従業員宿舎・福利厚生最適化プロジェクト
「持続可能な経営」という目標は決まった。
だが、この拠点の最高責任者兼、唯一の従業員であるアリシアは、すぐにある重大なバグに気づくこととなる。
「人間工学に基づかないオフィス環境は、生産性を低下させる最大の敵である」
アリシアは、固い草むらで寝たせいで寝違えた首をさすりながら、無表情で自分のベッドを見つめていた。
――ただの干し草である。
ここに来た当初は、生き延びることと家庭菜園の整備だけで精一杯だった。
毎日犬のように働き、眠くなればその辺の草むらで泥のように眠る。
快適さなど、完全に二の次だった。
しかし、食料が確保され、現地の住民――もふもふ小動物たちとの関係も安定した今。
かつてトップ社畜だったアリシアの中に眠っていた、「職場環境の品質」へのこだわりが、ついに爆発した。
毎晩、ホームレスのように小石と干し草の上で寝る。
もう耐えられない。
「よし。本日の菜園開拓は中止!」
アリシアはバシッ、と自分の太ももを叩いた。
「正式にプロジェクトを発足します――『キャンプ地ハードウェアのアップグレード、および福利厚生最適化計画』!」
妙に気合の入った声とともに、杖を握りしめる。
こうしてアリシアは、仮住まいを飛び出した。
まず必要なのは、本物のベッド。
それから、簡単な机と椅子。
そして、それらを作るために必要なのは――木材だ。
しかし、この広大な地下洞窟に生えているのは、巨大なパイナップルや多肉植物のような、水分をたっぷり含んだ奇妙な植物ばかり。
家具の材料には、到底使えそうにない。
アリシアは、曲がりくねった地下の川に沿って下流へ向かった。
ここ数日の観察によれば、あの辺りの岩壁には、極めて硬い漆黒の低木が生えているはずだった。
ササッ……。
歩き始めて間もなく、背後の草むらから聞き覚えのある音がした。
「……やっぱりね」
アリシアが振り返る。
案の定、葉っぱの隙間から、うちわのように大きな耳がピコピコと揺れていた。
しかも、今回は「おやつ泥棒」だけではない。
丸々とした大耳毛玉の後ろから、ヨチヨチと不器用についてくる三匹の灰色の小毛玉。
ようやく歩き方を覚えたばかりの幼獣たちだ。
三匹並んで歩く姿は、まるで出来立ての小さなお団子。
きらきらした瞳で、アリシアをじっと見つめている。
「今日は無料の午前のおやつは用意してないわよ、パートナー?」
アリシアは思わず笑い、しゃがみ込んで空っぽの手のひらを見せた。
「きゅっ!」
大耳毛玉はフンスと鼻を鳴らし、首を傾げた。
この巨大な二本足が、今日は一体どこへ出張するつもりなのか。
そんな顔をしている。
アリシアが再び歩き出すと、大耳毛玉は尻尾を振った。
そして三匹の子供を連れて、そのまま彼女の黒いローブの後ろをついてくる。
大人一匹、子供四匹。
薄暗い洞窟の中に、なんとも奇妙な行列が出来上がった。
――それから半時間。
アリシアは、切り立った岩壁の前で目的の植物を見つけた。
地下低木。
通称――「鉄骨木」。
岩のように黒く乾燥した樹皮を持ち、その見た目どおり、非常に硬く重い。
アリシアは深く息を吸い、杖を強く握りしめた。
(魔力を先端に集中させて……鋭いノコギリをイメージする)
魔女の知識を思い出しながら、魔力を杖の先端へ集める。
淡い紫色の光が凝縮し、やがて高速回転する魔力の刃へと変わっていく。
「――いけっ!」
ギギギギギギ――ッ!
静まり返った洞窟に、耳を突き刺すような切断音が響き渡った。
木の香りが一気に広がる。
次の瞬間。
大人の腕ほどの太さがある鉄骨木が、ドサリと地面へ落ちた。
「きゅ、きゅ~っ!?」
突然の爆音に、三匹の小毛玉たちは驚いて数歩後退した。
そのまま、お尻をペタンと地面につく。
大耳毛玉にいたっては、一瞬で全身の毛を逆立て、必死に子供たちの前へ立ちはだかった。
だが。
黒い木がただ切り倒されただけで、アリシアに攻撃の意志がないことを理解すると。
その黒い瞳は、驚愕へ。
そして、やがて畏敬へと変わった。
弱肉強食の地下世界。
あれほど硬い鉄骨木を、いとも簡単に切り裂く力。
それは、この小さな生き物たちにとって、疑いようのない「強者」の証だった。
「ふぅ……」
アリシアは額の汗を拭った。
「思ったより魔力の消費が激しいわね。やっぱりハードウェアの調達は一番コストがかかるわ」
そして、地面に転がった鉄骨木を見下ろす。
――重い。
想像以上に重かった。
これを一本ずつ拠点まで運ぶとなれば、新しいベッドに横たわる前に腰が壊れる。
「……仕方ない。やるしかないか」
アリシアが気合を入れて木材を担ごうとした、その時だった。
足元に、かすかな引っ張り感があった。
「ん?」
視線を落とす。
すると――。
いつの間にか近づいていた大耳毛玉が、その滑稽なほど短い前足で、木材の反対側を必死に抱え込んでいた。
頬をぷっくり膨らませ、拠点の方向へ全力で引っ張っている。
「きゅーーっ! きゅーーっ!」
小さな身体から、ありったけの力を振り絞る。
だが。
木材が重すぎる。
地面の上を、ほんの数ミリ動かすのが精一杯だった。
それでも、大耳毛玉は諦めない。
すると、その姿を見た三匹の小毛玉たちもヨチヨチと近づいてきた。
