第二話 それでも腹は減る
門をくぐってからしばらく、優斗はまだこの場所に慣れきれていなかった。
アルツバーンの市街は、あてもなく視線を投げるだけで視界が埋まる。露台に並んだ色鮮やかな布、籠に盛られた見たことのない果物、甲高い声で客を引く行商人たち。
前を行くエリシアは迷う素振りを見せない。優斗はその後ろを、はぐれないよう必死についていった。
ソフィアを救い出すための手立てを探す。
それだけが、今の自分を突き動かす唯一の動機だ。だが、この巨大な城郭都市に何があるのか。そもそもここに来ることを決めたのはエリシアであり、自分はその判断に、理由も聞かぬまま黙って身を預けていた。
「なあ。この町で何をするつもりなんだ?」
雑踏の隙間を縫うように声をかける。
前を歩くエリシアの肩が、一瞬だけ硬くなった。
彼女は振り返らず、けれどわずかに歩調を落として答える。
「……領主様の、お屋敷へ行くわ」
「……領主? そりゃまた、一体どうして? というか、そもそも俺たちみたいな不審者、門前払いだろ」
優斗は自分たちの奇妙な服装を指さした。
エリシアはジャージの襟を少しだけ引き上げ、顎を埋めた。
「……昔、お世話になったことがあるのよ。私がもっと、子供の頃に」
それきり、言葉が途切れた。エリシアは視線を前に戻し、雑踏の中へと紛れるように歩く。
「領主様は、その時のことを覚えてると思う。……悪い人じゃなかった。もしかしたら、力を貸してくれるかもしれない」
「もしかしたら、か。分かった。……どのみち、俺に選択肢なんてないしな」
エリシアは何も言わなかった。
頷いたかどうかも見えない。
それきり、二人の間に言葉は途絶えた。
代わりに、煮え立つ油の爆ぜる音と、焦げた砂糖の重厚な匂いが、路地の隙間を埋めるように漂ってきた。
「……ッ、ちょっと待て」
自分の喉が勝手に鳴った。エリシアが不審げに振り返る。
優斗の視線の先には、黄金色に揚げられ、艶やかなタレを纏った肉が串に刺さって並んでいた。異世界に来てからというもの、木の実のような渋い代物しか口にしていない。
――腹が、減っている。
「なによ、急に――」
「すみません、これ一本」
エリシアの制止を無視して、優斗は露台の主人に指を立てていた。
愛想のいい丸顔の商人が、手際よく串を一本掴む。
先に代金を、という商売人の身振りに、優斗は習慣的に懐を探った。
……何もない。
ポケットをひっくり返し、ズボンの内側まで確かめる。
当然だ。
異世界転移の際、財布など持っているはずもなかった。
「……」
商人の笑顔が、微妙な角度に変わった。
愛想は崩れていないが、待っているという圧がある。
優斗は冷や汗を覚えながら、一歩引いて腕を組んでいるエリシアへ視線を投げた。
彼女はあからさまに目を逸らし、他人を装おうとしている。
「……エリシア」
「何」
「財布」
「…………」
「頼む。腹が減って、死にそうなんだよ……」
沈黙。
商人の視線が痛い。
エリシアは、はぁ、と重々しい溜息をつくと、観念したように腰の巾着に手を伸ばした。
しかし、中を覗き込んだ彼女の指が、ピタリと止まる。
かき回し、探り、そして彼女は無言で巾着の口を閉じた。
「……早く行くわよ。時間の無駄だわ」
「は? いや、買ってくれる流れだっただろ。この借りは倍にして――」
「いいから! 行くのよ!」
その声は平坦だったが、拒絶の重みがあった。
優斗が怯んで視線をずらすと、商人が呆れたように肩を竦めている。
後ろで、パチンと巾着を力任せにしまう音がした。
「……ないのよ」
「え?」
「お金がないの! 聞こえなかったの!?」
頬を赤く染めたエリシアの声が、雑踏のざわめきの中で妙に響いた。周囲を行き交う人々が、何事かと一瞬だけ視線を向ける。優斗は気まずさに肩を縮めた。
後ろでは、串焼き屋の主人がなんとも言えない顔でこちらを見ている。愛想笑いを崩してはいないが、早く退いてくれ、という圧は十分に伝わってきた。
