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逃げ癖高校生は、誰も見捨てられない聖女を救いたい  作者: きわみん
第二章 『都市国家アルツバーン』

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第三話 権力の入り口

 市場の雑多な匂いは、開けた大通りを吹き抜ける風にさらわれて、瞬く間に薄れていった。路地裏のような圧迫感はどこにもない。


 視界の先には、空を広く切り取るような真っ直ぐな道が続き、その両脇には歴史を感じさせる石造りの建築物が、整然とした威容を誇って並んでいる。道幅は進むごとにむしろ広がりを見せ、アルツバーンの心臓部へと向かうほどに、その石畳はより白く、より精緻に磨き上げられていった。


「……見えてきたわ」


 エリシアが前を見据えたまま、短く言った。


 通りの突き当たりには、道を塞ぐようにして巨大な正門が構えていた。


 でかいな。


 そこに鎮座するのは、石造りの巨大な正門だ。


 高さは優斗の身長を二倍にしても足りないだろう。左右の円柱には長い年月をかけて育った蔦が絡みついている。門扉は開放されたままだが、脇に二人の衛兵が槍を持って立っていた。


「……本当に入れるのか、俺たち」


「あなたは黙ってて」


 彼女はそう言い捨てると、迷いのない足取りで衛兵の前へと進み出た。


「エリシア・クローディスと申します。領主フォスタン様にお取り次ぎを」


 凛とした声が、石造りの門に反響する。


 衛兵が目を細め、もう一人と短く視線を交わす。やがて一人が門の内側へ消え、残った衛兵は無言のまま立っていた。


 優斗は自分の格好を見下ろした。裾の裂けたズボン。森と泥の記憶が染み込み、左腕がボロボロに千切れたTシャツ。ジャージは今もエリシアが着ている。


 まぁ、どうせ俺はおまけみたいなものだ。


 そんなことを考えていると、衛兵が戻ってきた。


「……お通りください」


 門をくぐった瞬間、世界が変わったかのような錯覚に陥る。


 背後の大通りの喧騒は完全に断絶され、内側には耳の奥が痛くなるほどの静けさが満ちている。


 砂利を踏む音。どこかで水の流れる音。梢を揺らす、乾いた風の声。


 中庭は、想像を絶する広さだった。左右に伸びる回廊の奥に、要塞のような本棟がそびえている。石材の色は落ち着いた灰色で統一され、過度な装飾はない。


 だが、アーチの要石に刻まれた紋章を見れば、自分ですら、ここがただの金持ちの屋敷ではないと分かる。


 なんというか、人が住んでる場所とは思えなかった。


 美術館か何かに迷い込んだと言われた方が、まだ納得できる。


 回廊の隙間からは、訓練場らしき広場が見える。等間隔に並んだ木製の的に、剣の素振りで刻まれた無数の傷跡。使われた形跡も新しく、今も誰かが日常的に使っているのだろう。


