなるのか、見届けなければならない。自分で選んだのだから、目を逸らしていいはずがない。
それでも、首に力が入らなかった。
「出血量、想定以上です」
「回復が追いついていない。聖女なのに、なぜ――」
「今は原因より処置を優先。急いでください」
治癒師の声が耳に届く。
視線を上げると、慌ただしく動く白い背中が見えた。傷口の布が外され、新しい包帯が広げられる。短い指示が飛び、誰かがすぐに応じる。
手が急いている。声も硬い。それでも、誰も諦めていない。
死なせるつもりはない。
そう気づいたのは、治癒師の一人が「必ず帝都までお連れしろ」と低く呟いたのを、耳が拾ったからだった。命令なのか、使命感なのかは分からない。
ただ、この場にいる人間は、ソフィアを生かすために動いている。
それだけは確かだった。
優斗の息が、少しだけ通った。そのことに気づいた瞬間、喉の奥が詰まる。
安心したのだ。一瞬だけ、確かに。
ソフィアを助けたかったのは本当だ。死んでほしくなかったのも、本当だ。そこに嘘はないはずだった。
それなのに、腕の中からソフィアの重みが消えた瞬間、優斗は確かに息をついていた。
血に濡れた白い衣服。途切れかけた呼吸。自分と無関係ではないものが、目の前で白い背中たちに囲まれていく。
助かるかもしれないと思ったから、安心したのか。それとも――。
手放したから、ではないのか。
もう自分が抱えていなくていい。もう自分の腕の中で失われていくのを見続けなくていい。優斗は、どこかでそう思ってしまったのではないか。
「ユウト」
不意に腕を掴まれて、そちらに目を向ける。エリシアがソフィアから目を離さないまま、こちらの腕を取っていた。
強引ではない。けれど、離すつもりもない手だった。
膝に預けていた体重が戻り、ぐらつきながらも、どうにか足で地面を踏みしめる。
エリシアは何も言わなかった。優斗を責める言葉はない。
ただそれだけのことが、優斗の胸に刺さる。
責められた方が、まだ楽だったのかもしれない。お前のせいだと怒鳴られれば、優斗はその痛みを、どこかに置くことができた。
けれど、エリシアは何も言わない。
優斗の手のひらには、もう何もない。
さっきまで確かにあったソフィアの重みも、体温も消えている。ただ、何かを掴み損ねたみたいに、指先だけがかすかに震えていた。
治癒師たちの声が、断続的に届いてくる。
「回復が――」
「急いでください」
エリシアは動かなかった。視線はただ一点、ソフィアの横たわる場所へ向けられたまま。
しばらくして、彼女はほんのわずかに顔を伏せた。
「……生きてて」
声というより、息が言葉になったようなものだった。
そのまま、エリシアは踵を返す。
「ユウト、行きましょう」
「おい、待てよ」
思わず声が出た。
「俺を置いて話を進めるなよ。行くってどこにだ? ソフィアは帝都に護送されるって、聞こえただろ。なら、俺らも帝都に――」
「帝都に行って何ができるの」
エリシアの声は静かだった。怒っているわけでも、苛立っているわけでもない。
「今の私たちには何もできないわよ。だから、今は備えるとき」
優斗は思わず反論の言葉を探す。
けれど、喉の奥までせり上がってきたはずのそれは、形になる前に崩れていく。
何かを言い返すには、あまりにも手元に何もなかった。
手段もない。頼れる知識もない。
仮に帝都へ向かったとしても、門前で足止めされるどころか、まともに取り合われることすらなく終わるのが目に見えている。その程度の現実だけは、嫌になるほど正確に想像できた。
だから、言葉は続かなかった。
「……都市国家アルツバーン」
沈黙を埋めるように、エリシアが前を向いたまま口を開く。
「あそこなら、色んな国の人間が集まるわ。ソフィアさんを取り戻すための情報も、きっと手に入るはずよ」
草原を渡る風が、低く吹き抜けた。
その音に紛れるように、優斗はもう一度だけ振り返る。
野営地の奥へ向けた視線の先に、探しているはずの姿はもうどこにもなかった。
分かっていた。それでも、優斗は視線を向けずにはいられなかった。
手放したはずだった。けれど、終わった気は少しもしなかった。
むしろ、ここから始まるのだと思った。
助けるために手放した。生かすために、帝国へ渡した。なら、それで終わりにしていいはずがない。
引き渡したのが優斗なら、取り戻すのも優斗でなければならない。
力がないとか、知識がないとか、何も分からないとか。そんな言い訳は、もう散々してきた。
その結果、何も変えられなかったから、今、優斗の腕の中は空っぽなのだ。
なら、変えるしかない。あの紅い瞳を、もう一度見る。そして今度こそ、置いていかない。
「……必ず、ソフィアを取り戻す」
エリシアがわずかに振り返り、小さく頷く。
「……行くか」
誰に向けるでもなく、優斗の口から言葉がこぼれた。エリシアの背中は、すでに数歩先にあった。
優斗は一度だけ深く息を吸い込む。
腕は軽いままだった。胸の奥に残った重さも、消えない。
それでも、足は動いた。踏みしめた草が、乾いた音を立てる。その一歩が、これまでいた場所との距離を、わずかに引き離した。
第一章を読んでくださった方、ありがとうございました。ここまで読んでいただけて、本当に嬉しいです。
よければ、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。
第二章からは週三回程度の更新予定です。引き続きよろしくお願いします。