「す、すみません。また今度……」
エリシアは逃げるように頭を下げると、そのまま踵を返した。
肩口まで赤くなっている。
優斗も慌ててその背を追いかけようとして――。
「……あれ?」
軽い声が、横合いから滑り込んできた。
「エリシアじゃん」
エリシアの足が止まる。
優斗もつられて振り返った。
人混みの向こうから、一人の少女がこちらへ歩いてくる。陽光を受けた亜麻色の髪がさらりと揺れた。
首元に細い金の鎖。耳には小さな石のついた飾り。上衣の刺繍は手が込んでいて、腰に提げた革袋もくたびれた様子がない。
全部が、ちゃんと選んで身に着けている感じだった。
少女は迷いなく二人の前まで来ると、ぱっと笑った。
「うわ、本当にエリシアだ。何年ぶり?」
「…………もしかして、ティノなの?」
エリシアの声が、少しだけ柔らかくなる。
肩が少しだけ緩んだような気がした。
優斗はそれに気づいて、少し意外に思った。
エリシアがこんなふうに力を抜いた声を出すのを、あまり見たことがない。
「そう、エリシアお嬢様の幼馴染。ティノちゃんでーす」
ティノは冗談っぽくそう名乗ると、にこりと笑ったまま二人の間に視線を滑らせた。
エリシアの赤い顔。
ぎこちなく逸らされた視線。
そこからさらに、気まずそうに肩を縮めている優斗へ。
最後に、こちらを見ている屋台の主人へと目を向ける。
ティノはそこで「あー」と小さく声を漏らした。
「もしかしてエリシア。今、お金持ってないの?」
「うるさいわね……」
「あは、図星なんだ」
ティノはくすくす笑う。
距離が近い。
というより、遠慮がない。
ティノはそこで、初めて優斗へ視線を向けた。
「それで、さっきから私をジロジロ見てるあなたはだあれ?」
いたずらっぽく目を細めながら、ティノが首を傾ける。
不意に話を振られ、優斗は一瞬言葉に詰まった。
「……いや、別にジロジロってほどじゃ」
「ヤダな、気づいてたに決まってるじゃん。あんなに熱烈な視線を向けられたらさ」
即答だった。
しかも妙に楽しそうだ。
優斗はなんとなく居心地が悪くなって視線を逸らした。
実際、目立つ奴だとは思っていた。人混みの中でも妙に存在感があるし、初対面なのに距離感も近い。
ただ、それを本人に指摘されると話は別だ。しかもティノはずっと、エリシアと話していた。こちらに目を向けていたわけじゃない。
なのに、どうして気づいたんだ?
ティノはそんな優斗の反応を見て、くすりと笑った。
「ふふ、冗談。そんな警戒しなくても取って食べたりしないよ」
「……警戒してるように見えるか?」
「ちょっと?」
一歩、近づいてくる。
優斗が後退しようとした瞬間、細い指が腕を掴んだ。思ったより力がある。
振りほどこうと反射的に力を込めたはずの腕が、まるで固定されたみたいに動かない。
気づけば、ティノの顔がすぐそこにあった。息がかかるくらいの距離で、ティノは優斗の目を覗き込む。
「……瞳の色、真っ黒だ」
「ッ!?」
「すごい珍しいね。この辺じゃ見ない色」
どこか面白がるような口調だった。
悪気があるわけでもない。
ただ、反応を見て楽しんでいるみたいに、ティノは目を細めながら、優斗の瞳を覗き込んでいる。
「ティノ」
冷えた声が飛んできた。
ティノがゆっくり振り返る。
エリシアが二人の間に割り込んだ。
目が据わっている。
「……離してあげて」
「えー」
「えー、じゃない。私の大切な連れなのよ」
一拍の間があった。
ティノはエリシアの顔を見て、それから優斗を見て、おかしそうに笑った。
「はいはい」
降参するみたいに両手を大げさに持ち上げ、そのままあっさり腕を離す。
優斗は反射的に一歩下がった。
心臓がうるさい。
なんだったんだ今の。
腕の感触だけがまだじわじわと残っていた。説明のつかない気持ち悪さ、とでも言うべきか。悪い奴じゃないのは分かる。
