第五話 深い霧
スープの湯気が、時間とともにゆっくりとほどけていく。立ち上っていた白い層はすでに形を失い、器の上でかすかに揺れるだけになっていた。
リリアがスプーンを置く。そのわずかな動きが合図のように見えて、優斗は口を開いた。
「一つ聞いていいか」
言葉を落とした瞬間、テーブルの空気がわずかに収束する。全員の視線がこちらに向いた。
フォスタンは変わらず静かに待っている。急かすでもなく、先回りするでもなく、ただ受け取る姿勢を崩さない。シオンは茶杯を持ったまま姿勢ひとつ崩さず、視線だけをこちらに向けている。
リリアだけが、いつも通りの調子で小さく身を乗り出し、無邪気に首を傾げた。
「今の帝国が、どういう状態なのか。俺には全然分からない」
飾らずに言った。言い繕うだけの材料も、意味もなかった。
隣でエリシアの肩がわずかに動いたのが分かる。だが、それ以上は何もない。否定も補足もなく、ただそのままにしている。
「フォスタンさんは、この辺りで長く生きてきた人だと思う。今の帝国が、昔とどう変わったか——教えてもらえませんか」
言い終えてから、わずかな間が落ちる。フォスタンはすぐには答えなかった。
優斗の顔を見ている。探るでも測るでもなく、言葉そのものを受け取るような目だった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「変わった、か」
そのまま椅子に深く背を預け、視線を窓の方へと流す。
外はすでに暗く、ガラスには室内の灯りがぼんやりと映り込んでいた。
「新しい皇帝が即位してから、帝国の空気が別物になった。前の陛下の時代は、聖教との関係も穏やかだった。教会が民に食料を配れば、帝国もそれを歓迎した。お互いに支え合う、という空気があった。……今はそれがない」
言葉は淡々としている。だが、その間に差し挟まれるわずかな沈黙が、変化の重さをかえって物語っていた。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
「何が変わったのかは分からない。私にも分からない。ただ、こうして聖教の者たちがアルツバーンまで逃げてくるようになった。それが現実だ」
優斗は無言のままリリアを見た。リリアの指先が、器の縁を小さくなぞった。何かを言いかけるように唇が動いたが、結局、声にはならない。
「二人は……逃げてきたのか?」
問いというより、確かめるような言い方になった。
リリアは顔を上げ、あっさりと頷く。
「シオンが連れ出してくれたの。私、ぼーっとしてたら全然気づかなかったと思う」
軽い口調だったが、その裏にあるものは軽くない。
言葉の後を引き取るように、シオンが静かに続けた。
「帝国の動きが変わっていた。教会への締め付けが段階を踏まずに進んでいたからね。長くはいられないと判断したのさ」
「道中で何か気になることはなかったか?」
フォスタンが静かに尋ねる。
「街道沿いの兵が、巡回にしては多かった。さながら軍事訓練のようだったよ」
その言葉に、食堂の空気の温度がわずかに下がる。
フォスタンがゆっくりと続きを引き取る。
「帝都から、アルツバーンへの道中に見た、ということは……」
「帝都から出て西。あちらにあるのは、聖教の大本だ」
「……聖教国」
エリシアが低く呟き、シオンが短く頷く。
「あぁ。帝国が、聖教国に向けて軍を動かしている可能性が高い」
結論は簡潔だった。
それだけに、重い。
誰も、すぐには言葉を継がなかった。
スープの湯気は、もうほとんど残っていない。
優斗は横目でエリシアの顔を見た。表情は崩れていない。
何も読めない。
整ったままの横顔の内側で何を考えているのか、外からは一切分からなかった。
「理由は……」
言葉を継ぐ。
「帝国がなんでそこまで聖教を敵視してるのか。誰か知ってますか」
問いは、そのまま宙に残った。誰もすぐには答えない。
フォスタンは短く首を振る。リリアは視線を落としたまま動かない。やや遅れて、シオンが口を開いた。
「帝都にいた頃から、それだけは誰に聞いても分からなかった。帝国は外に何も漏らしていない。動いている理由を、内側に握ったまま動いている」
静かな声だった。
だが、その言葉が示しているのは、分からなさそのものの深さだった。
再び沈黙が落ちる。
エリシアも知らない。フォスタンも知らない。帝都から来たシオン達ですら知らない。
「……ほとんど何も分からないじゃねぇか」
思わず漏れた言葉が、テーブルの上で重く沈む。
口に出したことで、かえって実感が強まる。
帝国の狙いも、ソフィアの居場所も、そこへ辿り着く方法も、すべてが霧の中にある。
その霧がどれだけ深いのかだけが、ようやく分かってきている。
「今の俺たちには何もない」
エリシアが静かに言った。
優斗に向けた言葉ではない。
自分自身に言い聞かせるような響きだった。
「戦力も、情報も、手段も」
「そうだな」
フォスタンが頷く。
「だから順番がある。まずここで準備を整えろ。アルツバーンにはどの国にも属さないギルドの拠点がある。各地の情報が集まる場所だ。明日、紹介状を書いてやる」
具体的な道筋が、ようやく一つだけ示される。
「……ありがとうございます」
エリシアが頭を下げ、優斗もそれに続いた。
フォスタンは短く頷き、椅子から立ち上がる。
「今夜は休め」
その言葉が、不意に胸の奥へ沈み込んだ。
シオンがリリアに目配せをする。
リリアは一度だけ優斗の方を見てから、素直に立ち上がった。
