新たな森と、最初の居候たち
太い木の根が、地の底深くから次々と伸びてきた。
岩の隙間を縫うように絡み合い、複雑に枝分かれしながら成長していく。
今度、アリシアは水の流れを無理に押し止めようとはしなかった。
代わりに木の根を使い、少しずつ川底の形を変えていく。
地下から湧き出した水を、脇にある低地へと誘導していった。
やがて、水の勢いが弱まり始める。
激しくぶつかり合っていた水流も、いくつもの流れに分かれていった。
「今だ!」
アリシアはその隙を逃さなかった。
一気に駆け出し、すぐ近くにいた一匹の子どもを抱き上げる。
「よし、もう大丈夫!」
小さな毛玉を胸に抱き、もう片方の手で大耳の毛玉の前足をしっかりと掴む。
歯を食いしばりながら、親子を連れて上方にある安全な岩棚まで退避した。
ゴゴゴゴ……。
崩落の音が、少しずつ遠ざかっていく。
激しい水流は新しくできた水路を通って流れ、最後には元の小川へと合流していった。
アリシアはその場にへたり込み、大きく息を吐いた。
腕の中の小さな毛玉が顔を上げる。
そして、様子をうかがうように小さな舌を伸ばし、泥まみれになったアリシアの指先をぺろりと舐めた。
「……ずいぶん元気そうね」
思わず笑みがこぼれる。
張り詰めていた緊張が、一気にほどけていった。
大耳の毛玉も感謝を伝えるように近づいてきて、丸い額をアリシアの腕にそっと押しつけた。
その直後。
三匹の子どもたちが、シュバッ! と一斉に母親のお腹の下へ潜り込んだ。
まるで順番待ちでもしていたかのように、三匹とも一瞬でふわふわの毛の中へ滑り込んでいく。
そこから覗いているのは、六つの小さな目だけだった。
アリシアは微笑みながら、三匹の頭を優しく撫でた。
「次からは、こんなときに勝手に走り回っちゃダメだからね?」
「きゅ~」
もちろん、言葉が通じているわけではない。
それでも、今はみんな無事だ。
それだけで十分だった。
アリシアは立ち上がり、先ほど崩れた場所へと振り返る。
地下水路は完全に姿を現していた。
岩盤の奥から澄んだ水が絶え間なく湧き出し、新しくできた水路を通って遠くへと流れていく。
乾いていた地面も少しずつ水を含み、あちこちから見たことのない植物が競い合うように芽を出し始めていた。
透明な羽を持つ虫たちが水面へ飛んできて、ちょん、と水に触れる。
湿った岩の隙間からは、白い小さなカタツムリが触角を伸ばしていた。
さらに遠くでは、草むらが突然揺れた。
何か小さな生き物が、新しく生まれた茂みの中へと素早く姿を消していく。
アリシアは、その光景をじっと見つめていた。
やがて、彼女の顔から笑みがゆっくりと消えていく。
ようやく理解したのだ。
これは、単なる生態系の変化ではない。
あの金色の苗木は、この土地そのものを変えようとしている。
かつては生命の気配すらなかった地下世界を、少しずつ命を育む場所へと変えているのだ。
「……大きくなっているだけじゃないんだね」
アリシアは森の奥を見つめ、静かに呟いた。
「ここを……生き物が暮らせる場所にしているんだ」
遠くで、金色の苗木の葉がそよ風に揺れるように震えた。
細かな光の粒が枝から幹へと流れ、そのまま地面の奥へと静かに消えていく。
アリシアはしばらく黙って、その光景を眺めていた。
胸の奥に、不思議な温かさが広がっていく。
そして――。
「……あっ」
ふと、自分の小屋のことを思い出した。
「……待って」
アリシアの顔色が変わる。
勢いよく振り返ると、そのまま全力で駆け出した。
「私の家は無事なのーー!?」
幸い、住処に戻ってみると、木造の小屋はちゃんと元の場所に建っていた。
ただし、家の脇にはいつの間にか小さな水路ができている。
さらに、床下から突き出した太い木の根が、昨日玄関先に置いておいた木桶を宙へと押し上げていた。
アリシアは、今にも落ちそうな木桶を見上げる。
「…………」
無言のまま手を伸ばし、木桶を取り下ろした。
「……今日の仕事、また増えたわね」