分かるけど……。
優斗の動揺を知ってか知らずか、ティノは悪戯っぽく目を細める。
「エリシアが知らない男の人連れて歩いてるの珍しいから。つい気になっちゃって」
ティノは優斗から視線を外し、隣のエリシアを覗き込むように首を傾けた。
「エリシア、昔っから人付き合い下手だったし」
「余計なお世話よ」
ティノが笑う。
エリシアは露骨に嫌そうな顔をしたが、本気で怒っている感じではなかった。
「それで?」
ティノが改めて優斗を見る。
思わず一歩後ずさる優斗を見て、愉快そうに笑みを浮かべる。
「あなたの名前は?」
「……榊原優斗」
「……ユウト?」
ティノが小さく瞬きをする。
そのまま、口の中で転がすみたいに繰り返した。
「ユウト、ねぇ。珍しい名前」
「そうか?」
「少なくとも、この辺じゃ聞かないかなぁ」
ティノの視線が、今度は優斗の服へ落ちる。
薄汚れたジャージ。擦り切れた裾。泥の跳ねた靴。
「服も変わってるし」
「……悪かったな」
「あはは、怒んないでよ」
ティノは楽しそうに肩を揺らした。
「でも結構ボロボロだよね。ちゃんと寝てる?」
「まあ……それなりには」
答えながら、自分でも酷い有様だと思った。鏡は見ていないが、多分顔色も悪い。
その自覚が浮かんだ直後だった。
ぐぅぅ、と。
場違いなくらい大きな音が鳴った。
一瞬遅れて、それが自分の腹だと気づく。
最悪だ。
優斗は思わず顔をしかめた。
見なくても、エリシアがこちらをにらみつけているのが分かる。
ティノがわかりやすく目を丸くする。
「わ、そんなにお腹すいてるの?」
「……まあ」
吹き出すみたいに笑いながら、ティノは串焼き屋へ目を向けた。
「いやぁ、それはちょっと可哀想だね」
ティノはそう言うと、くるりと踵を返して屋台へ向かった。店主へ軽く片手を上げ、慣れた様子で何か二、三言葉を交わす。
さっきまで困った顔をしていた店主が、今度は普通に笑っていた。やがてティノは、黄金色の串を三本抱えて戻ってくる。
「はい、どーぞ」
そう言って、まずエリシアの手元へ串を差し出した。
「……別に、私は」
「遠慮してる場合じゃないでしょ。顔赤いし」
「それは関係ないわよ!」
「あるある」
ティノは楽しそうに笑い、それから優斗にも一本差し出した。
「……いいのか?」
「いいよ?」
ティノはあっさり頷き、串を優斗の手に押しつけた。
熱い。
揚げたてらしく、指先にじわりと熱が伝わってくる。
そのまま一口かじろうとして――優斗は、ふと視線に気づいた。
ティノがじっとこっちを見ている。口元をゆるめながらも、その視線だけは優斗の持つ串から離れない。
「……なんだよ」
ティノは答えない。視線だけが、じっとこっちの顔に貼りついている。首が少し、右に傾いていた。
「んー?」
間延びした声が、わざとらしく優斗の反応を待っているようだった。
ティノは楽しそうに目を細めたまま、じっと見続けている。
「いや、そんな見られると食いづらいんだけど」
「あは、気にしなくて良いよ?」
ティノは否定もせず笑うだけだった。
優斗はなんとなく落ち着かなくなって、思わず自分の頬を触る。
「……俺の顔になんかついてる?」
「別に?」
「じゃあ何だよ」
「いいからいいから。冷める前に食べなって」
軽く促され、優斗は釈然としないまま串へ齧りついた。
サクりとした衣の中から、肉の濃厚な脂と、エキゾチックな香辛料の香りが一気に溢れ出した。
胃の奥に染み渡る熱に、優斗は思わずため息をつく。
「……うまいな。生き返る」
言ってから、ふとソフィアの顔が浮かんだ。朗らかに笑う、あの顔。
一緒に食べたかったな、と思った。
――もう帝都まで着いただろうか。
分かってる。分かってるんだ。
なのに腹は減るし、飯はうまいし、見知らぬ街の空気はどこか浮ついている。
串の残りを、口に運べなかった。
隣で人が笑っている。向こうの露台で子供が走っている。甘い匂いが流れてくる。
