異世界の植物にもパワハラされる
アリシアは地面にしゃがみ込み、指の間にはまだ湿った土が付いていた。
自分で掘った小さな穴を見つめ、それから近くの茂みから採ってきたばかりの、正体不明の赤い果実へと視線を移す。アリシアは大きく息を吸った。
「契約書はないけど、ここで寝ていたんだから、名義上はこの土地も私の固定資産ってことでいいよね」
アリシアは存在しない眼鏡を押し上げるような仕草をし、まるで年度予算を審査するかのように鋭い目をした。
満員電車に乗る必要もない。メッセージに即返信する必要もない。上司の顔色をうかがう必要もない。
この地下洞窟は、まるで夢のように美しい。
たまに地底の奥から低い轟音が響いてくるが、百戦錬磨のプロジェクトマネージャー(PM)だった彼女は、まったく気にしていなかった。
「天然の風洞現象みたいなものかな。地質構造については要調査だけど、環境騒音は許容範囲内。建設計画には影響なし」
アリシアは慣れた手つきで頭の中にSWOT分析を組み立てると、楽しそうに目を閉じた。
「よし、プロジェクト始動――第一期、菜園開拓!」
アリシアは頭の中に流れ込んできた「魔女の常識」を頼りに、手のひらを地面へ押し当てる。
体内にある不思議な魔力を引き出し、土壌を活性化させようとする。
かつて予算を投入してプロジェクトを推進していたのと、やっていることは大して変わらない。
ブゥン――。
淡い紫色の魔力が手のひらから流れ出し、容赦なく地中へと注ぎ込まれていく。
しかし、アリシアは知らなかった。
この地下世界が、ただの荒野などではないことを。
ここは、太古の黒龍が巣としている場所。
この地底で千年もの間眠り続ける黒龍の吐息や、無意識に漏れ出す龍の威圧は、すでに周囲の土壌へ染み込んでいた。
それは普通の魔物なら触れただけで身体が弾け飛ぶほど危険であり、同時に、異常なまでに肥沃な――「龍脈の土」と呼ぶべきものだった。
そして今。
何も知らない過労魔女が、そんな黒龍の寝床へ自分の魔力を遠慮なく流し込んでいる。
地中深くで二つの力がぶつかり合い、長きにわたって保たれていた均衡が、瞬く間に崩れた。
ゴゴゴゴゴ……!
突然、地面が激しく揺れ始めた。
頭上から小さな岩の欠片まで落ちてくる。
「わあっ! 地震!? 予期せぬ自然災害による不可抗力!?」
アリシアは転びそうになり、慌てて隣の岩壁に手をついた。
だが、社畜としての尊厳が彼女を逃げさせなかった。
「ダメ! プロジェクトを始動した以上、絶対に中止なんてできない!」
その直後。
彼女の目の前で、信じられない光景が起こった。
先ほど赤い果実を埋めたばかりの土が、まるで沸騰しているかのように激しく盛り上がり始めた。
パキッ。
一本の太い芽が、土を突き破る。
パキッ、パキッ、パキッ!
わずか五秒。
その芽は目に見える速度で一気に伸び、葉を広げていく。
そしてあっという間に、二メートルを超える高さまで成長した。
鋭い棘と、どこか不気味な巨大な葉。
それは完全に暴走した植物だった。
「ちょっと待って。この異世界の肥料、生産効率が物理法則を無視しすぎじゃない!?」
巨大な葉の隙間から、大きなパイナップルのような赤い果実が次々と現れる。
しかし、成長速度が速すぎた。
果実はまるで機関銃のような勢いで、アリシアへ向かって次々と飛んできた。
「痛い! 待って! ストップ! これ、農業じゃなくて完全にパワハラじゃない!」
アリシアは頭を抱えながら逃げ回り、次々と果実に叩きのめされる。
そして最後に。
ドゴン!
巨大な果実が、狙い澄ましたように彼女の額へ直撃した。
世界が静かになった。
植物は果実をすべて吐き出すと、まるで養分を使い果たしたかのように、一瞬で枯れ果て、黒い灰へと変わった。
アリシアは腫れ上がった額を押さえ、涙目になりながら地面にしゃがみ込む。
辺りには潰れた果実と果汁が散乱し、最初に耕した土まで無惨に踏み荒らされていた。
アリシアは泣きそうになるのを必死にこらえながら、ポケットから唯一無傷だった果実を取り出す。
「……よし。スケジュールは大幅前倒し。生産量は想定を大幅に超過。ただし、製品歩留まりは極めて低く、重大な労災事故まで発生」
彼女はその果実をじっと見つめる。
その目が、次第に冷たく、真剣なものへと変わっていった。
「これは完全に失敗した生産ラインのテスト。明日の朝一番で、この植物の成長ロジックを全面的に検証して、ポストモーテムを実施しないと」
その頃。
地底深くでは、黒龍が息を潜めていた。
数万年を生きてきた黒龍でさえ、自分の寝床に魔力を流し込む人間を見るのは初めてだった。
しかも、そのせいで大量の植物の根が腹を突き刺してくる。
もし先ほどの魔力がもっと強かったなら、とっくにこの愚かな人間を龍の吐息で蒸発させていただろう。
だが、実際に感じた魔力はあまりにも弱かった。
まるで蟻が身体を這っている程度のものだった。
だからこそ、黒龍はただひたすらに不機嫌だった。
やがて黒龍は、大きく寝返りを打った。
その瞬間。
恐ろしいほどの威圧が、津波のように地底を駆け抜けた。
――刹那。
洞窟の空気が凍りついた。
アリシアの身体が完全に硬直する。
呼吸が少し苦しい。
だが彼女は鼻を軽くこすり、いつもの癖で手首へ目をやった。
そこには、もう腕時計など存在しない。
「うーん、空気が薄くなった……やっぱり地下って酸欠になりやすいのかな。でも、もう時間もいい頃だし。今日の作業進捗は目標達成したから、当然だけど、もう定時で上がっていいよね」
彼女は、それを生物が放つ威圧だとはまったく思わなかった。
ただの「自然現象」だと思っていた。
アリシアは岩にもたれて座り、手にした果実へかじりつく。
甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、彼女は幸せそうに目を細めた。
「地盤は不安定だし、植物には社員を殴られるし……でも、少なくともこれは自分で選んだ残業だから」
アリシアは満足そうに呟く。
「もう誰にも、緊急メールを理由に休暇を取り上げられることはない」
ふぁ、と欠伸をする。
残った果実を大切にしまう。
この土地がどうしてこんなに奇妙なのか。
そんなことは――。
もう退勤したのだから、明日の仕事だ。
今日はただ、ゆっくり眠れる場所を探して、ぐっすり眠りたい。
そして、暗い地底の奥。
黒龍は静かに暗赤色の縦瞳を開き、自分の縄張りで一方的に「退勤」を宣言したかと思えば、そのまま何の警戒もなくすやすやと眠り始めた奇妙な人間を見つめていた。
数万年の生涯で初めて。
黒龍は、最も長く、そして最も呆れた沈黙に包まれていた。
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