表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
逃げ癖高校生は、誰も見捨てられない聖女を救いたい  作者: きわみん
第二章 『都市国家アルツバーン』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/18

第五話 深い霧

 スープの湯気が、時間とともにゆっくりとほどけていく。立ち上っていた白い層はすでに形を失い、器の上でかすかに揺れるだけになっていた。


 リリアがスプーンを置く。そのわずかな動きが合図のように見えて、優斗は口を開いた。


「一つ聞いていいか」


 言葉を落とした瞬間、テーブルの空気がわずかに収束する。全員の視線がこちらに向いた。


 フォスタンは変わらず静かに待っている。急かすでもなく、先回りするでもなく、ただ受け取る姿勢を崩さない。シオンは茶杯を持ったまま姿勢ひとつ崩さず、視線だけをこちらに向けている。


 リリアだけが、いつも通りの調子で小さく身を乗り出し、無邪気に首を傾げた。


「今の帝国が、どういう状態なのか。俺には全然分からない」


 飾らずに言った。言い繕うだけの材料も、意味もなかった。


 隣でエリシアの肩がわずかに動いたのが分かる。だが、それ以上は何もない。否定も補足もなく、ただそのままにしている。


「フォスタンさんは、この辺りで長く生きてきた人だと思う。今の帝国が、昔とどう変わったか——教えてもらえませんか」


 言い終えてから、わずかな間が落ちる。フォスタンはすぐには答えなかった。


 優斗の顔を見ている。探るでも測るでもなく、言葉そのものを受け取るような目だった。


 やがて、ゆっくりと息を吐く。


「変わった、か」


 そのまま椅子に深く背を預け、視線を窓の方へと流す。


 外はすでに暗く、ガラスには室内の灯りがぼんやりと映り込んでいた。


「新しい皇帝が即位してから、帝国の空気が別物になった。前の陛下の時代は、聖教との関係も穏やかだった。教会が民に食料を配れば、帝国もそれを歓迎した。お互いに支え合う、という空気があった。……今はそれがない」


