第四話 似て非なる紅
食堂、と案内された部屋の扉を開ける。
その瞬間、燻した肉の匂いが鼻を突いた。夕暮れ前の斜光が窓から差し込み、長い木のテーブルに橙の筋を引いている。
テーブルの端に、二人組がいた。
一人は青年だった。歳は優斗より少し上くらいか。焼けるような赤い髪に、落ち着いた色の外套。姿勢が良い。
乱れた部分がどこにもない。髪も、表情も、指先の置き方まで、過不足なく整っている。
青い瞳が、茶を口にしたままこちらに向いた。冷たいわけじゃなく、端正な光を宿した瞳だった。
もう一人は少女だった。澄んだ青色の髪に、柔らかく人懐っこい顔立ち。笑えばすぐに打ち解けられそうな、そういう雰囲気がある。
ただ、その瞳が紅かった。
視界に入った瞬間、胸の奥で何かが鈍く痛む。
ソフィアと同じ色だ。
――喉の奥が、ひゅっと狭くなる。
頭の奥が、一瞬だけ遠くなる。あいつは今、どこにいる。どんな目に遭っている。
「だれ?」
少女は首を傾けながら、ためらいなく問いかけてきた。
声音には警戒も遠慮もなく、ただ純粋な疑問だけが乗っている。
優斗は口を開きかけて、言葉を止めた。
視線が、逸らせない。紅い、と頭のどこかで認識する。ソフィアと同じ色。そのはずなのに、まったく違う印象を与えてくる瞳が、至近距離からまっすぐにこちらを見ている。
理由の分からない引っかかりが、思考の流れを鈍らせる。
「エリシア・クローディスです」
横から、静かな声が割り込んだ。
その一言で、意識がようやく引き戻される。エリシアがこちらを見ている。表情はほとんど動いていないが、余計なことを言うな、とも、早く答えろ、とも取れる視線だった。
「……榊原優斗。フォスタンさんのところに世話になってる」
少女はふうん、と短く息をついただけで、それ以上は踏み込んでこなかった。
その代わりに、隣にいた青年がゆっくりと立ち上がる。
「私はシオン・ヴァレリウスだ。彼女の護衛をしている」
簡潔な自己紹介とともに、一礼する。
その所作には無駄がなく、洗練された礼だった。
「私はリリア。シオンと一緒に、この屋敷でお世話になってるの」
青年の言葉が終わるよりもわずかに早く、少女――リリアが口を挟むように続ける。
間の取り方に遠慮がなく、言葉が前へ前へと出てくる。
「あなたたちはどうしてここに来たの? 冒険? それとも仕事? あ、ていうか二人って知り合いなの? 仲良さそう、みたいな感じじゃないけど、一緒にいるってことは何かあったわけ?」
問いが途切れない。一つひとつを切り分ける間もなく、次の疑問が重なってくる。
言葉の勢いに押されるように、空気がわずかに軽くなるのが分かる一方で、隣でエリシアの眉がごくわずかに動いたのも見逃さなかった。
優斗は一瞬だけ間を置き、言葉を選ぶ。
「……まぁ、助けを求めに来たってところだ。エリシアとは、道中で一緒になった」
「へえ!」
リリアの顔がぱっと明るくなる。
その反応の速さに、わずかにたじろぎそうになる。
「じゃあ二人とも旅してるの? どこに行くの? 目的地は?」
さらに言葉が続こうとした、その瞬間。
「リリア」
シオンの声が差し込まれた。
強くもなく、低すぎるわけでもない。ただ、それだけで十分だった。言葉の流れを断ち切る重さが、その一声にはあった。
リリアがぴたりと口を閉じる。
その様子を確認してから、シオンはゆっくりと優斗へ視線を向けた。
揺れのない目線だった。
威圧するでも、値踏みするでもない。
ただ静かに、何かを測っている。
「突然押しかけて申し訳ない。……君たちは、フォスタン殿の縁者か」
「いや。俺はそうじゃない。エリシアは……昔、世話になったとか言ってた」
優斗がそう答えると、シオンは一度だけ頷いた。
それ以上深く問うことはしない。
代わりに、手にしていた茶杯を静かに卓へと戻す。