全部が、変な感じだった。
こんなにちゃんと続いている。
ソフィアがいないのに。
仕方なく顔を上げると、満足そうに笑うティノと目が合った。
「……うん、食べたね?」
「ん?」
ティノはねっとりとした動きで、優斗の串を指さす。
「これで貸し一つ」
「いや怖いこと言うなよ……」
優斗は思わず半歩だけ身を引いた。
「あはは。よく言うでしょ?」
ティノは自分の串をくるりと回しながら、悪戯っぽく笑う。
「タダほど高いものはないんだって。じゃあ、何してもらおうかなぁ~」
「ティノ」
横から、エリシアの低い声が飛んだ。
じとりとした視線が突き刺さる。
ティノはぱちぱちと瞬きをしてから、肩を竦めた。
「冗談だって」
一拍置いて、にこりと笑う。
「……半分だけ」
エリシアは呆れたように溜息をついた。
ティノは楽しそうに笑っている。
優斗には、どこまで本気なのかよく分からなかった。
ただ、こういうやり取りに慣れているのか、エリシアも本気で怒っている感じではない。
エリシアは小さく息を吐いてから、ティノへ向き直る。
「……悪いけど、私たち急いでるの」
「ん、何か用事?」
「領主様のお屋敷へ行くのよ」
その瞬間、ティノの目がほんの少しだけ細まった、ように見えた。
一瞬だったから、気のせいだったかもしれない。
「へぇ。領主様のとこね」
ティノはすぐにいつもの調子へ戻ると、くすっと笑った。
「でもエリシア、ちゃんと行けるの? よく迷子になってたよね? 優しいティノちゃんが案内してあげよっか?」
エリシアの眉が、ぴくりと動く。
「それは昔の話よ。もう大丈夫」
あっさりと返す。
声に棘はない。
ティノは小さく息を漏らした。
どうやらこのやり取り、何度も繰り返してきた感じがある。
エリシアも分かっていて、乗らないことにしているのだろう。
多分。
「ほんとかなぁ」
疑わしそうに言いながら、ティノは通りの先へ視線を向けた。
「あそこの角を右に曲がって、そのまま真っ直ぐ行けば石造りの大きな門が見えるから。それがお屋敷」
「……ありがとう」
エリシアの声が、少しだけ低くなる。
「どういたしまして~」
ティノはさらりと受け流した。
間を置かずに続ける。
「じゃ、私は仕事に戻ろうかな」
「仕事って、貴方ここで何してるの?」
「んー? 露店開いて、色々売ってま~す」
ティノは軽く言いながら、通りの流れに目を向けた。
「最近、帝国の方がちょっと不穏でさ。動くなら安全な場所の方がいいでしょ?」
さらりとした言い方だった。帝国という単語も、彼女の中ではただの地名と変わらないようだった。ただ当然の判断をしているだけという口ぶり。
優斗はちらりとエリシアを見た。
彼女の表情は動いていない。
ティノも、エリシアの方を特に気にした様子はなかった。
「ここ、人も色々いるからやりやすいんだよね。旅人も多いし、お金も流れるし」
ティノは通りを行き交う人の流れを眺めながら言った。
優斗もつられて視線を向ける。途切れることなく人が流れ、露台が連なり、その奥にまだ通りが続いている。門をくぐってからずっと歩いているのに、まだ端が見えない。
この街、思ったよりずっとでかいな、と今さら気づいた。
「ま、暇だったら来てよ。借り、まだ返してもらってないし」
「どこに行けば会えるんだ?」
「さぁ? 毎日、いろんな場所にいるからね」
ティノは肩を竦める。
本当に気にしていない様子だった。
「雑だな……」
ティノはひらりと手を振った。
「それじゃあ、またね~。ばいばーい」
そう言って、ティノは人混みの中へ軽やかに消えていった。
亜麻色の髪が雑踏へ紛れて見えなくなる。優斗はその背中をぼんやり見送った。
——なぜか、得をした気がしなかった。
串は食べた。道も教えてもらった。悪い奴じゃないのは分かる。
親切にされたはずなのに、むしろ距離は縮まらず、輪郭だけがぼやけたような感覚が残った。