人が動き始めると、それまで張りつめていた空気がゆるやかにほどけていく。使用人が近づき、手際よくスープの器を下げていく。
食堂に、日常の音が戻ってくる。
優斗は最後に立ち上がった。
部屋の扉を閉めると、音が消えた。
石壁。小さな窓。木のベッド。贅沢ではないが、手入れは行き届いている。整えられた空間だった。
冷えた空気が肌に触れる。食堂の暖気がここまでは届かないのか、石壁が夜の冷たさをそのまま閉じ込めていた。蝋燭が一本だけ灯っており、壁に影が揺れている。
優斗はベッドに腰を下ろし、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
視界いっぱいに、何もない石の天井が広がる。
布が背中に触れる。
眠れる気がしなかった。
目を閉じても、今日の出来事が順番もなく浮かんでは消えていく。
最初に思い出したのは、フォスタンの「泊まっていけ」という一言だった。あれがなければ、今夜どこにいたのかも分からない。
だがその言葉を引き出したのは自分ではない。縁があったのはエリシアで、自分はその隣に立っていただけだった。
ソフィアを取り戻したいと口にした。あの時の、彼女の笑い方を思い出す。ただ穏やかな笑み——それだけで、胸の奥が軋む。
取り戻さなければならない。
それ以外に、ここにいる理由が見つからないから。
だが今日一日を振り返っても、自分から何かを動かした場面が思い浮かばない。
誰かに引っ張られて、誰かの後ろをついていっただけだ。
――俺は、今日、何をした。
問いを投げても、答えは出てこない。
代わりに耳の奥で、リリアの声が蘇る。
ほっとけないじゃん。
あの言葉は、あまりにも簡単だった。簡単すぎて、腹が立つくらいだった。そんな一言で帝国に向かえるなら、どれだけ楽だろうと思う。
けれど同時に、その一言だけで立ち上がれる人間がいることを、今日、目の前で見てしまった。
自分には、それができなかった。
ほっとけない。助けたい。取り戻したい。
言葉だけならいくらでも並べられる。
けれど、その言葉の下に何があるのかと問われれば、途端に何も掴めなくなる。
そこで、シオンの声が落ちてくる。
根拠は。
短い一言だった。腹は立たなかった。正しい問いだったからだ。根拠がないことは、自分が一番よく分かっている。
感情だけで帝国に喧嘩を売っている。馬鹿げていると、自分でも思う。
それでも、ここまで来てしまった。
そう言い切れればよかった。
けれど、その言葉は喉の奥で形にならない。
最初から、もっと違うやり方ができたのではないか。ソフィアを、あんな形で手放さずに済んだのではないか。
考え始めた瞬間、足元が崩れていく。
何もなかったから、ここにいる。何も持っていなかったから、消去法でここまで来ただけだ。選んだつもりで、選ばされていただけなのかもしれない。
――じゃあ、この先は。
思考が、わずかに揺れる。
この世界で出会った人たちの顔が、頭の中に浮かんだ。
エリシア。ティノ。リリア。シオン。フォスタン。
それぞれの視線が、記憶の中でこちらを向く。値踏みでも拒絶でもない。ただ、こちらが何をするのかを見ているだけの視線。
それが、少しずつ形を変えていく。
この部屋にあるはずのない教室のざわめきが、耳の奥で蘇った。
――あの子が死んだの、あいつのせいらしいよ。
誰が最初に言ったのかは覚えていない。
廊下の隅で、教室の後ろで、下駄箱の前で。
声はいつも小さくて、途切れ途切れで、振り返った時には誰もこちらを見ていなかった。
けれど、見ていないわけではなかった。
責めている目なら、まだよかったのかもしれない。怒鳴られた方が、殴られた方が、たぶん分かりやすかった。最低だと吐き捨てられたなら、こちらも傷ついた顔くらいはできた。
けれど、あの頃の視線は、そういうものではなかった。
お前なんて、どうせそんなものだ。
その視線の中で、優斗は何もしなかった。何も言わなかった。否定もしなかった。違うと叫ぶことも、謝ることも、誰かに縋ることもできなかった。
ただ、机に突っ伏して、聞こえていないふりをして、時間が過ぎるのを待っていた。
待っていれば、何かが終わると思っていた。
終わったのは、自分の方だったのに。
記憶の中で、エリシアの視線が変わる。ティノの笑みが、薄くなる。リリアの紅い瞳から、人懐っこさが消える。
シオンは何も言わない。ただ当然の事実を確認するように、こちらを見る。
――結局、お前は何もできないままだ。
そんな声が聞こえた気がした。
違う、と言おうとして、喉が動かなかった。
違わないからだ。
あの時も、今も。自分はいつも、何かが起きてからようやく動くふりをしているだけで、本当に必要な瞬間には何もできない。
ソフィアを手放した時も、そうだったのではないか。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。
恐怖で思わず目を開ける。
蝋燭の火が、微かに揺れていた。さっきより小さくなっている。時間が経っているのか、それとも元からこんな大きさだったのか、もう判断がつかない。
しばらく、何も考えずに天井を見つめる。時間の感覚が、曖昧に溶けていく。
やがて、意識の端で現実に引き戻される。
明日やることは決まっている。
ギルドの拠点に行く。情報を集める。できることは、それくらいしかない。
それでも、それだけでも、やらなければならない。
あの笑顔をもう一度見るために――。
その言葉が、空洞のように響くのを感じて、優斗は目を閉じた。