 言葉は淡々としている。だが、その間に差し挟まれるわずかな沈黙が、変化の重さをかえって物語っていた。


 暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。


「何が変わったのかは分からない。私にも分からない。ただ、こうして聖教の者たちがアルツバーンまで逃げてくるようになった。それが現実だ」


 優斗は無言のままリリアを見た。リリアの指先が、器の縁を小さくなぞった。何かを言いかけるように唇が動いたが、結局、声にはならない。


「二人は……逃げてきたのか?」


 問いというより、確かめるような言い方になった。


 リリアは顔を上げ、あっさりと頷く。


「シオンが連れ出してくれたの。私、ぼーっとしてたら全然気づかなかったと思う」


 軽い口調だったが、その裏にあるものは軽くない。


 言葉の後を引き取るように、シオンが静かに続けた。


「帝国の動きが変わっていた。教会への締め付けが段階を踏まずに進んでいたからね。長くはいられないと判断したのさ」


「道中で何か気になることはなかったか?」


 フォスタンが静かに尋ねる。


「街道沿いの兵が、巡回にしては多かった。さながら軍事訓練のようだったよ」


 その言葉に、食堂の空気の温度がわずかに下がる。


 フォスタンがゆっくりと続きを引き取る。


「帝都から、アルツバーンへの道中に見た、ということは……」


「帝都から出て西。あちらにあるのは、聖教の大本だ」


「……聖教国」


 エリシアが低く呟き、シオンが短く頷く。


「あぁ。帝国が、聖教国に向けて軍を動かしている可能性が高い」


 結論は簡潔だった。


 それだけに、重い。


 誰も、すぐには言葉を継がなかった。


 スープの湯気は、もうほとんど残っていない。


 優斗は横目でエリシアの顔を見た。表情は崩れていない。


 何も読めない。


 整ったままの横顔の内側で何を考えているのか、外からは一切分からなかった。


「理由は……」


 言葉を継ぐ。


「帝国がなんでそこまで聖教を敵視してるのか。誰か知ってますか」


 問いは、そのまま宙に残った。誰もすぐには答えない。


 フォスタンは短く首を振る。リリアは視線を落としたまま動かない。やや遅れて、シオンが口を開いた。


「帝都にいた頃から、それだけは誰に聞いても分からなかった。帝国は外に何も漏らしていない。動いている理由を、内側に握ったまま動いている」


 静かな声だった。


 だが、その言葉が示しているのは、分からなさそのものの深さだった。


 再び沈黙が落ちる。


 エリシアも知らない。フォスタンも知らない。帝都から来たシオン達ですら知らない。


「……ほとんど何も分からないじゃねぇか」


 思わず漏れた言葉が、テーブルの上で重く沈む。


 口に出したことで、かえって実感が強まる。


 帝国の狙いも、ソフィアの居場所も、そこへ辿り着く方法も、すべてが霧の中にある。


 その霧がどれだけ深いのかだけが、ようやく分かってきている。


「今の俺たちには何もない」


 エリシアが静かに言った。


 優斗に向けた言葉ではない。


 自分自身に言い聞かせるような響きだった。


「戦力も、情報も、手段も」


「そうだな」


 フォスタンが頷く。


「だから順番がある。まずここで準備を整えろ。アルツバーンにはどの国にも属さないギルドの拠点がある。各地の情報が集まる場所だ。明日、紹介状を書いてやる」


 具体的な道筋が、ようやく一つだけ示される。


「……ありがとうございます」


 エリシアが頭を下げ、優斗もそれに続いた。


 フォスタンは短く頷き、椅子から立ち上がる。


「今夜は休め」


 その言葉が、不意に胸の奥へ沈み込んだ。


 シオンがリリアに目配せをする。


 リリアは一度だけ優斗の方を見てから、素直に立ち上がった。


 人が動き始めると、それまで張りつめていた空気がゆるやかにほどけていく。使用人が近づき、手際よくスープの器を下げていく。


 食堂に、日常の音が戻ってくる。


 優斗は最後に立ち上がった。


 部屋の扉を閉めると、音が消えた。


 石壁。小さな窓。木のベッド。贅沢ではないが、手入れは行き届いている。整えられた空間だった。


 冷えた空気が肌に触れる。食堂の暖気がここまでは届かないのか、石壁が夜の冷たさをそのまま閉じ込めていた。蝋燭が一本だけ灯っており、壁に影が揺れている。


 優斗はベッドに腰を下ろし、そのまま仰向けに倒れ込んだ。


 視界いっぱいに、何もない石の天井が広がる。


 布が背中に触れる。


 眠れる気がしなかった。


 目を閉じても、今日の出来事が順番もなく浮かんでは消えていく。


 最初に思い出したのは、フォスタンの「泊まっていけ」という一言だった。あれがなければ、今夜どこにいたのかも分からない。


 だがその言葉を引き出したのは自分ではない。縁があったのはエリシアで、自分はその隣に立っていただけだった。


 ソフィアを取り戻したいと口にした。あの時の、彼女の笑い方を思い出す。ただ穏やかな笑み——それだけで、胸の奥が軋む。


 取り戻さなければならない。


 それ以外に、ここにいる理由が見つからないから。


 だが今日一日を振り返っても、自分から何かを動かした場面が思い浮かばない。


 誰かに引っ張られて、誰かの後ろをついていっただけだ。


 ――俺は、今日、何をした。


 問いを投げても、答えは出てこない。


 代わりに耳の奥で、リリアの声が蘇る。


 ほっとけないじゃん。


 あの言葉は、あまりにも簡単だった。簡単すぎて、腹が立つくらいだった。そんな一言で帝国に向かえるなら、どれだけ楽だろうと思う。


 けれど同時に、その一言だけで立ち上がれる人間がいることを、今日、目の前で見てしまった。


 自分には、それができなかった。


 ほっとけない。助けたい。取り戻したい。


 言葉だけならいくらでも並べられる。


 けれど、その言葉の下に何があるのかと問われれば、途端に何も掴めなくなる。


 そこで、シオンの声が落ちてくる。


 根拠は。


 短い一言だった。腹は立たなかった。正しい問いだったからだ。根拠がないことは、自分が一番よく分かっている。


 感情だけで帝国に喧嘩を売っている。馬鹿げていると、自分でも思う。


 それでも、ここまで来てしまった。


 そう言い切れればよかった。


 けれど、その言葉は喉の奥で形にならない。


 最初から、もっと違うやり方ができたのではないか。ソフィアを、あんな形で手放さずに済んだのではないか。


 考え始めた瞬間、足元が崩れていく。


 何もなかったから、ここにいる。何も持っていなかったから、消去法でここまで来ただけだ。選んだつもりで、選ばされていただけなのかもしれない。


 ――じゃあ、この先は。


 思考が、わずかに揺れる。


 この世界で出会った人たちの顔が、頭の中に浮かんだ。


 エリシア。ティノ。リリア。シオン。フォスタン。


 それぞれの視線が、記憶の中でこちらを向く。値踏みでも拒絶でもない。ただ、こちらが何をするのかを見ているだけの視線。


 それが、少しずつ形を変えていく。


 この部屋にあるはずのない教室のざわめきが、耳の奥で蘇った。


 ――あの子が死んだの、あいつのせいらしいよ。


 誰が最初に言ったのかは覚えていない。


 廊下の隅で、教室の後ろで、下駄箱の前で。


 声はいつも小さくて、途切れ途切れで、振り返った時には誰もこちらを見ていなかった。


 けれど、見ていないわけではなかった。


 責めている目なら、まだよかったのかもしれない。怒鳴られた方が、殴られた方が、たぶん分かりやすかった。最低だと吐き捨てられたなら、こちらも傷ついた顔くらいはできた。


 けれど、あの頃の視線は、そういうものではなかった。


 お前なんて、どうせそんなものだ。


 その視線の中で、優斗は何もしなかった。何も言わなかった。否定もしなかった。違うと叫ぶことも、謝ることも、誰かに縋ることもできなかった。


 ただ、机に突っ伏して、聞こえていないふりをして、時間が過ぎるのを待っていた。


 待っていれば、何かが終わると思っていた。


 終わったのは、自分の方だったのに。


 記憶の中で、エリシアの視線が変わる。ティノの笑みが、薄くなる。リリアの紅い瞳から、人懐っこさが消える。


 シオンは何も言わない。ただ当然の事実を確認するように、こちらを見る。


 ――結局、お前は何もできないままだ。


 そんな声が聞こえた気がした。


 違う、と言おうとして、喉が動かなかった。


 違わないからだ。


 あの時も、今も。自分はいつも、何かが起きてからようやく動くふりをしているだけで、本当に必要な瞬間には何もできない。


 ソフィアを手放した時も、そうだったのではないか。


 そう考えた瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。


 恐怖で思わず目を開ける。


 蝋燭の火が、微かに揺れていた。さっきより小さくなっている。時間が経っているのか、それとも元からこんな大きさだったのか、もう判断がつかない。


 しばらく、何も考えずに天井を見つめる。時間の感覚が、曖昧に溶けていく。


 やがて、意識の端で現実に引き戻される。


 明日やることは決まっている。


 ギルドの拠点に行く。情報を集める。できることは、それくらいしかない。


 それでも、それだけでも、やらなければならない。


 あの笑顔をもう一度見るために――。


 その言葉が、空洞のように響くのを感じて、優斗は目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