 本棟に入ると、石造りの空気がひやりとしていて、思わず首をすくめる。音が吸い込まれていくような静けさだった。


 自分の足音だけが、妙に耳につく。意識したら余計に鳴る気がして、足の踏み方を変えてみても、靴底が絨毯を捉えるたびに音が立つ。


 隣を歩くエリシアの足音は、どうしてあんなに静かなのか。まるで自分の存在を主張したくて鳴らしているみたいだ。ただ、こういう所の歩き方を知らないだけなのに。


 廊下の突き当たりに扉があった。


 衛兵が二回ノックすると、「入れ」と短く、重みのある声が中から応じた。


 部屋に入ると、まず暖炉の熱が頬を打った。


 書棚が壁を埋め尽くし、窓から差し込む午後の斜光の中で埃の粒が金色の砂のように舞っている。


 椅子から立ち上がった男は、五十路を過ぎたあたりだろうか。白に近い灰色の髪に、短く整えられた髭。がっしりとした体格だった。


 その目は鋭いのに、不思議と声を荒げる姿が想像できない。


 気づけば、唾を飲み込んでいた。


 男の視線がエリシアの姿で止まる。


「……来たか」


 その声は低く、部屋に満ちる静かな空気の中に溶け込んでいた。


「フォスタン様」


 エリシアが深く、静かに一礼する。


 優斗に向ける時とは違う、妙に素直な頭の下げ方だった。


 フォスタンの視線が、ゆっくりと優斗へと移動した。


「君は?」


「あ、えっと——榊原優斗っす。エリシアと一緒に行動しています」


 言い終わってから気づく。


「っす」って言った。


 隣からエリシアの冷たい視線が向けられているのを感じる。


 フォスタンは特に咎める様子もなく、その目がわずかに細くなった。


 笑っているのか、呆れているのか、どちらとも取れる顔だった。


「……帝国の人間ではないな。聖教の関係者でもなさそうだ」


「はい。どちらでもないです」


「エリシアとはどこで知り合ったんだ?」


「森で。事情があって、一緒に動くことになりました」


 フォスタンは深く追求することなく、ただ静かに頷いた。


「……まあ、いい。立ち話もなんだ、座れ」


 彼は二人分の椅子を示し、自らも深い椅子に腰を下ろした。


 テーブルには茶の杯がすでに置かれていた。一口飲む。


 熱い。


 だが、その熱さがありがたかった。


 乾いた喉の奥まで熱が落ちていき、ようやく少し落ち着ける気がした。


 座った直後、エリシアが身を僅かに傾けてきた。


「……子供みたいな言葉遣い、やめてよ」


 声は限りなく小さかったが、刃は立っていた。


「分かってるって」


「分かってるなら最初からやらないでよ、もう」


 これ以上はまずいと判断して、優斗は茶を一口飲んで黙った。


「まず聞かせてくれ」


 フォスタンは組んだ手を膝に置き、エリシアを真っ直ぐに見据えた。


「帝国軍に籍を置いていると聞いていたが……今こうして私のもとに来ているのは、いささか不自然だな」


「……除籍になりました」


 エリシアの短い答えに対し、彼は「そうか」とだけ返した。


「軍を出て、わざわざここまで来た。……この老いぼれに、何を頼みに来たんだ」


「情報と、足場を。……帝国に囚われている聖女を取り戻すための力を貸してください」


 フォスタンの瞳に、微かな揺らぎが走った。


「なぜ、聖女を取り戻したい」


 問いは静かだったが、芯があった。


 エリシアは一瞬だけ視線を落とした。


 それから顔を上げる。


「助けてもらったからです。私が死にかけていたところを、その人が救ってくれました。……なのに今、帝国に連れていかれている。それを放っておくことが、私にはできません」


 フォスタンは黙って聞いていた。


 頷きもしない。


「そうか」


 静かに、その言葉だけを返した。


 それからフォスタンの視線が優斗に向く。


「君も、同じ目的か」


 優斗はわずかに背筋が伸びるのを感じた。さっきのやらかしを引きずったまま、この男の目を正面から受けるのは、思ったより緊張する。


「……はい。同じです」


「同じように、助けてもらったのか」


「……はい」


 フォスタンはしばらく、二人を交互に見つめた。


 やがてゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の方へ歩いていく。


 午後の光の中に、大きな背中がある。


「それはつまり、帝国を敵に回すということだ。……その自覚はあるのか」


 振り返る。


 その目は穏やかだったが、問いの芯は鋭かった。


 優斗はエリシアの横顔を一瞬だけ見てから、静かに言葉を返した。


「……そうなります」


 フォスタンは優斗を、それからエリシアを見た。


 エリシアは視線を逸らさなかった。


 暖炉の薪が、ぱちりと小さく爆ぜる。


 フォスタンはしばらく黙っていた。


 やがてフォスタンは、ふっと短く息を吐いた。


 笑っているのか、呆れているのか、判断のつかない吐き方だった。


「若いな」


「……すみません」


「謝るな。感心しているだけだ」


 彼はわずかに口角を上げた。


 そして扉の外に待機していた使用人に、静かだが通る声で命じる。


「客室を二部屋、準備してくれ」


「かしこまりました」


 使用人が下がる。


 フォスタンはこちらに振り返りもせず、椅子に腰を下ろした。


「泊まっていけ。詳しい話は、飯を食いながら聞くことにしよう」


 口が、開かなかった。感謝を言おうとしても、言葉の形が見つからない。


 帝国を敵に回す、って言ったばかりだぞ。


 そんな自分たちを、こんなにあっさり受け入れるなんて……。


 エリシアも黙っていた。


 しばらくして、フォスタンが独り言のように付け加えた。


「……ノエリアの話も、そのうちできれば聞いてほしいことがある」


 あまりにもさりげない口調だった。前後の流れに強く結びつくわけでもなく、ただ思い出したことを付け足しただけのような言い方。


 だが、その名が出た瞬間、エリシアの肩が、はっきりと分かるほどに震えた。


「ああ、忘れるところだった」


 フォスタンはその変化に気づいているのかいないのか、特に気に留めた様子もなく、話を切り替えるように軽く声を上げた。


 そのまま、立ち去りかけていた使用人を呼び止める。


「客がもう二人来ている。今朝方から世話をしているんだが、ちょうど食堂の方にいるはずだ」

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