その動作一つにも、余計な音は立たなかった。
「そうか。フォスタン殿は人を見る目がある。縁があるなら、それで十分だ」
フォスタンが顔を出したのは、それから少し後のことだった。
全員が着席して、使用人がスープを運んでくる。
湯気が白く立ち上り、燻した骨と香草の匂いが混ざってテーブルに漂った。
「それで、二人はどこから来たの?」
リリアが聞いた。
特に警戒している様子はない。
ただ純粋に気になっている、という顔だった。
「俺は東の方から旅してきたんだ」
「私は……、その帝国軍にいて……」
その瞬間だった。
リリアの目が、変わった。柔らかさが引いて、値踏みとも警戒ともつかない光が、一瞬だけ宿った。
ほんの少しだ。気づかなければ見逃すくらいの、わずかな変化だ。
同時に、シオンが動いていた。椅子を引く音すら立てずに立ち上がり、自然な流れで一歩踏み込み、リリアとエリシアの間に立つ。
「あっ、いやその……。除籍になったの。だからあなたに何かするつもりはないわ」
エリシアが短く言い切る。
それを聞いて、シオンは一瞬だけ呼吸を緩め、元の位置へと戻った。
「それはよかった。そうでなければ、君たちを排除するか、彼女を連れて撤退するか、選ぶ必要があったからね」
「……随分と、はっきり言うんだな」
優斗は思わず口にした。
シオンは優斗の方を見た。
「事実なのだから。曖昧にする意味がないだろう?」
フォスタンが静かに茶杯を置いた。
「シオン殿、うちの客人を脅かすのはやめてもらいたい」
「失礼しました、フォスタン殿。しかし、私が言ったのは脅しではありませんよ。こうしていた、というただの事実です」
「……似たようなものだ」
フォスタンは短く笑って、深く椅子に背を預けた。
シオンは何も返さなかった。
場が落ち着いてから、リリアはすぐに切り替える。
スプーンを手に取り、スープを一口すする。
「ねえ、ユウト君って異国の人だよね? 名前の感じが全然違うもん。どこから来たの? 遠いの?」
「……まあ、遠いな」
「どのくらい? 馬で何日?」
「それよりずっと遠い」
「ええ、どういうこと?」
本気で首を傾げている。その無邪気さに、逆に説明のしようがなくなる。
これ以上踏み込まれる前に、優斗は話題を切り替えた。
「それより、リリア。一つ聞いてもいいか?」
「ん?」
「帝国軍って聞いて、さっき目が変わってた」
リリアは何も言わなかった。
否定もしない。
ただ、優斗を見ている。
「……あんたも、聖女なのか」
問いじゃなかった。
ほとんど、確認だった。
食堂が、静かになった。窓の外の空が、いつの間にか紫がかっている。遠くで薪が爆ぜる音がした。スプーンが器に触れる小さな音が、やけに大きく聞こえた。
フォスタンは黙っていた。エリシアが優斗の方をちらりと見た気配があった。リリアはスプーンを持ったまま、優斗を見ている。
さっきまでの柔らかい雰囲気は変わっていない。
「ユウト君の言う通り、私は聖女。だけど……あなたも、って」
「……知り合いに、紅い目の人がいる」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。
遠ざかるのではなく、逆に近づいてくる感覚だった。
顔が、声が、記憶の奥から押し寄せてくる。
それを押しとどめるように、優斗はスプーンを握り直す。
「帝国に捕まってる。俺たちの恩人なんだ。取り戻したくて、ここまで来たんだよ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
リリアは優斗を見たまま、ほんの一瞬だけシオンへと視線を送る。
シオンは何も言わず、茶杯を静かに置いた。
それだけで、二人のあいだに何かが通ったことが分かる。
だが、その内容までは読み取れない。
「……帝国から、取り戻すの」
リリアの声は、先ほどまでの軽さを失っていた。