一匹は大耳毛玉の尻尾を引っ張る。
残りの二匹は、丸い頭で木材のお尻を押す。
「きゅっ!」
「きゅー!」
「きゅいっ!」
四匹が力を合わせる。
だが――。
動かない。
岩壁の下で、四匹が必死に木材を押したり引いたりする。
その姿は、まるで不器用な小さな列車だった。
(画面の感動指数は100点だけど、総出力は扇風機以下かもしれない(๑ ́ᄇ`๑)。)
アリシアは、思わず笑ってしまった。
そして、その瞬間。
長年の社畜生活で築き上げてきた、彼女の冷たい心の壁が――跡形もなく崩れた。
「……あなたたち、私を手伝ってくれてるの?」
アリシアは、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
その瞳には、隠しきれない優しさが滲んでいた。
かつての会社では。
部下たちは何をするにもKPIを気にし、一時間の残業ですら、裏では愚痴をこぼしていた。
けれど。
言葉も通じない、この地底の小さな命たちは。
ただ数粒の果物をもらっただけ。
足を洗ってあげただけ。
それだけなのに。
今日、自分たちの小さな身体で、彼女の負担を分かち合おうとしている。
ボーナスのためでもない。
上司へのアピールでもない。
ただ純粋に。
家族としての恩返しだった。
「よしよし」
アリシアは大耳毛玉の頭を優しく撫でた。
「プロジェクトマネージャー。あなたたちの支援要請を受理しました」
「きゅ……」
大耳毛玉は少し照れたように耳をピコピコさせる。
もう、逃げようとはしなかった。
アリシアはナイフで鉄骨木の先端に溝を掘り、蔦を通してしっかりと結ぶ。
そして太い蔓を自分の肩へかけた。
「それじゃあ――」
アリシアが前へ回る。
大耳毛玉が後ろにつく。
三匹の小毛玉たちは、その周囲をぴょんぴょん跳ね回る。
「せーのっ!」
「きゅーーっ!」
「プロジェクト進行!」
アリシアが引っ張る。
大耳毛玉が押す。
三匹の小毛玉たちが、なぜか応援する。
退屈で過酷なはずだった肉体労働は。
いつの間にか、笑顔の絶えないイベントへと変わっていた。
拠点へ戻った頃には、すでに正午だった。
アリシアは形振り構わず地面に大の字になった。
大耳毛玉一家も、その横でお腹をペコペコにしてぐったりしている。
「……疲れた」
アリシアはしばらく動かなかったが、やがてむくりと起き上がった。
そして、川の水できれいに洗った完熟の紫色の木の実を、石の上へ綺麗に並べる。
「お疲れ様」
四匹の視線が、一斉に果実へ向いた。
「これは今日の特別インセンティブ。全員に支給します」
次の瞬間。
四匹の目が輝いた。
「きゅっ!」
嬉しそうに果実へ群がっていく。
――それから数日。
アリシアの「自宅ハードウェアアップグレード計画」は、怒涛の勢いで進んだ。
魔力で鉄骨木を平らな木板へ切り分け、蔓でしっかりと固定する。
地面から少し浮かせた、頑丈なベッドフレームが完成した。
さらに、小毛玉たちを引き連れて洞窟内の日当たりの良い場所へ向かい、爽やかな香りを放つ「綿絮草」を大量に採集する。
乾燥させた綿絮草は、柔らかく、真っ白だった。
それをベッドフレームの上へ、これでもかというほど厚く敷き詰める。
完成した瞬間。
アリシアは我慢できず、そのままベッドへ身体を投げ出した。
ふわっ。
全身が柔らかな綿絮草に包み込まれる。
淡い植物の香りが鼻をくすぐり、疲れ切った身体から力が抜けていく。
「……最高」
アリシアは、自分で作ったベッドに横たわったまま、天井でゆらゆらと輝く青い微光を見つめた。
ここには高級なベッドもない。
デザイナーズ家具もない。
けれど。
空気には洗いたての果実の甘い香りが漂い、耳元には地下川のせせらぎが響いている。
少し離れた岩陰では、三匹の小毛玉たちがお母さんの胸に顔を埋め、すやすやと眠っていた。
かつては、ただの冷たく静かな避難所だった。
それがいつの間にか。
彼女にとっての「家」になっていた。
ここでは、労働が快適な睡眠へと変わる。
そして、差し出した善意は、条件のない温もりとなって返ってくる。
アリシアは寝返りを打ち、柔らかな綿絮草へ顔を埋めた。
自然と口元が緩む。
「……こんな職場環境なら、一生退職しなくてもいいかも」
そのまま。
アリシアは、深い眠りへと落ちていった。
――しかし。
彼女はまだ知らない。
数日前、自分が「金の種」を植えた場所から。
前日よりも遥かに濃厚で、清らかな森の香りを含んだ風が、静かに吹き抜けていることを。
その風は石の隙間を抜け、地底のさらに深い場所へと流れていく。
万物の生命を呼び覚ますような、不可思議な風。
それは、地底の最深部へ届いた。
――地底、一万メートル。
数万年もの眠りについていた、巨大な黒龍。
その巨大な瞼が、微かに動いた。
マグマよりも熱い鼻孔が、大きく息を吸い込む。
「……フンス」
次の瞬間。
黒龍の眉間が、不快そうに歪んだ。
――おかしい。
我が領域に。
なぜ突然、こんなにも鼻がムズムズするような忌々しい植物の香りが満ちているのだ?
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