彼女は少し時間をかけて玄関周りを片付け、それから恐る恐る菜園の様子を確認した。
柵はほとんど壊滅状態。
何株かのベリーも、新しく伸びた蔓に押し潰されていた。
幸い、一番大切にしていた野菜は無事だった。
ただ、土は昨日よりもずっと湿っている。
そのおかげか、野菜の葉はいつも以上に瑞々しく、つやつやとしていた。
「……少なくとも、夕飯は食べられそうね」
アリシアは苦笑しながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
小さく鼻をすすり、しゃがみ込む。
夕食用に、柔らかそうな葉を何枚か収穫しようとした、そのときだった。
サワサワ……。
背後の森から、重々しい音が響いた。
風が葉を揺らす音とは違う。
何か大きなものが、重たい足を引きずりながら、一歩ずつ近づいてくるような音だった。
大耳の毛玉の耳が、ピンッと二本のアンテナのように立ち上がる。
お腹の下に隠れていた三匹の子どもたちも、六つの目を大きく見開いた。
「……どうしたの?」
アリシアは、毛玉たちが警戒している方向へ視線を向けた。
すると――。
森の端に生い茂っていた茂みが、左右に大きく押し開かれた。
その向こうから、一匹の巨大な生き物が姿を現した。
背中は分厚い苔に覆われ、四本の脚はまるで石柱のように太い。
頭には、緩やかに湾曲した二本の角が生えていた。
一歩踏み出すたびに、地面の泥も背中の苔も、ぶるんと大きく揺れる。
その生き物は湿った大きな鼻をひくひくと動かし、空気の匂いを嗅いだ。
そして、まるで何かを見つけたかのように、その視線を菜園へと向けた。
アリシアの目が鋭くなる。
そっと魔杖を握り直し、息を潜めた。
(……何? 森を守るような魔物? それとも、危険な上位魔物……?)
しかし、その巨大な生き物はアリシアにはまったく興味を示さなかった。
ゆっくりと壊れた柵をまたぎ、菜園の中へと入ってくる。
そして、目の前にあった大きな白菜に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
次の瞬間。
ぱかっ。
大きな口が開き、そのまま白菜にかぶりついた。
ガブッ。
「…………」
アリシアは、その場で完全に固まった。
それは、今夜の夕食に野菜スープを作るために、大切に育てていた一番立派な白菜だった。
「…………」
巨大な生き物は、もぐもぐと白菜を噛みしめている。
その表情は、見るからに幸せそうだった。
しかも、アリシアのことなど一瞥もせず、再び頭を下げた。
ガブッ。
二口目。
アリシアは、見る見るうちに葉を失っていく白菜を見つめた。
こめかみに、ピキッと青筋が浮かぶ。
「……ちょっと」
その声に、ようやく生き物が顔を上げた。
口元には、食べ残した緑色の葉が半分ほどぶら下がっている。
もぐもぐと口を動かしながら、あまりにも無邪気で純粋な目でアリシアを見つめていた。
まるで、
『ごちそうさま』
とでも言いたげな顔だった。
アリシアは深く息を吸い込んだ。
そして、口元に笑みを浮かべる。
ただし、その笑顔には一切の温度がない。
ゆっくりと、ゆっくりと、手にした魔杖を持ち上げた。
杖の先端では、危険な火花がパチパチと弾け始めている。
「それは……私の……夕飯なのよ。この、苔を背負った図々しい角付き野郎……!」
そのときだった。
森の奥で、さらに多くの枝葉が激しく揺れ始めた。
ガサガサガサガサ――!
今度は、一つの重たい足音だけではなかった。
サワサワサワ……。
森の奥から、何か大勢の生き物が菜園に向かって移動してくる気配がする。
「…………」
アリシアの口元に浮かんでいた笑みが、完全に引きつった。
どうやら、この新しく生まれた森は、早くも最初の客を迎えたらしい。
――彼女の菜園を食い荒らし、食費を押し上げようとする、遠慮知らずの居候たちを。
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