「そのつもりだ」
短く答える。
リリアは少しだけ間を置き、スプーンをテーブルに戻した。
「……やっぱり、そういうことするんだ」
独り言のように落ちた言葉だった。
優斗がその意味を問いかけるより早く、リリアは続ける。
「帝国に聖女が囚われてるって……そういう話、他にもあるよ。私が逃げる前にも、何人か連れていかれた子がいた」
彼女の視線はテーブルに落ちたまま、言葉だけが続く。
「どこに行ったか、わからないまま。何のためか、わからないまま。……ずっと、それが嫌だった」
そこでようやく顔を上げる。
表情は柔らかいままだが、その奥にあるものは明らかに変わっていた。
「だから手伝う。ユウト、私も行く」
椅子が鳴り、立ち上がろうとしたところで――。
「リリア」
シオンの一声で動きが止まる。
リリアはそのままの姿勢でシオンを見る。
シオンは彼女ではなく、優斗を見ていた。
「……君は、本当に取り戻せると思っているのか」
「思ってなかったら来てない」
「その根拠は」
「……ない」
短い応酬のあと、シオンはわずかに間を置く。茶杯を取り、一口だけ飲む。そのあいだも、視線は外さない。
「帝国という大国を相手にして、根拠なく動いている。それが今の君の状況だ」
否定ではない。ただの確認。
それだけで十分だった。
胃の奥がじわりと浮く。言い返す言葉を探すが、出てこない。出てくるはずがない。根拠がないことは、自分が一番よく分かっている。
――じゃあ、なんで来たんだよ。
自分に向けた問いは、答えを持っていなかった。根拠がない。勝ち目の計算もない。それでも動いているのは、動かずにいられなかったからだ。
でも、そんなのは理由じゃない。
分かってる。
「シオン」
リリアが、静かに言った。
さっきまでの弾んだ声じゃなかった。
二人の目が合う。
何も言わない。リリアはシオンを見ていた。シオンはリリアを見ていた。
何かが二人の間で動いている。言葉がない。優斗にはやはり読めなかった。
やがてシオンは、短く息をついた。
「……仕方ないな」
一瞬、部屋が静止した。
「え、いいの?」
思わず声が出た。隣を見ると、エリシアも似たような顔をしていた。驚きというより、腑に落ちていない顔だった。
「本当に、いいんですか」
エリシアが思わず聞いた。
シオンは一度だけ、リリアの方を見た。
「止めて済むなら、とっくにそうしている」
「……それは、護衛としてどうなのよ」
「護衛としての判断だ。彼女が危険へ向かうなら、危険から遠ざけるより、危険の中で死なせない位置にいる方が現実的だ」
それだけだった。
説明も補足もない。
優斗はエリシアと顔を見合わせた。
「……でも、見ず知らずの聖女の話だぞ」
「当然でしょ!」
リリアが当たり前のように言った。
椅子ごと身を乗り出している。
「聖女が帝国に囚われてるんだよ? ほっとけないじゃん!」
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
ほっとけない。
それだけ。理屈も損得もない。ただそれだけで、見ず知らずの相手のために動こうとしている。
「……お前は」
フォスタンが、静かに言った。
テーブルの端で、腕を組んで黙って聞いていた老人が、初めて口を開いた。
「帝国を相手にするのが、どういうことかわかっているのか?」
「わかってます」
リリアは即答した。
迷いがない。
「わかった上で、それでもほっとけないから行くんです!」
フォスタンは少しの間、リリアを見ていた。それから、ふっと短く息を吐いた。笑っているのか、呆れているのか、判断のつかない吐き方だった。
優斗は返す言葉が見つからなかった。
ほっとけない。
それだけで、彼女は危険に飛び込もうと言うのだ。
――聖女ってのは、どいつもこいつもこんなのなのかよ。




