国交樹立を拒否する現地住民
アリシアが目を覚ますと、視界いっぱいに緑が広がっていた。
――というより、顔に葉っぱが一枚乗っていた。
彼女は葉脈を三秒ほどじっと見つめ、それからようやく、昨日の悲惨な記憶が遅れて蘇ってきた。
暴走したクトゥルフ植物。
地面いっぱいに飛び散った粘つく果汁。
そして最後に、彼女の額へ正確に命中した、警棒並みの威力を持つ赤い果実。
「……私、いったい何を間違えて、植物なんかと張り合ってるんだろう」
こめかみを揉みながら、アリシアは身体を起こした。
額のたんこぶはすっかり引いている。
けれど、心の傷はまだ残っていた。
アリシアは迷うことなく、あの赤い果実を永久採用禁止リストに登録した。
少なくとも、あいつらがどういう理屈で成長しているのか理解するまでは、絶対に二度と第一号モルモットにはならない。
立ち上がり、黒いローブについた埃を払った、そのときだった。
草むらから、ガサガサという音が聞こえてきた。
アリシアの身体がぴたりと止まる。
この地下洞窟は、普段から不気味なほど静かだ。
聞こえるのは水が流れる音と、遠くから時折響いてくる正体不明の低い唸り声くらい。
ちなみにアリシアは、それを「何らかの風洞による物理現象」だと固く信じている。
しかし、今聞こえている音は明らかに近い。
まるで、毛むくじゃらの小さな何かが、草むらの中で必死に食べ物を探しているようだった。
アリシアは警戒しながら杖を握り直し、足音を立てないようにゆっくりと近づいていく。
「もし昨日の植物の第二世代だったら、今日は本当にその場で辞表を提出するからね……」
草むらが大きく揺れた。
次の瞬間。
灰褐色の毛玉が、何の前触れもなく「ぽんっ」と飛び出してきた。
「ひゃっ!」
アリシアは驚いて三歩後退する。
毛玉のほうも慌てて急ブレーキをかけた。
二組の大きな目が、三メートルにも満たない距離で向かい合う。
その光景は、なんとも間の抜けたものだった。
そこにいたのは、奇妙な小動物だった。
丸々とした身体は細かな灰色の毛に埋もれ、四本の短い脚はほとんど見えない。
その代わり、頭の両側にはうちわのように大きな耳が生えていて、ぷるぷると小刻みに震えている。
鼻先には新鮮な土がついていて、口にはまるで犯罪の証拠品のような若葉を半分だけくわえていた。
見るからに無害そうだ。
少なくとも、昨日のように物理攻撃を仕掛けてくるパワハラ植物よりは、ずっと安全に見える。
張り詰めていたアリシアの肩から、ようやく力が抜けた。
「なんだ、小動物か……」
アリシアは試すようにしゃがみ込み、重要顧客に向けるような愛想のいい笑顔を浮かべながら、ゆっくりと手を伸ばした。
小動物は首を傾げた。
そして次の瞬間。
「ぺっ」
口にくわえていた葉っぱを吐き捨てると、灰色の残像となって走り去った。
「待って! 私、別に食べたりしないから!」
アリシアは反射的に二歩ほど追いかけた。
しかし、小動物はまるでドジョウのように岩の隙間へ潜り込み、そのまま跡形もなく消えてしまった。
「……そっか。異世界に来ても、人間関係の開拓は相変わらず赤字か」
アリシアは無奈そうに自嘲した。
そのまま帰ろうとしたところで、ふと目に入ったものがあった。
小動物が先ほどまでいた場所に、丸々とした果実がいくつか転がっている。
人を殴り倒す凶器のようなものではない。
親指ほどの大きさで、表面には薄紫色の霧がまとわりついている。
そのうちの一つには、小さな歯形まで残っていた。
アリシアは果実を拾い上げ、鼻先へ近づける。
刺激臭はない。
それに、凶暴な魔力の気配も感じられなかった。
好奇心を抑え込み、果実をしまう。
未知の環境で一番困るのは、食料が足りないことではない。
何が食べられて、何に触れてはいけないのか。
その常識がないことだ。
そう考えると、さっきの小動物はまさに天然の生態ガイドだった。
そう思った瞬間、さっきまでの憂鬱な気分が一気に晴れていく。
「よし。今日は農家を休業して、生態調査員に転職しよう」
ポケットを軽く叩き、アリシアは悪戯っぽく付け加えた。
「もちろん、このプロジェクトでは爆発する調査対象は一切お断りで」
しかし、振り返った直後だった。
また、あの聞き慣れた「ガサガサ」という音が背後から聞こえてきた。
あの灰褐色の毛玉が、岩陰から頭だけを覗かせている。
小動物は怯えたようにアリシアをちらちらと見た。
そして、その視線が彼女のポケットへ移る。
小さな鼻が、くんくんと何度も動いた。
一人と一匹は、再び向かい合った。
「……これが欲しいの?」
アリシアは思わず笑ってしまった。
指先で淡い紫色の果実を一つつまみ、地面へそっと置く。
そして、自分から数メートル後ろへ下がった。
小動物は小さな頭を左右に揺らした。
やがて誘惑に勝てなくなったのか、そろそろと岩陰から這い出してくる。
そして一気に駆け寄ると、果実をくわえた。
咀嚼する暇さえ惜しいと言わんばかりに、そのまま風のような速さで岩の隙間へ戻っていった。
今回は、アリシアも追いかけなかった。
ただその場に立ち、空っぽになった岩の隙間を眺める。
気づけば、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
これが、この世界に来てから初めて受け取った「向こうから近づいてきてくれたもの」だった。
もっとも、相手は貢ぎ物だけを受け取って逃げていく、現実的すぎる小動物だ。
どう見ても、国交を樹立するつもりはない。
でも、それがどうしたというのだろう。
以前、会社でコンビニのおにぎりを食べているだけでも、連続で届く業務連絡に邪魔されていた。
それが今はどうだ。
静かで暗い地下世界で、アリシアは一匹の小動物が自分の善意を受け取るかどうかを、穏やかな気持ちで待っていられる。
ここには、命を削るような連続着信もない。
上司からの未読メッセージもない。
退勤時間までに提出しなければならない緊急報告書もない。
アリシアはゆっくりと息を吸い込んだ。
湿った土の匂いに、ほんのり甘い果実の香りが混ざって、胸いっぱいに広がる。
「……この生活、案外悪くないかも」
彼女は自分の小さな拠点へ向かって歩き出した。
足取りは、さっきまでよりずっと軽い。
これから必要になる生活用品について考えながら、アリシアは歩いていく。
あの食いしん坊な毛玉がまた来るかどうかは、そのときになればいい。
なるようになる。
もう二度と、異世界での生活まで、必死に目標達成を追いかける「KPIプロジェクト」にはしたくない。
――アリシアは知らなかった。
彼女が立ち去ってから、しばらくして。
岩の隙間から、再び大きな耳がひょこりと現れた。
小動物は果実をくわえたまま、遠ざかっていく黒いローブの背中をじっと見つめている。
その大きな耳が、ぴくりと動いた。
まるで、何かの匂いを覚えているかのように。
やがて小動物は安心したように、さらに奥深く、草むらの中へと姿を消した。
地下洞窟は再び静寂に包まれる。
そしてアリシアの新しい生活は、目覚まし時計に急かされることのない朝に、小さな一歩を踏み出した。
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